【俺の家の話】能楽師・観山寿一とNFLの伝説的名将ビンス・ロンバルディの奇妙な縁
TBSテレビで放映中の人気ドラマ『俺の家の話』が、ついに今週の金曜日、3月26日夜10時から最終回を放送する。
日本を代表する脚本家の宮藤官九郎と、このドラマを最後にジャニーズ事務所を退所する長瀬智也が黄金タッグを復活させたこのドラマは、SNSを中心に大きな話題を集めている。
寿一が愛用するNFLアパレルがNFLファンの間で話題に
その話題の一つが、長瀬が演じる主人公の能楽師兼プロレスラー、観山寿一が着るNFLチームのアパレル。ラスベガス・レイダースとサンフランシスコ・49ナーズのスタジャン、デンバー・ブロンコズ、ピッツバーグ・スティーラーズ、ミネソタ・バイキングスのTシャツ、アトランタ・ファルコンズのパンツなどを寿一は普段着として着用。NFLアパレルを着用する率のあまりの高さに、数少ない日本のNFLファンたちはドラマの展開以上に注目した。
プロレスラーの寿一が過去にアメリカンフットボールのプレー経験があるのか?NFLのファンなのか?などの謎に関しては、9話までのドラマでは全く触れられていないが、ドラマで明らかになっている事実から1つだけNFLと寿一の明らかな繋がりを見つけることができる。
それは、ブルーザー・ブロディの存在だ。
ブロディに憧れてプロレスラーになった寿一
人間国宝の能楽師、観山寿三郎(西田敏行)の長男として生まれた寿一は、父親と心から触れ合うことを望みながらも、父親から怒られたことも褒められたことも一度もなかった。
寿三郎と寿一のただ一つの共通言語はプロレスで、幼い頃に父親の膝の上に座りながらテレビ観戦したブルーザー・ブロディ対アントニオ猪木戦の思い出を大切にし、17歳で家を出てプロレス界に足を踏み入れた。
憧れのブロディにあやかって、リングネームはブルーザー寿一にすると決めていたが、デビュー戦のリングアナウンサーが「Bruiser」を読めずに、誤って「ブリザード寿」とアナウンスしたものがリングネームとして定着してしまった。
ブリザード寿は海外遠征中にプエルトリコ・チャンピオンとなり、その防衛戦で大ケガを負ってトップ・レスラーの座から落ちてしまったが、プエルトリコはブロディがプロレス会場で刺殺された場所である。また、ブリザード寿がプエルトリコ王者を奪った相手レスラーの名前は、「ホセ・カルロス・ゴンザレス・サンホセ」だが、これもブロディを刺したホセ・ゴンザレスに因んでいる。
プロレスラーになる前はアメフト選手として活躍したブロディ
1980年代に日米のマット界でトップ・レスラーとして暴れまわったブロディは、身長203センチ、体重135キロの巨体ながら、キングコング・ニードロップ、ギロチンドロップ、ドロップキックなどの『飛び技』も得意としたパワー、スピード、技術の三拍子揃った名レスラー。
ウエスト・テキサス州立大学ではアメリカンフットボール選手として活躍して、NFLのワシントン・レッドスキンズ(現ワシントン・フットボールチーム)でもプレーしたことが定説となっている。
しかし、歴史を紐解いてみると、フランク・グーディッシュ(ブロディの本名)はレッドスキンズではプレーしていない。
ウエスト・テキサス州立大学でディフェンシブ・ライン(DL)として活躍したグーディッシュは、NFLでプレーできるだけの才能には恵まれていたが、コーチの言うことには聞き従わずに、アメフト選手としての基礎が出来上がっていなかった。
ミシガン州の高校を卒業後、奨学金をもらってアイオワ州立大学でアメフトをプレーしたが、問題を起こしてチームを追い出され、ウエスト・テキサス州立大学へ転校した。
グーディッシュがウエスト・テキサス州立大学でのプレーを終えたのは1968年。この年のNFL新人ドラフトではウエスト・テキサス州立大学から2人の選手が指名を受けているが、グーディッシュの名前は17巡目を終わっても呼ばれなかった。
アメフトを諦められなかったグーディッシュは、テキサス州の地方新聞社でスポーツ記者として働きながら、マイナーリーグで3年間プレー。ポジションは大学時代のDLではなく、オフェンシブ・ライン(OL)に転向したようだ。
1970年の夏にはレッドスキンズのトライアウトに合格して、トレーニング・キャンプに参加している。ここでグーディッシュが出会ったのが、ロンバルディ監督だった。
NFLの歴史に名前を刻む名将ロンバルディ
NFLの歴史上、「最も偉大な監督」と評されるロンバルディの名前は、スーパーボウル優勝チームに与えられる「ビンス・ロンバルディ・トロフィー」として今も残っている。
グリーンベイ・パッカーズの監督として、第1回と2回目のスーパーボウル連覇に導いたロンバルディは、1969年シーズン終了後にパッカーズを離れてレッドスキンズの監督に就任した。
それまで何度も指導者と衝突を繰り返してきたグーディッシュは、ロンバルディとの遭遇をこう回想していた。
「ロンバルディの指導を受けてみて、初めて自分のアメフト選手としての才能と可能性に気付かされた。彼から初めて、アメフトとは何なのかを教えられた」
ロンバルディと出会ったことで、念願のNFL選手としての道が開かれたグーディッシュだったが、出会ったタイミングが少し遅かった。
このとき、ロンバルディの身体はガンを患っており、ロンバルディは開幕前に亡くなった。後任の監督はグーディッシュを解雇。グーディッシュはアメフトを諦め、プロレスラーへの転向を決意した。
「他の選手たちと比べても、俺はスピードやパワーでは負けていなかった。だけど、俺にはアメフト選手としての基礎が欠けていた」
『インテリジェント・モンスター』と呼ばれたブロディの頭脳は明晰だったが、大学時代にアメフトの基礎を学ぶことを拒んだツケが、ブロディからアメフト選手としての道を奪い取った。
ブロディがNFL選手になっていたら『俺の家の話』はなかった
もしも1970年の夏にロンバルディの身体がガンに蝕まれていなければ、ロンバルディはグーディッシュを一流のNFL選手に育て上げたかもしれない。
グーディッシュがプロレスに転向して、ブロディとならなければ、寿一はプロレスラーにならず、観山家の人々も今とは違った人生を歩んでいたはずだ。
数々の名言を残してきたロンバルディは、「どのような分野であろうと人間の価値は、
自分がやるべき事にどれだけの労力を注ぎ込んだかによって決まる」と語っている。
プロレスラーとして、能楽師として、そして観山家の長男としての立場に全力で向き合ってきた寿一。子供の頃から望んでいた父親と向き合うチャンスが42歳になってようやく巡ってきた。
ブロディは42歳のときにプエルトリコでレスラー仲間からナイフで刺されて亡くなったが、そのときのブロディと同じ42歳の寿一の家の話はどんな結末を迎えるのだろうか?