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MLB初の女性GMになったキム・アングと楽天の新監督に就任する石井一久の不思議な縁

三尾圭スポーツフォトジャーナリスト
ドジャース時代の石井一久(撮影:三尾圭)

 東北楽天ゴールデンイーグルスの石井一久ジェネラル・マネージャー(GM)が、GM兼任監督に就任すると発表して、日本のプロ野球界を驚かせた2日後。今度はキム・アングがフロリダ・マーリンズのGMに就任して、メジャーリーグ初の女性GM誕生のニュースが米球界の話題を独占した。

石井のメジャー移籍交渉を担当したアング

 実は18年前、「メジャーリーガー・カズ石井」誕生のキー・パーソンがアング女史だった。

 2002年にヤクルト・スワローズからロサンゼルス・ドジャースへ移籍した石井。石井がポスティングされた際に、ドジャースで中心的な役割を担ったのがGM補佐を務めていたアング。

 前年のオフにイチローがポスティングをした際にもドジャースは日本の安打製造機の獲得を目指して入札。アングはイチローの入札1ヶ月前にドジャースへ加入したばかりで、このときはダン・エバンスGMの主導でポスティングに参加。800万ドルで入札したが、これは入札2番目の金額で、1312万5000ドルで入札したシアトル・マリナーズにイチローを奪われた。

 2年続けて日本のトップ選手を逃したくないドジャースは、選手の契約条項に強いアングに石井の入札を託した。石井の入札には5球団以上が参加。ドジャースは900万ドル程度の入札を予定していたが、ロサンゼルス・エンゼルスが1000万ドルで入札するとの情報を掴んで、1126万ドルにアップ。狙い通りに石井との独占交渉権を手にした。

3つの優勝指輪を持つ女性幹部

 石井の入札、入団交渉を任されたときのアングは弱冠34歳だったが、眩い経歴と経験の持ち主だった。

 シカゴ大学ソフトボール部の主力選手だった彼女は、大学を卒業するとインターンとしてシカゴ・ホワイトソックスで働き始める。大学を卒業したばかりの21歳のアングを面接して採用したのは、自身もインターンから階段を1段ずつ上り、GM補佐だったエバンスだった。エバンスがアングに与えた主な仕事は、年俸調停に関する調査。その働きぶりを評価されて、1年間のインターンを終えるとエバンスはアングを正社員として採用した。

 アングは26歳で野球運営部門の副部長に昇進して、メジャー史上最年少かつ初の女性責任者として年俸調停を担当して勝っている。

 

 28歳でアメリカン・リーグの事務局に転職。ウェイバー担当部長として、選手移籍の承認を担当。選手契約のスペシャリストであるアングに目をつけたのが、ニューヨーク・ヤンキースのブライアン・キャッシュマンGM。GM補佐の席を用意して、リーグ事務局からアングを引き抜いた。29歳でのGM補佐就任は当時の最年少記録だった。

 アングのアドバイスによって効果的な補強を重ねたヤンキースは1998年から2000年までワールドシリーズ3連覇を達成。4連覇を狙った2001年のワールドシリーズ第7戦でアリゾナ・ダイヤモンドバックスに敗れると、アングはヤンキースとの契約を更新しないで新たにチャレンジするものを探し始めた。

 「ヤンキースとの契約更新のタイミングで、環境を変えた方がいいと感じた」

 アングを球界に入れたエバンスは2000年シーズンを最後にホワイトソックスを離れて、01年からはドジャースのGMに就任。前任者が作った数々の不良債権を片付けていたエバンスは、アングがヤンキースを離れると聞いて、すぐにドジャースへ迎え入れた。エバンスは選手だけでなく、フロントオフィスのスタッフも一新して、負の遺産の一掃に取り組んでおり、その困難な仕事を成し遂げる助け手としてアングが最適任者だと判断した。

 「私にできることは、彼女もできる。彼女はGMに必要とされる全ての才能を持っている」と言うのはヤンキースのGMを23年も続けるキャッシュマン。ヤンキースはアングがいた4年間で3度も世界一になったが、彼女がチームを去ってからの19年間は1度しか世界一になれていない。

難航する交渉をまとめたアングの手腕

 話を石井とアングに戻そう。

 石井との独占交渉権を獲得したドジャースだが、入団交渉は思いがけずに難航した。

 石井の代理人を務めるジョー・アーボンはイチローがマリナーズと結んだ3年1400万ドル、佐々木主浩がマリナーズと再契約した2年900万ドルと同レベルの契約を要求。最低でも年俸400万ドルをもらえない場合は、ヤクルトに戻ると強気に出た。しかし、アングは粘り強く交渉を続けて、数々のデータを駆使して石井の適正年俸は300万ドルだと算出。明瞭な説明でアーボンと石井を説得して、交渉締め切り期限寸前に4年1230万ドルの契約で合意した。

2002年シーズン開幕前の会見でメジャーリーガーとなった喜びを口にする石井一久(写真:三尾圭)
2002年シーズン開幕前の会見でメジャーリーガーとなった喜びを口にする石井一久(写真:三尾圭)

幻となった石井のヤンキース入り

 1996年を最後にプレイオフから遠ざかっていたドジャースは、アングと石井が加入した2002年から毎年順位を上げ、2004年には9年ぶりとなる地区優勝を果たした。

 アングは長期にわたってチーム力を強化するために、30代となった石井をヤンキースへ放出して20代の有望プロスペクトとの交換を画策。

 ドジャース、ヤンキース、ダイヤモンドバックスの3チームが10人の選手を交換する大型三角トレードに着手した。

◎ヤンキース獲得:ランディ・ジョンソン投手(ダイヤモンドバックスから)、石井一久投手(ドジャースから)

