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サッカー代表は「絶望の中の光」だった―― ポーランド、戒厳令と1982年のW杯
2018/05/21(月) 10:04 配信
オリジナルサッカーワールドカップ(W杯)ロシア大会がまもなく開幕する。日本代表の対戦国のひとつポーランドは、1982年W杯で3位に輝いた古豪だ。ポーランドは民主化運動とその弾圧という歴史を持つ。戒厳令下の1982年、代表チームの活躍はポーランド市民にとって「絶望の中の光」だった。当時の選手らの証言から、ポーランドサッカーの歴史を探っていく。(ノンフィクションライター・木村元彦/Yahoo!ニュース 特集編集部、文中敬称略)
「彼なくしてはこの成功はなかった」
ポーランドサッカー協会のオフィスは、国旗の配色そのままに、赤と白に統一されている。廊下を歩いていると、何やら祝福の紅白幕の中を行進しているようで、自然とめでたい気分になってくる。その脇の一室で、広報部長のヤヌシュ・バサワイが待っていた。
「私たちポーランド人は支持政党も趣味もバラバラです。しかし、代表チームの試合の2時間は特別。それだけは私たちをひとつにつなげる特別なものです。ヨハネ・パウロ2世(第264代ローマ法王でポーランド人)が生きていたときは宗教がそうでしたが、今はサッカーになりました」
バサワイは1970年代から代表のサッカーを見続けている。
日本代表がW杯ロシア大会で対戦するこの国は、サッカーにおいては古豪と呼ばれて久しかった。1974年西ドイツ大会で3位になると、4大会連続で出場を果たす。しかし1990年イタリア大会の出場権を逃すと、その後は低迷が続く。久々に2002年日韓大会、2006年ドイツ大会に姿を現すもグループリーグでの敗退を繰り返した。今回は3大会ぶりの出場となる。
予選の実績から、今大会にかける地元の期待は大きい。クリスチアーノ・ロナウド(ポルトガル代表)を抑えて予選の得点王となったロベルト・レヴァンドフスキを擁し、難敵デンマークのいるヨーロッパ予選E組を1位で通過。現在、FIFAランキングで世界10位。日本代表が属するグループで最大の敵と言われているコロンビアの16位よりも上位に位置する(日本は60位)。
「ポーランドサッカーの復活にはさまざまな改革と施策が必要でした。残念なことに21世紀になって国内のリーグ戦には八百長がはびこっていました。そこで体制を一新して不正を一掃しました」
サッカーくじに群がるマフィアも多く、ポーランドサッカー界は汚職によって60人以上の逮捕者を出す事態に陥っていた。2007年1月にポーランドサッカー協会のミカエル・リストケウィッツ会長が退任している。
古豪復活の鍵は、移民輩出国家ポーランドならではの施策だった。
「現在の会長が就任すると、在外ポーランド大使館と連動して移民の2世、3世選手の発掘を何度も行いました。周知の通り、わが国は移民をたくさん出している。外国で生まれ育ったのでポーランド語がほとんど話せないが、ポーランドのために戦いたいという選手を探し出してパスポートを与える。17、18歳のユース代表チームには主にドイツ生まれが多い。なぜかというとドイツの育成がうまくいっているから(笑)。良い意味で外国のクラブを利用させてもらっています」
現代表にはサッカー王国ブラジル生まれの選手もいる。ミッドフィールダー(MF)のチアゴ・チオネク(32)である。育成に関しては、国章を冠した「若い鷲」という名前のアカデミーを国内30カ所に立ち上げた。バサワイ氏は「これから実がなることだと思います」と言うと、成功の立役者として現在の会長の名前を挙げた。
「ズビグニェフ・ボニエク。協会の仕事を長くしていて思うのですが、彼なくしてこの成功はありませんでした。リーダーシップがずば抜けています」
現場からも同様の声が上がった。協会の技術顧問で、指導者を養成するコーチングスクールの校長を務めるステファン・マイェフスキがこう言う。
「ボニエクが会長になってから、選手の指導育成の哲学がしっかりと固まりました。私はU-21の代表コーチもしていましたが、育成で重要なのはこれがA代表まで一貫していること。彼はそこがぶれません。誰を恐れることもなく、信念を曲げずにポーランドサッカーをマネジメントしています」
