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MLB史に残る「ビッグ・レッド・マシン」絶頂期の主力がついに鬼籍に…。「リトル・ジョー」の死を悼む

菊田康彦フリーランスライター
モーガンの死はポストシーズン真っただ中のメジャーリーグの球場でも追悼された(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 1970年代のメジャーリーグで黄金期を築いたシンシナティ・レッズの中心選手として2年連続MVPに輝き、1990年に野球殿堂入りも果たしたジョー・モーガンが77歳で死去したと、メジャーリーグの公式サイトなどが報じた。

「小さなからだに似合わず、思いのほか飛距離が出る」

 野球殿堂入りの名将、スパーキー・アンダーソン監督の下、1970年から76年にかけて地区優勝5回、リーグ優勝4回、ワールドシリーズ制覇2回という隆盛を誇ったレッズにあって、「リトル・ジョー」、「リトル・ジェネラル(小さな将軍)」などと呼ばれたモーガンは、ピート・ローズ、ジョニー・ベンチらと共に欠かすことのできないメンバーだった。

 打席に入り、打ちに行く直前、バットをブルン、ブルンとこねまわす独特のスタイル。

 打球は小さなからだに似合わず、思いのほか飛距離が出る。外野手の間を抜けば、見る間に二塁から三塁ベース。足も速い。

 守りにかけても抜群。ゴロに対する出足の速さ、併殺プレーのクィック・ハンド。これまた超一流。

出典:「これが大リーグだ アメリカ野球の魅力をさぐる」(朝日ソノラマ)

「大リーグ」に対する造詣の深さでは日本一といわれた「パンチョ」こと故・伊東一雄氏の言葉を借りれば、これが彼のプレースタイル。チームの看板であった首位打者3回のローズ、本塁打王2回、打点王3回のベンチと違って打撃3部門のタイトルとは縁がなかったため、日本では彼らに比べて知名度は低い。

看板スターのローズ、ベンチを抑えて2年連続MVP

 だが、身長170センチ、体重72キロとメジャーリーガーとしては当時でも極めて小柄ながら、その存在感は大きかった。レッズが2年連続でワールドチャンピオンまで駆け上がり、「ビッグ・レッド・マシン」の異名を取った黄金時代の中でも頂点というべき1975、76年にいずれもナ・リーグMVPに輝いたという事実が、その価値を物語っている。三番・セカンドとして、攻守にチームを支えたモーガンの、この両年における打撃成績を見てみよう。

【1975年】

試合146 得点107 安打163 二塁打27 三塁打6 本塁打17 打点94 盗塁67 四球132 打率.327 出塁率.466 OPS.974

【1976年】

試合141 得点113 安打151 二塁打30 三塁打5 本塁打27 打点111 盗塁60 四球114 打率.320 出塁率.444 OPS1.020

 3部門のタイトルには届かなかったものの、実にバランスがいい。打率は1975年がリーグ4位、76年は5位で、打点も76年は2位。両年とも出塁率とOPSは1位、盗塁は2位にランクされている。

「夢のようなラインナップ」は全員が球団殿堂入り

 ちなみにこの2年間のレッズは、野手はまったく同じレギュラーで戦っている。その顔ぶれは以下のとおり(カッコ内はレッズ在籍時の球宴選出、ゴールドグラブ受賞回数、および現在の年齢)。

捕手:ジョニー・ベンチ(球宴14回、GG10回=73歳)

一塁:トニー・ペレス(球宴7回=78歳) 

二塁:ジョー・モーガン(球宴8回、GG5回=享年77歳) 

三塁:ピート・ローズ(球宴13回、GG2回=79歳) 

遊撃:デーブ・コンセプシオン(球宴9回、GG5回=72歳) 

左翼:ジョージ・フォスター(球宴5回=71歳) 

中堅:シーザー・ジェロニモ(GG4回=72歳) 

右翼:ケン・グリフィー(球宴3回=70歳)

※ローズのゴールドグラブ賞は2回とも外野手としての受賞

 全員がレッズの殿堂に入っており、このうち米国野球殿堂入りを果たしているのはモーガン、ベンチ、ペレスの3人。彼らに加え、ローズが3回目の首位打者に輝いた1973年、フォスターは初の本塁打王になった77年にナ・リーグMVPを獲得しており、半数超えの5人がMVP受賞経験者。さらにベンチを除く7人は、規定打席以上で打率3割をマークしたことがある。まさに、夢のようなラインナップと言っていい。

 レッズはワールドシリーズ連覇から2年後の1978年秋に、日米野球で来日している。しかし、ペレスはその前年にモントリオール・エクスポズ(ワシントン・ナショナルズの前身)にトレードされており、モーガン、コンセプシオン、ジェロニモはそれぞれの事情で出場しなかったため、絶頂期のフルメンバーを日本で見ることはかなわなかった。それでも「ビッグ・レッド・マシン」は強かった。

名将に続き、レギュラーからも物故者が…

 この時の日米野球は読売新聞社の主催で、レッズは対読売ジャイアンツ9試合、対全日本2試合のほか、大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)と巨人の連合軍など混成チームと6試合で、計17試合を戦って14勝2敗1分け。看板スターのローズは最終戦を除く16試合でヒットを放ち、名物のヘッドスライディングを何度も披露すると、ベンチは9本塁打とパワーを見せつけた。

 この日米野球で指揮を執った直後に解任され、デトロイト・タイガースの監督に転じて1984年に史上初めて両リーグでワールドシリーズを制したアンダーソン監督は、今から10年前に76歳で死去。その時もショックだったが、とうとう当時のレギュラーからも物故者が出たことには、本当に寂しさを禁じ得ない。残るメンバーには1年でも、1日でも長生きしてほしいと願うばかりだ……。

フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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