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後退した日本サッカー。デイナを忘れないポーランド協会に見る歴史へのリスペクト。

木村元彦ジャーナリスト ノンフィクションライター
レギア・ワルシャワの博物館に展示される早逝したデイナの半生

レギア・ワルシャワのホームスタジアムの一角にはクラブの歴史を伝える博物館がある。今回のポーランドサッカーの取材を手伝ってくれた30年来の友人アンナ・オミが展示を見ながら、ぽつりと言った。「デイナは私も大好きだった」アンナは1980年代、統一労働者党が独裁支配する共産主義時代の頃、まだ10代だった。それでもワルシャワのレイタン高校に在籍している頃から民主化闘争に身を投じていた。ソ連に国家主権を制限され、法律にも経済にも学問にも自由の無い検閲だらけの生活が我慢ならなかった。

18世紀、第一次ポーランド分割に命がけで反対をした愛国者タデウシュ・レイタンの名を冠した高校は、反政府運動の拠点でもあり、1981年12月の戒厳令時には多くの教員が逮捕されていった。校内には内務省からの監視がついた。アンナはそこで学課合間の時間に一切の声を発しないという「沈黙の抗議」を仲間と共に行っていた。同級生には秘密警察官僚の子弟もいたが、そんな子たちはそっとトイレに立ち、プロテストに積極的に参加はしないものの静かに見守ってくれた。ソ連の傀儡である共産主義政権が誕生した日(独立記念日とされていた7月22日)や国家的タブーであるカチンの森事件(ソ連軍によってポーランド将校ら約2万2千人がカチンで虐殺されるが、ナチスドイツによるものとされていた)の記念日4月13日には敢えて黒い服を着て登校した。民主化を牽引した独立自主管理労組「連帯」を率いたレフ・ワレサがノーベル平和賞を受賞したときは、ワレサが軟禁されているグダニスクの家まで祝福の言葉を伝えるために会いに行った。当然、尾行がついたが、意に介さなかった。

アンナはその後、名門ワルシャワ大学の日本語学科に進み、在学中は卓抜した語学の才能を活かして日本経済新聞のスタッフとして活躍し、ここで日本語通訳としてワレサと再会を果たす。その後は北海道大学に留学を果たして学究の道に進んだ。いわばミドルティーンの頃からポーランド民主化運動を支えた叩き上げのインテリである。

そのアンナが大好きだったというカジミエシュ・デイナは1970年代のポーランド代表のエースであった。ミュンヘン五輪では大会得点王に輝いてチームに金メダルをもたらし、1974年のW杯西ドイツ大会では、攻撃の起点としてゲームを仕切り、過去最高の三位という成績の立役者となった。伝統的に鋭利なカウンターをお家芸とするポーランド代表は、当時ガドハとラトーの両翼FWのスピードが際立っていたが、そこに至るパスを供給するデイナはむしろゆったりと動き、ピッチ上の急所を見つけるやピンポイントでボールを通した。知的で優美なプレーに日本でもファンは多かった。浦和レッズのメディカルディレクターである仁賀定雄医師もフェイバリットの選手として名前を挙げ、学生時代から好んだ背番号はデイナの12番であった。デイナは1989年9月にアメリカのサンディエゴにおいて自動車事故で亡くなってしまった。まだ現役で41歳の若さだった。常設展示の一画にはデイナの栄光を讃えるスペースがあり、急逝した選手の功績をしっかりと伝えている。「歴史を大切にする国だな」と改めて思う。

 ヤフーニュース特集「サッカー代表は「絶望の中の光」だった―― ポーランド、戒厳令と1982年のW杯」にも書いたが、現在、軍隊を母体としたクラブであるこのレギアの博物館にはポーランド軍の創設者であるユゼフ・ピウスツキがアイコンとして飾られているが、共産党政権時代はピウスツキが反ロシアの独立派(ピウスツキは日露戦争中に来日し、日本政府からポーランド独立の支援を引き出そうとした)であったという理由でその存在すら排除されていた。それが民主化と共にしっかりと復活したのである。

 私は「歴史を正確に学び伝えることの重要さ」をデイナと同じファーストネームの人物からかつて聞いたことがある。それは長くアウシュビッツ収容所博物館の館長を務めあげたカジミエシュ・スモーレン(故人)である。自身もアウシュビッツに収容されていたスモーレン館長は歴史が政治によってねじ曲がられることを徹底的に拒んだ。「博物館にイスラエル政府から、巨額の寄付の申し出がありました。それと同時にイスラエルの国旗を立てて欲しいと。私はそれを断りました。殺されたのはユダヤ人だけではない。そしてアウシュビッツをイスラエルという国のプロパガンダにされてはいけないと考えたのです。アウシュビッツを博物館にする意義は、何かの外交カードにするためではない。二度と悲劇を生まないためです」こんなことも言っていた。「私はいろんな戦争犯罪博物館を見てきましたが、ろう人形を使った拷問シーンの再現などは、おかしいと思うのです。情緒的に感情を煽ってしまう。それでは憎悪しか生まない。検証すべきは拷問や弾圧があったのはいつ、どこでどのように、数はどうだったのか、そしてなぜ起こったのか」

