メジャーリーグ歴代最高の新人王ピッチャーは誰だ?
メジャーリーグ歴代最高の新人王バッターに続いて、今回は歴代最高の新人王ピッチャーを決めてみたい。
バッター編と同じく候補者を10人まで絞り、その10選手の成績とインパクト、そして球界に与えた影響を考慮しながら、歴代最高の新人王ピッチャーを選んでみる。
候補者に選んだのは以下の10選手。
- ドン・ニューカム(1949年NL、ドジャース)
- マーク・フィドリッチ(1976年AL、タイガース)
- フェルナンド・バレンズエラ(1981年NL、ドジャース)
- ドワイト・グッデン(1984年NL、メッツ)
- 野茂英雄(1995年NL、ドジャース)
- ケリー・ウッド(1998年NL、カブス)
- 佐々木主浩(2000年AL、マリナーズ)
- ドントレル・ウィリス(2003年NL、マーリンズ)
- クレイグ・キンブレル(2011年NL、ブレーブス)
- ホセ・フェルナンデス(2013年NL、マーリンズ)
245奪三振を挙げて奪三振王に輝いた1955年のハーブ・スコア(インディアンズ)、後に殿堂入りした1967年のトム・シーバー(メッツ)、36セーブを挙げてセーブ王にもなった1986年のトッド・ウォーレル(カージナルス)、40セーブを挙げてWHIPも0.880と優秀だった2010年のネフタリ・フェリス(レンジャース)、新人の年から防御率は良かったのに勝ち星にも恵まれなかった2014年のジェイコブ・デグロム(メッツ)も有力候補に挙がったが、トップ10入りからは漏れた。
特別表彰:大谷翔平
今回のランキングは「打者編」、「投手編」の2つに分けたために二刀流選手の大谷はどちらのランクからも選外となってしまった。
投手として4勝2敗、63奪三振、打者としても打率.285、22本塁打、61打点を記録して2018年のアメリカン・リーグ新人王に選ばれた大谷は唯一無二の存在であり、今後のメジャーリーグの選手起用方法に大きな変革を与えるキーマンだ。
10位:佐々木主浩
リーグ3位の37セーブを稼ぎ、奪三振率も11.2を記録した大魔神だが、投手の能力指標の1つであるFIPは4.30とあまり良くなく、純粋な記録だけでいえばトップ10には相応しくはない。MLB公式サイトが昨年11月に掲載した歴代最優秀新人王選手ランキングの記事では146人中126位と奮わなかった。
それでも大魔神を10位としたのは、後に続く日本人リリーフ投手に続く道を作った功績を評価したから。大塚正則、高津臣吾、斎藤隆、上原浩治らがメジャーでクローザーとして活躍したが、日本人メジャーリーガーで通算100セーブ以上を記録したのはメジャー4年間で129セーブを積み重ねた佐々木だけである。
9位:ドン・ニューカム
1947年に作られた新人王は最初の2年間はアメリカン・リーグ(AL)とナショナル・リーグ(NL)合わせて1選手が選出されたが、49年からは各リーグから一人ずつに変更。ニューカムはナ・リーグ初の新人王であり、初めて新人王に選ばれた投手でもある。
5完封はリーグトップで、WARも5.5と優秀。この年はまだサイ・ヤング賞がなかったが、MVP投票でも8位(投手では21勝で最多勝のウォーレン・スパーンに次ぐ2位)に入った。新人の年にオールスター戦のメンバーにも選ばれ、ドジャースのチームメートだったジャッキー・ロビンソンとロイ・キャンパネラ、インディアンズのラリー・ドビーと共に初めて球宴に選出された黒人選手。
ニューカムはサイ・ヤング賞が作られた1956年に最初のサイ・ヤング賞に輝き、なにかと「初」に縁のある投手だった。新人王、サイ・ヤング賞、MVP(1956年)の「個人賞三冠王」を手にした初めての選手で、この快挙を成し遂げたのはニューカムとジャスティン・バーランダー(現アストロズ、タイガースの選手として記録を達成)の2人だけ。1949年には黒人投手として初めてワールドシリーズの試合で先発した。
ジャッキー・ロビンソンは黒人初のメジャーリーガーとして歴史を切り開いたが、ニューカムは黒人初のスター投手として活躍。打撃も得意で、1955年には7本塁打を記録。メジャー10年間で106回も代打として起用された。
1962年にはドビーと一緒に中日ドラゴンズの外野手兼一塁手とし来日。日本球界でプレーした初の超大物助っ人外国人選手でもあった。
8位:ドントレル・ウィリス
右足を高く蹴り上げ、上体を大きく捻る投球フォームが特徴のウィリスは、「Dトレイン」のニックネームでメジャー1年目から人気投手となった。
メジャー4度目の先発で8回を6安打無失点で2勝目を上げると、そこから8連勝を飾り、その間の10試合は防御率1.05と打者を制圧。オールスター戦にも選出された。ウィリスの活躍で勢いに乗ったマーリンズは地区2位でプレーオフに滑り込むと、ワイルドカードからワールドシリーズを制覇。前年は勝率5割にも満たなかったチームを変えたのはダイナミックな投球フォームのルーキーだった。個人記録よりもチームへの貢献度を高く評価してのトップ10入りだ。