現役時代、イタリアの名門ユベントスでミシェル・プラティニ(元FIFA副会長)との息の合ったプレーで欧州のサッカーファンを魅了した人物について、地元のサッカーライターの男性はこう言った。
「彼は切り札だった。ボニエクが会長になったことで代表を支えようというモチベーションが一気に高まった。なぜなら、ポーランド暗黒時代に唯一の希望とも言えた1982年の代表チームを率いたのだから。あれこそは絶望の中の光と希望だった。あのチームを理解しないとポーランドサッカーは語れない」
絶望の中の光と希望。それは一体、どんなものだったのか。
「祖国が戒厳令だ!」
第2次大戦後、ポーランドはソ連を盟主とする東側諸国の一員として共産主義体制下にあった。ポーランド統一労働者党(共産党)の一党独裁制で、政府も軍隊もソ連共産党の強い影響下にあった。ポーランド文学者で、1967年から7年間ワルシャワ大学で日本語を教えた工藤幸雄(故人)に生前聞いたところによれば、言論の自由はなく、郵便物は結婚式の案内状に至るまですべて検閲されていた。
ポーランドのクラブチームにレギア・ワルシャワという軍隊を母体としたビッグクラブがある。現在、レギアの博物館には、ポーランド軍創設者のユゼフ・ピウスツキ将軍の肖像画が掲げられている。ピウスツキ将軍は、18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアに分割されて以来世界地図から消滅していたポーランドを、独立回復へと導いた人物である。
ところが、ポーランド統一労働者党一党独裁時代には、このレギアの博物館から軍祖ピウスツキにまつわるものは全て取り払われていた。独立を求めて戦ったピウスツキはソ連政府からすれば反逆者となるからである。政治によってクラブの歴史すら書き換えられていたのである。
1980年、ポーランドに民主化の波が起こった。後にノーベル平和賞を受賞するレフ・ワレサが率いる独立自主管理労働組合「連帯」の誕生である。自由な組合活動が認められていなかったポーランドにとって「連帯」の誕生は画期的なことだった。
しかし、新しい風は長くは吹かなかった。首相で、ポーランド統一労働者党第1書記のヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍は1981年12月13日、ポーランド全土にわたっての戒厳令を発し、「連帯」を非合法化した。
ヤルゼルスキ将軍による民主化運動の弾圧の影響はサッカー界にも及んだ。
すでに翌年のW杯スペイン大会への出場を決めていた代表チームの多くのメンバーは、このとき、協会から休暇を与えられて、ハンガリーの観光地ショプロンにいた。
センターバック(CB)だったマイェフスキ(前出の現技術顧問)が自宅近くのカフェでエスプレッソを片手に回顧する。
「朝、起きたやつが『祖国が戒厳令だ!』と叫んだんだ。ワルシャワの街の中に武器を持った兵士があふれて、戦争のような状態になっているのが伝わってきた。せっかくW杯出場を決めたのに、チームは騒然となったよ」
宿泊地がオーストリア国境の近くだったことから、オーストリア政府は非公式に政治亡命を受け入れると言ってきた。優秀なポーランド人選手は西側で引く手あまただった。入管の職員はビザのないパスポートを見て見ないふりをして入れるということだった。しかし、話し合った結果、全員がポーランドに帰る意志を表明した。
「祖国を見捨てることはできない。ポーランド代表でW杯へ行くことを確認したんだ」(マイェフスキ)
メンバーが帰国すると、祖国はものものしい空気につつまれていた。
当時のポーランドサッカー協会は公安警察をつかさどる内務省の直轄で、ヂャワチユ(活動家)と呼ばれる職員が存在し、代表チームには必ず数人が帯同した。秘密警察の警官も必ず2人付いてきた。
「ポーランドのサッカー界は1945年から1990年まで軍隊や警察の影響を受けることは不可避だった。サッカーが極めてポピュラーで重要なものであったから政府はコントロールしたがったのだ」(バサワイ)
当時のキャプテンで、4大会連続でW杯に出場したヴワディスラフ・ジュムダは、予選の段階から内務省の介入は始まっていたとして、こんな話を披瀝(ひれき)してくれた。