◎ドジャース獲得:ハビエア・バスケス投手、ディオナー・ナバーロ捕手、エリック・ダンカン内野手(ヤンキースから3選手)、マイナーリーガー(ダイヤモンドバックスから)

◎ダイヤモンドバックス獲得:ショーン・グリーン外野手、ブラッド・ペニー投手、ヤンシー・ブラゾバン投手、マイナーリーガー(ドジャースから4選手)

10選手が動く大型三角トレードの目玉だったランディ・ジョンソン(写真:三尾圭)
10選手が動く大型三角トレードの目玉だったランディ・ジョンソン(写真:三尾圭)

 この大型トレードはコミッショナーの承認を受ける直前まで話がまとまっていたが、最後の最後になってドジャースが手を引いた。

 この頃のドジャースのフロントオフィスは無惨な状況に陥っていた。

 2003年シーズン終了後に、フランク・マコートがルパート・マードックのニューズ・コーポレーションから球団を買収。無理をしてドジャースを買収したマコートは多額の借金を抱えており、ドジャースは選手に大金を費やしたマードックの経営方針から180度転換して、年俸削減に動き始めた。

 マコートはエバンスを首にして、マネーボール理論でオークランド・アスレチックスを強くしたビリー・ビーンGMの右腕的存在だったポール・デポデスタを引き抜いてGMに据えた。マードックのオーナー就任も、デポデスタのGM就任も2004年シーズンの春季キャンプ開始直前だったので、そのシーズンはエバンスとアングが揃えた戦力で戦い、地区優勝を成し遂げた。

 2004年のオフにマコート/デポデスタ体制下でのチーム改変が始まり、そんな中で動いた超大型三角トレードだったが、フロントの意見が揺れていたので、ほぼ決まりかけていたトレード話は破談となった。

 「交渉を打ち切りました。今シーズンのドジャースにとって意味のあるトレードでなければ応じられない」とデポデスタは一方的に撤退した理由を説明したが、ヤンキースのランディ・レバイン球団社長は「数日前には合意していたのに、一方的に約束を破った。週末の間に、ドジャースのチーム内でなにかが起こり、約束を反故にした。彼らのやり方にはとても失望したし、今後はドジャースとのトレードには気をつけないとならない」とドジャースを批判した。

 アングは数年先のチーム編成を考えていたが、すぐに結果を出さないとダメだと焦ったデポデスタは目の前のシーズンしか考えていなかった。

 結果、デポデスタは2005年シーズン終了後に解雇され、アングは2010年までドジャースに残り、自らチームを去る決断をして、MLB事務局に移っていった。

 もしも、あのときに三角トレードが決まっていれば、石井はヤンキースのピンストライプのユニフォームを着てプレーしており、ジョンソンとの左腕タッグでヤンキースをワールドシリーズに導いていたかもしれない。

 

 ヤンキースはジョンソンを、ダイヤモンドバックスはグリーンをどうしても諦められずに、まずはヤンキースとダイヤモンドバックス間で、ジョンソンとバスケス、ナバーロ、ブラッド・ハルジーの1対3トレードを決行。ダイヤモンドバックスは獲得したばかりのナバーロに3人のマイナーリーガーを加えた1対4のトレードでドジャースからグリーンを獲得した。

 宙に浮いた格好となった石井は、ヤンキースと同じニューヨークを本拠地とするメッツに控え捕手のジェイソン・フィリップスとの交換で放出された。

アングがまとめた石井の契約内容

 2004年のオフに石井がドジャースから放出された理由は、アングが2002年に作成した契約内容にあった。

 4年総額1230万ドルの契約だったが、その内訳は契約金(サイニング・ボーナス)が150万ドル、基本年俸は1年目が50万ドル、2年目は220万ドル、3年目が260万ドルで、4年目の2005年は320万ドル。2006年は330万ドル、2007年が400万ドルのチーム・オプションがついており、チーム側が5年目以降の契約を破棄する際には2年間を破棄する場合は220万ドル、最後の1年分を破棄するときには110万ドルで契約を買い取ることになっていた。住居手当が年間2万5000ドルだったので、4年間で最低1230万ドルは補償された。

 投球イニング数に応じて、年間最高15万ドルの出来高もついていたので、6年間での満額は1835万ドルになるものだった。

 1年目は格安に抑え、2年目以降から年俸が増えていく契約の石井は、2005年の年俸が357万ドル。交換相手のフィリップスの年俸は34万ドルと格安だった。石井の契約はメジャー1年目は完全なるトレード禁止条項が、2年目以降はトレードできる球団が石井が選んだ10チームに限定されており、トレード相手を探すのは簡単ではなかった。

来季は注目を集める2人

 石井とアングが同じタイミングで誰も挑戦したことのない新しいことにチャレンジするのは偶然なのだろうか?

 GM兼任の「全権監督」として日本一を目指す石井と、女性初のGMとして若き才能溢れるマーリンズで世界一に挑むアング。2人は日米の球界で来季は注目を集めながら戦っていく。

スポーツフォトジャーナリスト

東京都港区六本木出身。写真家と記者の二刀流として、オリンピック、NFLスーパーボウル、NFLプロボウル、NBAファイナル、NBAオールスター、MLBワールドシリーズ、MLBオールスター、NHLスタンリーカップ・ファイナル、NHLオールスター、WBC決勝戦、UFC、ストライクフォース、WWEレッスルマニア、全米オープンゴルフ、全米競泳などを取材。全米中を飛び回り、MLBは全30球団本拠地制覇、NBAは29球団、NFLも24球団の本拠地を訪れた。Sportsshooter、全米野球写真家協会、全米バスケットボール記者協会、全米スポーツメディア協会会員、米国大手写真通信社契約フォトグラファー。

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