7位:クレイグ・キンブレル
満票で新人王に選ばれた選手は24人いるが23人が打者で、投手で満票を集めたのはキンブレルだけ。
100マイル(160キロ)の速球とカーブを武器に三振の山を築き上げ、奪三振率は驚異の14.8。新人記録を大きく更新する46セーブを上げてセーブ王にも輝いた。だが、シーズン終盤に失速して9月は防御率が4.76、WHIPも1.412と大きく崩れて、9月上旬に8.5ゲーム差で地区首位に立っていたブレーブスがプレーオフを逃す一因ともなった。
6位:ホセ・フェルナンデス
15歳のときにキューバからメキシコ経由でアメリカに亡命してきたフェルナンデスは高校卒業後にマーリンズからドラフト1巡目で指名されて入団。マイナーを1年半で終わらせ、20歳でメジャー・デビュー。WHIP0.979はこのシーズンのリーグ3位で、今回のトップ10リストに入った先発投手の中では唯一の1.0以下。WARも6.2でチームへの貢献度も高かった。
将来はメジャーリーグを代表する投手に成長すると期待され、順調に成長していたが、2016年にボート事故により24歳の若さで亡くなり球界全体が悲しんだ。
5位:ケリー・ウッド
メジャー5度目の登板で、ロジャー・クレメンス(当時レッドソックス)に並ぶメジャーリーグ記録の1試合20三振を奪って、一躍注目を集めたウッドは次の試合でも7回13奪三振を記録。ルーキー投手が短期間で残したインパクトではウッドを超える投手はいない。奪三振率は新人としては歴代最高で、経験年数を問わなくても達成当時はメジャー歴代1位。今でも歴代6位の記録。
剛球を投げ過ぎて1年目のシーズン終盤に肘を痛めて、翌年はトミー・ジョン手術を受けて全休した。
4位:野茂英雄
1995年にストライキで落ち込んでいた野球人気を復活させたのが、日本からやって来た寡黙な野茂英雄。
トルネード投法から繰り出す魔球、フォークボールでメジャーリーグの強打者から空振りの山を築き上げ、236三振で奪三振王となった。奪三振率11.1もリーグトップで、リーグ1位の3完封も記録。新人ながらオールスターゲームの先発も任されて、ALの強打者を力で捻じ伏せた。
ノモ・マニアのブームは凄まじく、野茂が先発する試合には日本人ファンが大量にスタジアムへ押しかけ、日本では一家に一枚野茂Tシャツがあるのではないかと錯覚するほどに野茂Tシャツは爆発的なヒット賞品に。
日本球界と喧嘩する覚悟で日本からメジャーへの道を作った野茂の功績は、とてつもなく大きい。
3位:フェルナンド・バレンズエラ
ノモ・マニアがドジャー・スタジアムを埋め尽くす14年前、ロサンゼルスの街はフェルナンド・マニアの大声援で湧いていた。
メキシコから来たポッチャリした20歳のバレンズエラは、代役として前日に開幕投手を告げられると5安打完封とセンセーショナルな活躍をみせた。開幕から無傷の8連勝で、オールスター戦でも先発。1981年も1995年同様にストライキでシーズンが短縮されたのも野茂とバレンズエラの共通項。
バレンズエラの11完投、8完封はリーグトップの記録で、メジャー史上唯一となる新人王とサイ・ヤング賞を同時受賞。ドジャースのワールドシリーズ制覇にも大きく貢献した。
2位:ドワイト・グッデン
今では野球場で当たり前の光景となったKボード。投手が三振を奪うとファンが掲げるKボードの元祖は「ドクターK」ことグッデン。19歳で彗星のようにメジャーに現れると、リーグ最多の276三振を記録。シーズンが進むにつれて調子を上げ、最後の9試合で8勝。最後の3試合は奪った三振が41に対して、四球は1つだけと神がかっていた。奪三振率11.4は当時のメジャー新記録。FIPの1.69は1910年以降ではメジャー最高の数字(当時)で、今でも1999年のペドロ・マルチネス(レッドソックス)に次ぐ2位にランクされている。
サイ・ヤング賞投票では2位だったが、受賞したリック・サットクリフよりも勝利数、奪三振、投球回数、防御率、WHIPは良かった。
1位:マーク・フィドリッチ
歴代最高の新人王投手に輝いたのは「ザ・バード」の相性で大フィーバーを起こしたフィドリッチ。
リーグ最多の24完投で、防御率2.34もリーグ1位。他の新人王投手を大きく引き離すWAR9.6で、頭1つ抜け出た存在だ。成績も凄いが、当時の話題性も大きく、アメリカ国民からとても愛されたアイコンだった。フィドリッチの人気を表すデータの1つに観客動員数があり、タイガースのホームゲームではフィドリッチが先発した18試合の平均が33,649人に対して、他の投手が先発した62試合は平均13,843人と半分以下だった。アウェイゲームでも相手球団からフィドリッチを先発させるように懇願され、全米に生中継された6月末のヤンキース戦では、敵地にも関わらず完投したフィドリッチが試合終了後にカーテンコールに応えるまで観客たちが席を離れなかったという逸話も残る。
フィドリッチの魔法のような野球人生は呪文がすぐに解け、2年目からは故障に苦しみ、4年間で合計10勝しかできずに25歳の若さで球界を去った。