「スペイン大会の予選、マルタ戦の前だった。ゴールキーパー(GK)のムイナルチクが合宿中に門限を破ってバーで痛飲していたのが、新聞記者にばれてしまった。この記者が内務省と通じていたんだ。忠誠を誓わずに規律を乱す者はいらないと内務省はムイナルチクにクビを宣言した。正GK抜きで予選を勝ち抜くのは無理じゃないか。私とボニエクが、選手のことはチーム内部で解決するべきだと猛烈に内務省に抗議をした」
これが問題となった。当事者のムイナルチクに加え、ボニエクとジュムダ、そして若手のフォワード(FW)で「連帯」を支持する自由学生連合に所属していたテルレツキの4人が代表の座を追われることとなった。内務省は、お前たちは二度と呼ばないと宣告した。
「彼らはサッカーを愛していなかった。それでも新監督のアントニ・ピエチニチェクが、最後は招集してくれたので何とか、勝ち抜けたというわけだ。とにかく我々は内務省とも闘わなくてはならなかった」(ジュムダ)
チーム内には憂鬱なムードが漂った。
対外的にも問題が起こった。通常W杯直前の数カ月間はいくつかの代表チームとテストマッチを重ねて調整していくのだが、相手をしてくれる国が現れなかった。戒厳令を敷くような国とは試合をしないとボイコットされたのである。つながりのあるイタリアのクラブチームと対戦しながら、コンディションを上げていくしかなかった。
1982年のポーランド代表は、国家からは監視され、他国からは排斥されるという二重のハンディを負っていた。そんな状況下でジュムダも一目置いたチームの精神的支柱が、ボニエクだった。スペインのキャンプ地に入ると、ボニエクはことあるごとに秘密警察の2人とブリッジをやった。
ブリッジで負かすたびにボニエクは秘密警察の人物に言った。「こんなに出来が悪いのに、それで人を監視して裁いているのかい? 君はおかしくないか」。周囲は青くなったが、さすがに国外で代表のエースを捕らえるわけにはいかない。揶揄された側は真っ赤な顔で耐えるのみだったという。
スペイン大会の幕が開いた。1982年6月13日。戒厳令が敷かれてちょうど半年後、陰鬱なストレスがたまるには十分な時間だった。当時の国民の閉塞状況がどのようなものであったか。それは、ポーランド国営旅行社オルビスが主催した代表応援ツアーが物語っている。
以下はオルビス社の社員の証言による。
「ツアーには企業や自治体から、ヤルゼルスキ体制に盾突くことなく従順に仕事を遂行してきた者、当時の言葉でいえば『労働英雄』として推薦を受けた人々だけが、褒美としての参加を許されていました。ところが、バスが西ドイツに入ってドライブインに着いた途端、その『労働英雄』全員が逃げ出したんです」
中には、運転手までが、バスを捨ててそのまま亡命した事例もあったという。
「ボニエクのゴールはどんな検閲機関も消すことはできなかった」
一方、ポーランド代表はぶっつけ本番で大会を迎えることになった。
初戦は6月14日のイタリア戦だった。スペイン・ビーゴのバライドススタジアムには、国外に逃れていたポーランド人たちが「連帯」(Solidarność)と記した横断幕や旗を作って押しかけた。
しかし国内にいる人々が「連帯」のメッセージを見ることはなかった。ポーランドの国営放送が旗を映さないようにしたのだ。ライブ中継であるにも関わらず、時間差で遅らせて放送し、カメラがスタジアムに翻る「連帯」の旗を抜くと、スイッチを切り替えて別の映像をインサートした。
検閲された映像ではあるが、外出が制限され、肉やパンを買うには2時間も並ばなければならないような状況で暮らしていた国民にとって、代表の活躍は唯一の希望だった。現在のヤツェク・イズィドルチク駐日ポーランド大使は9歳だったが、家族じゅうがテレビにかじりついていた記憶がある。
初戦は0対0で終わった。2戦目はカメルーン戦。アフリカの雄には押し気味に試合を進めたが、再びスコアレスドローに終わった。
1次リーグ残り1試合、帯同している内務省ヂャワチユの中には大量にバナナを買い込む者がいた。当時、ポーランドではバナナは超高級品。帰国時に持ち帰ろうと、敗退を見越して買い込んだのだ。結果も出ていないのに早々と帰国準備をする態度に選手たちは憤った。
2次リーグ進出をかけたペルー戦は、前半を0対0で折り返した。またも無得点で終わるのかと思われた後半、うっ憤を吐き出すようなゴールラッシュが始まった。
