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メジャーリーグ、グローバル戦略の申し子。イチローが最後に紡いだ言葉

谷口輝世子スポーツライター
(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 マリナーズのイチローは、日本でのメジャー開幕戦を最後に、バットを置いた。

 イチローはメジャーリーグでも数々の記録を塗り替えた。米国内はもちろん、野球の盛んな国々のファンから賞賛されるグローバルスターである。

 イチローはオリックスでプレーしていたときから、球界の宝で、国民的ヒーローだった。しかし、オリックスの対戦球団のファンにとっては、「我々のイチロー」ではなかったはずだ。敵のスーパースターが打席に入れば、打ってくれるなと念じるのがファン心理というもの。それでも、見事なバッティングや華麗な守備で、敵ながらあっぱれと思わせた。だから、国民的ヒーローだった。

 イチローが海を渡ったことで、「我々のイチロー」と感じる人は増えただろう。「オリックス」という枠組みではなく、「日本の選手」としても、応援できる。なによりもメジャーでのイチローの活躍が素晴らしく、それが多くの日本人を惹きつけた。彼は世界の野球ファンを獲得すると同時に、日本の国民的大スターにもなった。

 しかし、そのことは皮肉な状況を生み出した。世界で活躍することで国民的大スターになったイチローは、日本のファンが仕事帰りに立ち寄れる日本の球場にはいない。遠く離れた米国にいる。衛星放送や2002年から開始したメジャーリーグの有料ストリーミング、そしてインターネットという現代文明を駆使して、プレーする姿を追いかけてきた。そうはいっても、時差があるため、テレビの生中継を見ることさえ難しかったファンも少なくなかったはずだ。

 メジャーリーグが日本で試合を開催してくれれば、日本のファンも身近でイチローを見ることができる。仕事の都合をつけたり、ちょっと遠出をしたりすれば、球場に駆け付けることができる。テレビの生中継も、平日の昼間ではなく、夜になる。

 メジャーリーグが米国とカナダ以外で、初めて公式戦を開催したのは1996年8月のこと。メキシコのモントレーでパドレス―メッツの3連戦。メキシコでは1999年と2018年にも試合を行っている。オーストラリアやプエルトリコでも公式戦を開催した。

 2000年、04年、08年、12年、19年に日本に公式戦を運んできている。

 メジャーリーグには、イチローと同じように外国で生まれ育った選手たちがいる。たとえば、今年、米野球殿堂入りを果たしたマリアーノ・リベラはパナマの出身。2016年限りで引退したレッドソックスの指名打者、デービッド・オルティスはドミニカ共和国の出身だ。彼らも、イチローと同じようにグローバルスターであり、母国のナショナルスターである。

 2人とも引退の日を自分で決められる立場にあった。けれども、母国のメジャーリーグ公式戦で引退する、という選択肢はなかった。ドミニカ共和国も、パナマも、メジャーリーグが公式戦を開催するには、設備、経済事情などが不十分だからだ。彼らは、その年のシーズンが始まる前にシーズン終了をもって引退することを公表。敵地での試合も含めて、全米各地でファンとの別れの時間を持った。

 日本の経済は衰退してきていると言われるが、それでも4万円のチケットが売れ、東京ドームは満員になる。

 イチローは、グローバルスター、なおかつ、日本の国民的英雄として、東京で現役選手として最後のゲームに出場した。

 試合開始は日本の午後6時30分。米国シアトルは午前2時30分、ニューヨークなどの東部時間で午前5時30分。シアトルのファンは「我らのイチロー」を寝落ちせずに見納めただろうか。早起きして目に焼き付けただろうか。

 米国ではスポーツ専門局ESPNがこの試合を生中継した。映像や実況も、メジャーリーグのスーパースターであるイチローが、母国の日本で選手生命を終えるというトーンで、イチローのズームアップを繰り返し、敬意をもって好意的に捉えていた。サービス監督は、最後までヒットの出なかったイチローを八回裏まで使ったが、これについてもESPNは「正しいことをした」と言っていた。だから、シアトルのファンも、イチローが東京で現役引退したことをすんなりと受け入れているのではないか、と私は勝手に想像した。

 引退会見の最後をイチローはこのように締めくくった。

「アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね」

 それからこう言った。「孤独を感じて苦しんだこと、多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるのだろうと今は思います。だから、つらいこと、しんどいことから逃げたいというのは当然のことなんですけど、エネルギーのある元気のある時にそれに立ち向かっていく。そのことは人としてすごく重要なことではないかと感じています」。

 イチローは、スポーツのために国境を越えたスポーツ移民だ。グローバルスターのイチローは、スポーツ移民の悲哀とやりがいを、日本人のナショナルスターとして言葉を紡ぎ、締めくくった。東京で。

 メジャーリーグは日本での興行で収入を得て、日本に住むファンはイチローの勇姿をすぐ近くに感じ、イチローは満ち足りた表情をしていた。

 選手を輸入し、試合を輸出するメジャーリーグのグローバル化戦略。その戦略を進める側にとっては申し子といえる存在だったイチロー。イチローが、米国ではなく、東京での試合で現役引退したことで、ひとつの時代を終えた感がある。メジャーのグローバル戦略も次の時代へ突入していくのだろう。

 

スポーツライター

デイリースポーツ紙で日本のプロ野球を担当。98年から米国に拠点を移しメジャーリーグを担当。2001年からフリーランスのスポーツライターに。現地に住んでいるからこそ見えてくる米国のプロスポーツ、学生スポーツ、子どものスポーツ事情をお伝えします。著書『なぜ、子どものスポーツを見ていると力が入るのかーー米国発スポーツペアレンティングのすすめ 』(生活書院)『帝国化するメジャーリーグ』(明石書店)分担執筆『21世紀スポーツ大事典』(大修館書店)分担執筆『運動部活動の理論と実践』(大修館書店) 連絡先kiyokotaniguchiアットマークhotmail.com

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