 事実こそが重要。そしてその事実を恣意的に利用してはいけない。確かにファクトエビデンスに徹底的にこだわるアウシュビッツ収容所博物館には、蝋人形のような「創作物」は一切無い。この2月、ポーランドの上院は「ホロコースト(ユダヤ人虐殺)にポーランドが加担していたと批判することを違法とする法律」を可決していた。確かにホロコーストはナチスドイツによるもので、ユダヤ人を救ったポーランド人もいたが、逆に自らが助かるためにユダヤ人を見殺し、あるいは密告したポーランド人もいたわけで、不寛容な社会になりつつあるという懸念が叫ばれた。しかし、ワルシャワではこの春から「OBCY W DOMU」(家の中の他人)という展示会が始まった。これは1968年3月に起きたポーランド政府によるユダヤ人排斥事件=国民の不満をユダヤ人のせいにして国外に追い出した=通称「3月事件」をしっかりと歴史的事実として認識しようというもの。これまたユダヤ人を攻撃する当時のゴムルカ書記長の演説や排斥の資料などを豊富に展示している。まさに自国の政府が犯した罪にしっかりと向き合おうというものであった。

オシムは1月のインタビューで「日本はポーランドと戦う前に忘却できない彼らの歴史から考えた方が良い」と語っていた。かつて検閲でねじ曲げられた歴史を正して未来に繋げようという動きをするのは、これも特集ページに記したが、ポーランドのサッカー協会も同様であった。

翻って日本である。本番の二ヶ月前にハリルホジッチを解任したことの是非を問う以前に、田嶋幸三日本サッカー協会会長は4月9日の記者会見で「意思決定は会長の専権事項」と発言。歴代代表監督の選出の歴史から検証してみれば、今回の振る舞いは明らかに停滞、否、後退していることが分かる。これでは技術委員会の存在理由がまたしても霧散してしまったことになる。

 2006年ドイツ大会に向けて大仁技術委員長(当時)はブルーノ・メツを推薦するも「ジーコに聞いてみろ」という川淵三郎会長(当時)の鶴の一声でひっくり返った。結果は周知の通りの惨敗である。ドイツ大会後にきっちりと検証がなされるかと思えば、成田空港での帰国記者会見でまたしても川淵会長の「オシムって言っちゃったね」という失言でまだジェフ千葉の監督の任にあったオシムの就任が決まってしまい、「惨敗に対する糾弾の弾除け」「協会によるJクラブ監督の強奪」という批判が巻き起こった。

技術委員会がようやく機能するのは、2009年に原博実が技術委員長に就いてからである。

2010年、犬飼会長の時代に、会長が浦和レッズ時代から親交の深いブッフバルトに「日本代表監督を引き受けるかどうか」接触したとの報道(5月3日朝日新聞)がなされ、また会長の独断で決まってしまうのではないかと憂える中、原技術委員長は敢然とこれを否定する旨をサッカーマガジンのインタビューで答えているのを読み胸がすく思いがした。どれだけ世界の趨勢を調査した技術レポートを出しても最後は会長が決めてしまうという悪習が、ここで止まったのである。

以降、ザッケローニ、アギーレ、ハリルホジッチと続いていくが、少なからずその都度、「なぜこの監督なのか?」という説明責任は果たされてきた。それが西野朗技術委員長に代わるや、またしてもこの体たらくである。ハリルホジッチの解任理由が技術委員長の口から説明されることなく、それどころか監督責任を問われる立場にありながら、会長の意向でそのまま代表監督に就任とは制度論としてもおかしい。

「我々はもう前を向いている」という田嶋会長の言葉は、自省も検証もすべて放棄し、日本サッカーの歴史を蔑ろにしているに等しい。

ジャーナリスト ノンフィクションライター

中央大学卒。代表作にサッカーと民族問題を巧みに織り交ぜたユーゴサッカー三部作。『誇り』、『悪者見参』、『オシムの言葉』。オシムの言葉は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞、40万部のベストセラーとなった。他に『蹴る群れ』、『争うは本意ならねど』『徳は孤ならず』『橋を架ける者たち』など。

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