ポーランドは左のヴォジミエシュ・スモラレク、右のグジェゴシ・ラトーと、槍のような両サイドの攻撃がストロングポイントだった。それがはまった。55分にスモラレク、58分にラトーがネットを揺らすと、61分にはボニエクが決めた。エースのゴールで流れは加速し、68分にブンツォル、76分にチオウェクが続いた。5対1。2次リーグ進出が決まる。内務省の活動家が購入した大量のバナナは、持ち帰られることなく消費された。
2次リーグ、ベルギーとの一戦。ボニエクが再び爆発する。4分にラトーのマイナスのクロスに合わせたスーパーボレー、23分ヘディング、53分はGKをドリブルでかわしてゴールに流し込んだ。
豪胆さとうまさと冷静さを併せ持ったハットトリックに、当時大学生だったバサワイも興奮した。「私は思った。ボニエクのゴールはどんな検閲機関も消すことはできなかったと」
決勝トーナメント行きをかけた第2戦は因縁のソ連戦だった。ボニエクが稼いだ得失点差の貯金が効いており、引き分けでも勝ち抜けが決まる状況だった。試合はロースコアに持ち込む作戦が奏功して0対0。
ボニエクは試合後に大胆な振る舞いをする。国営放送のインタビューブースにCCCP(ソビエト社会主義共和国連邦)と記されたソ連のユニホームを着て現れたのである。「勇猛なネイティブアメリカンは相手の皮を剥ぐそうじゃないか。それと一緒だよ」
真相は試合終了後のユニホーム交換をしたまでのことだったが、のちにボニエクはこう語っている。
「確かにソ連の支配にポーランドは苦しめられたけれど、それは政治の世界の話だ。選手は同じように体制の支配に苦しんでいる。だからここ(スペイン)で知り合ったオレグ・ブロヒン(元ウクライナ代表監督。ソ連代表として出場していた)とは今でも親友だよ」
決勝トーナメント初戦は再びイタリアと対戦したが、ソ連戦で2枚目のイエローカードを受けたボニエクは出場できず、チームは敗戦。ボニエクが復帰した3位決定戦でフランスを破り、ポーランドは3位に輝いた。
表彰式。FIFAの役員は、4位のフランス代表に1人ずつメダルをかけていった。ところが、ポーランド代表に対しては、キャプテンのジュムダにトレイをまるごと渡して、そのまま踵を返してしまった。ジュムダは仕方なく、自分で選手に渡した。
「明らかに政治だった。ポーランドの軍事独裁に対する抗議だったらしいけれど」(ジュムダ)
「代表がデモクラシーを持ってきた」
スペインW杯から1年、戒厳令は解除された。
ポーランドの民主化運動を長年追っていたドキュメンタリー映画監督のミハウ・ビエラウスキに会った。ビエラウスキは警察の書類を開示請求して調べていくうちに、サッカーに対する凄まじい圧力の事実を確認していた。
当時ポーランド政府はボニエクを懐柔し、諜報活動と代表チーム内の不満分子を監視する役目を担わせようとしていたという。
「内部情報機関が選手の振る舞いについてリポートしたものが出てきた。その中で何度もボニエクを通報者にしようと説得を試みたという記録があった。1986年に彼がキャプテンになったときには、ボニエク・ファイルまで作られていた」
でもね、とビエラウスキは続けた。
「一切、彼は頑としてなびこうとしなかったということも報告されていた」
戒厳令を体験した40歳以上の国民にとって、ボニエク会長は民主化のシンボルともいえる。
現在、ジュムダはリタイアしてワルシャワ郊外で暮らす。回顧し、そして頼もしく言う。
「あの戒厳令を乗り越えられたのはボニエクの力だ。秘密警察もヤルゼルスキも恐れずに、しかもサッカーで結果を出した。代表チームがデモクラシーを持ってきた。間違いない。彼とは14歳のときから一緒にプレーをしたが、いつも自分を信じている。そんな男がW杯に会長として乗り込むのだ。期待しないわけがないだろう。少なくとも私は1982年を重ねて見ている」
タレントもレヴァンドフスキだけはない。「サイドバック(SB)のピシチェク、MFのクリホヴィアク、ディフェンダー(DF)グリクは欧州屈指だ」
予選1位通過を勝ち取ったメンバーの結束は固く、誰ひとり亡命者を出さなかった36年前とシンクロするというのだ。
日本が立ち向かう相手はかように手ごわく、そして魅力的だ。
木村元彦(きむら・ゆきひこ)
1962年愛知県生まれ。中央大学卒。ノンフィクションライター。東欧やアジアの民族問題を中心に取材、執筆活動を続ける。著書に『オシムの言葉』『蹴る群れ』『徳は孤ならず』など。