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だから、勝てた――稲葉監督「五輪には連れて行けない」の意味を今、かみしめる

木村公一スポーツライター・作家
(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

 稲葉篤紀監督は、「結束」という言葉を常に口にしていた。「チーム一丸となって」とも。言葉にするとわかった気になりがちだが、では具体的に説明しようとすると難しい。ましてや当事者として短期間の国際大会の中で実践するとなれば、なおさらだ。

 だからこそ、時間と機会が必要だった。

 どの試合からだったろう。捕手の甲斐拓也が守りからベンチに引き上げてきたとき、汗も拭かずにブルペンと通話する姿が見受けられ、注目されるようになった。通常、この電話はベンチの投手コーチがプルペンの担当コーチと中継ぎ陣の仕上がり具合や出番の通達などに利用するものだ。それを試合中の捕手が使うことなど、聞いたことがない。

 甲斐は「次に出る投手が少しでも相手打者の特徴や(捕手の)自分の考えをマウンドに上がる前に伝えておければ、試合に入りやすいと思ったから」と述べていた。当然、コーチ陣から頼まれたわけではなく、甲斐自身が発案したに違いない。おそらくは金メダルのエピソードとして語り継がれるものだろうが、この通話も、甲斐という捕手が投手たちとコミュニケーションが取れているからこそ、成り立つことだ。シーズンは敵であっても、ひとたび集まればチームとして機能できる。

 ただ、そうなるための時間が、これまでの日本代表にはなかな与えられていなかった。せいぜいが3月、11月の日米親善野球くらいで、北京五輪の前も6日間ほど東京(ジャイアンツ球場)で合宿を行ったくらいだ。それでも前年11月末に台湾で北京五輪のアジア予選があったため、まだチームとしての継続性は取れていたが、選手同士が遠慮なく語り合えるまでには至らなかった。挙げ句には銅メダルすら手にできない最後。チームは文字通りバラバラだった。プロはプロなりの人間関係があり、ヒエラルキーがある。それを溶解するのは簡単なことではない。高度なプレーをする選手たちだからこそ、わずかなほころびがミスや心の離反に繋がってしまう。

「五輪には連れて行けない」

 そんなチーム内での空気を知る当時の稲葉選手は、思い知ったはずだ。

 プロが五輪に出場する難しさを。

 だからこそ、代表監督に就任した際、なによりも「結束」を重要視し、時間と強化試合やプレミア12などの機会を重要視した。

 一昨年秋のプレミア12選手選考のとき。故障でもないのに出場を辞退する選手が数名いた。まだ公式発表前の、水面下での打診段階の話だ。断りを入れてきた選手らの報告を耳にした稲葉監督は、「ならば(その選手たちは)五輪には連れて行けない」という趣旨の発言をしたと聞いた。マスコミ関係者の中では「稲葉監督の逆鱗に触れた」と囁やかれもした。しかし実情は違ったと思う。「連れて行かない」ではなく「連れて行けない」という違いにそれが読み取れる。

 かつて五輪の野球競技は、アマチュア(主に社会人)が出場する大会だった。社会人は4年に一度の五輪を頂点に置き、世界一を目指した。金属バットを使用していた1990年代はキューバが圧倒的に強く、打倒キューバが野球日本代表の目標だった。そんな強敵と対峙するため、さまざまな戦略が立てられたが、どの大会に向けても変わらないのは、重ねて行われた代表選考合宿だった。五輪が終われば程なく代表選考合宿が始まり、それは2次、3次と毎年繰り返された。選手が絞られ、入れ替わる。社会人の選手たちにとっても、日本代表は野球人生の最も価値あるものだったから、代表から外れることは無念に他ならない。同時に、残った選手たちは、外れた者の思いを受け止めていく。そうやって4年の月日を費やして、技術、戦術とともに、より結束力ある戦う集団を作り上げていったのだ。

 言い換えれば稲葉監督は、そうした過程を、可能な限りプロという制約の中で試みようとした。プレミア12で外れた選手も、ともにプレー出来ないなら十分な意思疎通を育めない。そうした選手では五輪も一緒に戦えない。

 そして残り、集ったのが、今回の代表選手たちだった。

 だから、勝てた。

そして、五輪野球の将来は

 13年前の夏。

 星野ジャパンがメダルを逸した内容の原稿を未明まで書き、午前中遅くまで眠ったあと、筆者は初めて北京の町に出た。それまではホテルと球場の往復で、食事もなにを食べていたのか覚えていないほど、毎試合の観戦取材に時間を費やしていた。翌日は帰国。だからせめて、町くらい散策してみようと思ったのだ。

 タクシーに乗り繁華街で降りると、閉会式を待たずに、すでに仮設の競技場スタンドなどが取り壊され始めていた。どんな種目会場だったかはわからなかったが、重機で壁を破り、むき出しの鉄筋がかき集められ更地になっていく。その様を見て五輪の終わりを、そして星野ジャパンの敗北を改めて実感した。

 あれから13年が経ち、日本は正式種目として初めての金メダルを獲得した。為し得なかったプロとしての結束での獲得だった。そしてその余韻も醒めぬうちに、次期監督の話題が進み始めたようだ。時は待ってはくれない。

 だがそれが自然なことなのだろう。勝った直後、負けた直後から次のオリンピックに向けての日々が始まる。多くの競技のあり方だ。

 ただし、野球の将来は見えていない。3年後のパリ大会は再び正式種目から外れ、28年にはロサンゼルスで開催される。野球の本場としてかりに復活できたとしても、その後はみたび、開催国によって可否が左右される。

 野球は五輪にとってやはり必要とされないものなのか。それとも、やることの価値に変わりはないのか。

 問答は金メダル獲得しても、なお続く。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

スポーツライター・作家

獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテイターも。でもここでは国内野球はもちろん、他ジャンルのスポーツも記していければと思っています。

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