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元巨人、ロッテ、日本ハムの助っ人らも着けた背番号がフィリーズの永久欠番に

菊田康彦フリーランスライター
現役時代はオリオールズでも15番だったジョンソンは、同球団監督時代もこの背番号(写真:ロイター/アフロ)

 メジャーリーグのフィラデルフィア・フィリーズは、1960年代から70年代にかけて同球団で活躍したディック・アレン(78歳)が着けていた背番号15を、永久欠番にすると発表した。アレンのメジャーデビューから57周年を迎える来月3日に、記念のセレモニーが行われる。

在籍9年で球団歴代10位の通算204本塁打

 ペンシルバニア州生まれのアレンは、1960年にフィリーズと契約すると、3年後に背番号32でメジャーデビュー。新たに15番を背負った1964年は正三塁手として全162試合に出場し、打率.318、29本塁打、91打点に加え、共にリーグ最多の13三塁打、125得点でナ・リーグ新人王を受賞した。

 この年から4年連続打率3割、6年連続20本塁打(うち30本塁打以上3回)をクリアし、1966年にはいずれもキャリアハイの40本塁打、OPS1.027をマークするなど、主砲として活躍。1969年オフにセントルイス・カージナルスへトレードされると、ロサンゼルス・ドジャースを経てシカゴ・ホワイトソックスに移籍した1972年には本塁打と打点の2冠でア・リーグMVP、1974年には2度目の本塁打王に輝いた。

 アレンは1975年の途中でフィリーズに復帰し、翌76年まで通算9シーズン在籍して、現在も球団歴代10位の通算204本塁打を記録(キャリア通算では351本塁打)。こうした功績が認められ、引退後の1994年には球団の殿堂入りを果たし、今回はこれまで球団史上でも7人しかいなかった永久欠番の栄誉に浴することとなった(ほかに元ドジャースのジャッキー・ロビンソンの背番号42が、全球団共通の永久欠番になっている)。

「アレンの背番号」として永久欠番となったフィリーズの15番だが、筆者にとってまず思い浮かぶのは、アレンが現役最後の球団となるオークランド・アスレチックスに移籍した1977年に、代わってこの番号を着けた選手である。それが前年まで、読売ジャイアンツでプレーしていたデーブ・ジョンソンだった。

「ジョン損」はフィリーズでシーズン2本の代打満塁弾

 オールドファンなら「ジョン損」という異名(?)を覚えていることだろう。ボルティモア・オリオールズ、アトランタ・ブレーブスでオールスター選出4回、ゴールドグラブ賞3回という実績を引っ提げ、「バリバリの現役大リーガー」として1975年に来日したジョンソンも、引退したばかりの長嶋茂雄監督に代わる正三塁手として期待された1年目は打率.197、13本塁打とさっぱりだった。

 ところが“本職”の二塁にポジションを移した翌1976年は一転して打率.275、26本塁打で巨人のリーグ優勝に貢献し、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)にも輝いた。後楽園球場で一、二塁間を抜けようかというゴロを外野の方まで追いかけてグラブに収め、素早く一塁に送球してアウトにしたプレーは、筆者も子供心に強烈な印象として残っている。

 1976年限りで巨人を退団し、メジャーに復帰したそのジョンソンがフィリーズで背負ったのが、前年までアレンが着けていた15番。まだ、海の向こうの野球に触れる機会は限られていた時代だが、1978年にフジテレビが「アメリカ大リーグアワー」(毎週月曜)、「アメリカ大リーグ実況中継」(毎週日曜)の枠で放送したことで、メジャーリーグはそれまでとは比べものにならないくらい身近になった。この年、ジョンソンはフィリーズでメジャー史上初となるシーズン2本の代打満塁本塁打を放っている。

のちにロッテ入りのフランコはルーキー時代に背番号15

 その後も、日本と縁のある選手がフィリーズでこの15番を背負っている。1982年にはルーキーの遊撃手、フリオ・フランコが着けた。彼は1991年にボビー・バレンタイン監督率いるテキサス・レンジャーズで首位打者となり、1995年にはそのバレンタインが新たに監督に就任した千葉ロッテマリーンズに入団。打率.306(パ・リーグ3位)、10本塁打の成績を残し、一塁手としてベストナインとゴールデングラブ賞を受賞するなど、ロッテの2位躍進に大きく貢献した。いったんメジャーに戻った後、1998年にロッテに復帰して主将を務め、この時は二塁手でベストナインに輝いている。

 1985年から3年間、フィリーズで15番を着けたのが三塁手のリック・シュー。個人的な話になるが、筆者が初めてメジャーリーグの試合を現地観戦した1987年8月8日のセントルイス・カージナルス戦で、ホームランを打った選手である。彼は1993年に日本ハムファイターズに入団し、この年はマット・ウインタースに次いでチーム2位の24本塁打。翌94年は14本塁打を放った。

 ほかには2001年に横浜(現横浜DeNA)ベイスターズでプレーしたデーブ・ドスター、2006年の途中で東北楽天ゴールデンイーグルスに入団したエリック・バレントも、フィリーズ時代に1シーズンだけ背番号15を着けている。ちなみに2005年にメジャーリーグに移籍した井口資仁(現ロッテ監督)はシカゴ・ホワイトソックス時代は背番号15だったが、フィリーズでは12番(2007年)と9番(2008年)を着けていた。

フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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