なぜ箱根駅伝中継は面白いのか「テレビが箱根を変えてはいけない」

箱根駅伝中継中の副調整室。ディレクターが田中、後方で見守っているのが、坂田である

 今年、青山学院大の4連覇で幕を閉じた箱根駅伝。この大会はかつてNHKラジオで聞き、スポーツニュース映像で確認し、そして専門誌で検証するものであった。追体験として伝説のランナーとは主に誌面で遭遇した。天下の険をバックに競技場のトラックでは見られないまさに剥き出しの個性がそこにはいた。

 2区で12人抜いた東京農大の服部誠、4年連続で5区区間賞の大東文化の大久保初男、後の五輪コンビとなる中村孝生、新宅雅也と共に日体大連覇に活躍した双子の坂本兄弟…。そう、日体大と言えば、53回大会で一区の石井隆士がいきなり最初の30メートルで後方に3メートルの差を付けたと言われる猛烈なスタートダッシュも印象に残る。本来1500mの選手であった石井がスプリンターもかくやと思うスピードでそのまま2位以下をぶっちぎった走りは強烈だった。

 しかしながら、それらはあくまでもダイジェストとして切り取られたもので大会全体を俯瞰して味わえるものではなかった。早稲田の切り込み隊長、石川海次からタスキを受けて二区を快走する瀬古利彦に向けてジープから中村清監督が都の西北を歌い、「お前について来る奴がいたら世界一だ」と鼓舞する誌面は確かに見応えがあったが、それがレースの中でどのような局面で行われたものか、前後の展開が分からないのでスポーツ観戦としての歯がゆさは残った。それらの断片が一気にライブでつながったのが1987年。日本テレビが生中継を始めたのである。

 2018年ですでに31年目を迎えながら高視聴率を継続、日本の正月の風物になっていると言っても過言ではない。しかし、開始するにあたっては日本テレビ社内で大きな反対な声が上がっていた。曰く、「関東ローカルの大会で視聴率が取れるのか?」「制作費が回収できない」「箱根の山からの中継は電波が届かず技術的に不可能」「事故がおきたらどうするのか?」等々、電波が上手く繋げられるかどうかも分からない前代未聞の挑戦にネガティブな指摘は尽きなかった。

 昨年末、当時のプロデューサーとして生中継を立ち上げた坂田信久、初代中継総合ディレクターとして総合演出を担った田中晃の両氏と箱根を訪れる機会に恵まれた。現在WOWOWの代表取締役社長を務める田中の社用車で小田原からゴールまで、いわゆる往路の最終五区を道行きするという貴重な時間であった。箱根を伝える意義、引いてはスポーツ中継の哲学について、車中で行われたインタビューを届けたい。

 坂田が実現に向けて、社長以下役員を説得していた1986年当時を振り返る。

「企画書はプロデューサーが書くんですが、箱根駅伝の場合、僕の名前だけでは通らないだろうと思ってチームとして出しました。その中にスポーツ中継のエースだった田中君に入ってもらった。それまで僕からスタッフを指名したことは無かったけれど、こればっかりは失敗して悔いを残したくなかったから。彼は僕には無い技術スタッフからの求心力があったからね。役員に指摘された懸案はひとつひとつ潰して行きました。ローカル大会ではあるけれど、その年に走った選手の出身地を調べたら47都道府県の中で選手がいないのは2県だけでした。字幕で選手を紹介するときに出身地を出しますと言ったり、地理的に技術の手当てができないところは大会や選手のエピソードなどを映像化してカバーすれば余計に価値も高まりますと説明してようやく役員会議が折れてくれました」

 田中はその詳しい経緯は知らなかったが、すでに決裁が降りる前から、箱根の山の中を飛び回っていた。「坂田さんはとにかく実現させるという信念の元ですでに動いていましたから。現地に入って最初はこんな林間コースをどうやって電波を通すのだと考え込みました。通常ロードレースは移動中継車の電波を空に上げてヘリコプターを中継基地として受信してこれを放送センターに飛ばすわけですが、それがこんなにくにゃくにゃ道が曲がっているのにヘリコは車の上を飛んでいけるのかと、技術も最初は二の足を踏んでいました」

 当初、技術局長は「あまりに危険過ぎてできません」という回答を出して来た。当然ながら放送事故が起きれば技術の責任になる。しかし、坂田の同期の技術スタッフ、大西一孝が「今まで誰もやっていないことにトライするのは面白い」と賛同してくれた。総勢650人のスタッフが動き出した。

 車が山道に入ると31年が経過したとは思えない田中の詳細な技術解説が始まった。

「あそこの林道山頂やあの二子山の上に受信ポイントを作りました。スタッフは年末からテントを張って泊り込むんです。富士屋ホテル。ここもカメラポイントです。さっきの林道山頂からはここまで電波は受けられる。初年度は相当過酷な環境でしたね。13食連続弁当で小涌園のコンベンションセンターで雑魚寝ですよ。過去に無いことをやるんだというモチベーション無くしてこの仕事はできなかった。ワンカットのために屋上に一週間前から詰めるんです。マンションの屋上で寒風吹きすさぶ中もカメラマンはじーっと待っていないといけない。ドライバーも上りは良いけど、下りは速くなる。沿道に人はいるし、ランナーの速度なので自分のペースで走れない。ものすごく神経使うと言っていましたね。あっと、ここから登り、この辺が本当に急なんです。箱根の山はヘリが飛ばなくて当たり前なんですよ。特に小涌園から先がしょっちゅう霧がかかっている。ヘリが飛ばないとどう克服するか。それなりに映像と音声がつながらないとスポーツ中継にならないじゃないですか。さっきはポイントを山の上に置いたけど、この辺は先に40mクレーンを入れたり、気球を上げてそこに受信機をつけてテストしました。銀色の気球を見た町民がUFOを観たと警察に通報したり、そんなことがありましたね」

 艱難辛苦を乗り越え、第一回中継が終わると、予想を超える大きな反響が巻き起こった。過酷な環境に耐え、苦行を成し遂げたスタッフの間からも不満が出るどころか、来年もやりたい、更に放送枠を広げてやりたいという声がほとんどであった。高視聴率に喜んだ会社サイドではなく、むしろ箱根の魅力に取りつかれた現場から「もっとこの仕事をしたい」「もっと苦労がしたい」という要求が突き上げられたのである。

 田中が言った。「最初は本当に画と音を繋ぐのに精いっぱいでしたが、やがて中継のフィロソフィーが固まって来ました、それを作りあげたのが坂田さんでした」

 坂田は日本マラソンの父、金栗四三が考案したこの箱根駅伝の徹底的に歴史を調べ上げ、参加した選手たちの多くに話を聞くにつけ、ひとつの結論にたどり着いた。

 「選手のみならず、関係者、沿道で声援を送る人たち、箱根に関わったすべての人の思いを伝えなければこの駅伝を中継したとは言えない。テレビが箱根駅伝を変えてはいけない。そしてテレビは中継してあげているのではなく、我々は中継させてもらっているという気持ちで仕事をするように。それを後輩たちに伝えました」

 ディレクターの田中が「テレビが箱根を変えてはいけない」をさらに言語化する。「凄い大会だということが改めて分かってきたんですね。多くの人が、箱根を語るときに一生の宝物だと言って涙を流す。そんな大会は無いですよ。これは個人のドラマの100年の集積です。それはメディアの力やスポンサーの力をはるかに超えている。タスキが途切れたら、その人にとって大変な、人生の中で何十年も重たいものを背負う。しかも選手はプロでは無い。アマチュアの学生の痛恨や挫折をテレビは生で見せていることですから、覚悟がいりますよ。とてもテレビごときが変えてはいけない。箱根の本質に恐れおののきながら中継する。だからこそ、箱根を中継させてもらっているという謙虚さが必要なんです」

 田中は坂田のフィロソフィーを単なるお題目にせず、放送する上で具現化した。箱根は選手個人の戦いと捉え、ゴールとなる中継所においては誰ひとりとしてタスキリレーをカットしない。そしてアナウンサーには学校名ではなく、個人名で言うように指導した。更には誰でも言える紋切り型の実況「母校のために」「チームのために」そんなコメントは一切排除し、なぜ彼は頑張れるのかを具体的に伝えるために個々の半生を丁寧に取材させた。それもまた大会や選手に対するリスペクトがあるが故の業である。

 オリンピックにせよ、ワールドカップにせよ、テレビがつくことによって巨大なコストを回収して来た。しかし、それによって競技やアスリートの環境が変質していったことは否めない。巨大なマーケットとなる先進主要国の時差に合わせての試合開始時間の設定などはその最たるものである。なぜ選手のパフォーマンスが落ちる真夏の日中にキックオフなのか。最近ではダ・ゾ-ンがネット視聴者の増大を狙い、Jリーグにスタジアム集客が落ちる金曜日開催を求めている。

 翻って箱根の中継は芸能人の応援団を繰り出すわけでもなく、視聴率アップを目的とした演出を施すわけでもなく、極めてストイックに駅伝そのものを変えようとせず31年目に突入した。坂田がかつて言った。「時代が変わっていけばいくほど、変わらない箱根駅伝が評価される」その通りになった。

 最後に車がゴールが近づくと図ったように田中が言った。「ああ、ここまで来ると上り坂もあとわずか。昔は目をつぶっても湯本からどこを走っているか分かりました」今は自動追尾であるが、当時は移動中継車からヘリコや中継ポイントにガスって対象物が見えないときも電波の発射装置のマイクロを向けないといけなかったのである。

 「テレビが箱根を変えてはいけない」手作りの創成期から、技術が飛躍的に進歩した現在に至っても箱根駅伝の中継が広く愛されるのはこの揺るぎないフィロソフィーが連綿と継承されているからである。