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ローマ教皇が表敬訪問したイラクのシーア派権威シスターニ師の実力(後編)/ 米、イラン、ISから国守る

川上泰徳中東ジャーナリスト
2018年の選挙での集会でシスターニ師の肖像を掲げるシーア派の人々(写真:ロイター/アフロ)

 前編でフランシス教皇の表敬訪問に対して、イラクのシーア派権威のシスターニ師は、イラクのキリスト教徒の権利と安全を保障するのは宗教権威の役割だという見解を公表したと書いた。文書による声明だけでなく、シスターニ師は教皇との面会で、これまでほとんど出していない教皇に語り掛ける動画を出したことも触れた。それはシスターニ師が教皇を特別な賓客として遇したことを示す。しかし、シスターニ師とはいったい何者なのか。どのような影響力を持つのだろうか。

■信者が自主的に払う20%の宗教税

 ナジャフはシーア派の聖地というだけでなく、イランの宗教都市コムと並んで、シーア派教学の中心である。シスターニ師はアヤトラ・オズマ(大アヤトラ)と呼ばれる法学者の最高位で、ナジャフには現在4人の大アヤトラがいて、シスタニ師はその中でもトップである。

にぎわうナジャフの中心部。正面奥にある黄金のドームは、シーア派の初代イマーム(宗教指導者)のアリの廟があるアリ・モスクで、シーア派の聖地である=2009年11月、筆者撮影
にぎわうナジャフの中心部。正面奥にある黄金のドームは、シーア派の初代イマーム(宗教指導者)のアリの廟があるアリ・モスクで、シーア派の聖地である=2009年11月、筆者撮影

 私は2009年11月、イラク戦争後にイラク政府を主導することになったシーア派に強い影響力があるナジャフのシーア派宗教界と、その頂点に立つシスターニ師について知りたいと思い、新聞社の連載企画のためにナジャフに2週間滞在して取材する中で、4人の大アヤトラのうち、シスターニ師以外の二人と会った。シスターニ師は最初からメディアとは合わないということだった。

 この4人の大アヤトラのうちイラク生まれは一人だけで、残る3人の生地は、イラン、インド、アフガニスタンである。その中でシスターニ師はイラン生まれで、最初、イランのコムで学び、1950年代の初めにナジャフに移った。大アヤトラが地元のイラク人に限らないことは、ナジャフが国境を越えた宗教都市として、世界中のシーア派社会からイスラムを修めようとする学生を集めている国際性を示す。

筆者が2009年にナジャフの取材をした時にインタビューをした大アヤトラの一人、バシール・ナジャフィ師。教皇が会ったシスターニ師の部屋と同じく質素なたたずまいの部屋だった(写真はナジャフィ師事務所提供)
筆者が2009年にナジャフの取材をした時にインタビューをした大アヤトラの一人、バシール・ナジャフィ師。教皇が会ったシスターニ師の部屋と同じく質素なたたずまいの部屋だった(写真はナジャフィ師事務所提供)

 シスターニ師の自宅兼事務所は、アリ・モスクから数十メートルのところにあり、狭い道をたどって訪ねていった。今回、フランシスコ教皇は歩いた道である。事務所の前には狭い通路に人々が集まっていた。シスターニ師が主催する慈善事業に援助を求める人々と、イスラムの教えで定められたフムス(5分の1)と呼ばれる宗教税を支払う人々である。フムスとは収入の5分の1(20%)を指すが、信者は自分が信奉するシーア派の宗教権威に、家や土地、車などを買った時に、その代金の20%を支払う。

 フムスは強制されるわけではないが、払わなければ天国に行くことはできない。国の税金とは異なり、ごまかして報いを受けるのは自身である。ある信者に話を聞くと、大アヤトラの事務所でフムスを算定してもらい、事務所に払うのは10%で、残りの10%は「自分で貧しい家族に与えなさい」と戻されたという。もちろん、その10%も、自分の周りの貧困者を助けるために使う。イスラムの教えに従って生きることで、天国に行くことができると信じるのがイスラムである。

 

 シスターニ師の権威は、イラクだけにとどまらない。国境を越えて集まってくる莫大な宗教税を使って、留学生を養うための学院を開いて、世界中のシーア派社会から留学生を集め、信者のための慈善活動や文化活動を幅広く行っている。

■米軍占領を批判し、早期選挙を求める

 シスターニ師はイラク戦争後の混乱の中で圧倒的な影響力を持っていた。2003年4月にバグダッドが陥落して、サダム・フセイン政権が崩壊し、米軍の占領が始まった後、シスターニ師は米軍占領や占領当局が一方的に任命した統治評議会の設立を批判し、民衆の選挙による政治を実現するファトワ(宗教見解)を出した。それに呼応して、早期選挙を求めるシーア派の民衆のデモが起こった。

 占領米軍は占領を前倒しで終了させ、2005年1月にイラク戦争後初の国民議会選挙が実施された。バグダッド陥落から1年9カ月後の総選挙であり、その間、米軍攻撃が激化し、自爆テロが頻発するなど状況は悪化した。シスターニ師が一貫して選挙実施を唱えなければ、とても早期の総選挙は行われなかっただろう。

 総選挙ではシーア派政党の大部分が、シスターニ師の呼びかけに応じて、シーア派統一リストに参加し、過半数の議席を獲得した。シーア派の民衆の間では、シーア派リストは「シスターニ師のリスト」と呼ばれて信頼された。この選挙によって、現在に続くシーア派主導の新生イラク政府が生まれた。

 イラク戦争後、シスターニ師の政治的な影響力に世界の関心が集まったが、サダム・フセイン時代は政治に関与しない立場をとった。イラク戦争後も、イスラム法学者の立場で政治に助言することはしても、宗教者が直接に政治に関与することは適切ではないという立場をとった。その点では、イランのイスラム体制のように「イスラム法学者の統治」とは一線を画する立場である。

■ISとの戦いを呼び掛けるが、イランの介入に批判的

 その後、シスターニ師に世界の注目が集まったのは、2014年に「イスラム国」(IS)が登場した時だった。同年6月にスンニ派過激派がイラク北部にあるイラク第2の都市モスルを制圧し、その後、シリアにまたがるISを宣言する流れの中で、シスターニ師は国民に対して武器をとり、ISから国を守る戦いに参加することを求める宗教見解を出した。この呼びかけに応じて、シーア派を中心に「民衆動員部隊(PMF)」が組織され、その後のISとの戦いが行われた。

 ただし、民衆動員部隊はイランの革命防衛隊に属するクドス部隊を指揮するスレイマン司令官の支援を受け、同司令官が実質的な指揮権を握った。これについて、イラクの新聞がスレイマニ司令官の参加を、シスターニ師が認めていると報じたのに対して、シスターニ師の事務所は「根拠のない報道」と否定する声明を出した。

 さらにイラクのシーア派民兵が、スレイマニ司令官の下でシリア内戦に参加することについても、シスターニ師は反対する立場であり、2017年にISが支配していたモスルが解放され、ISが排除されると、シスターニ師は民衆動員部隊はイラク政府の指揮下に置かれるべきだと求めた。

 シスターニ師はイラン革命防衛隊の影響力がイラクで強まることや、革命防衛隊の海外戦略にイラクの民兵が組み込まれることに反対していた。2020年1月に米国の空爆によってスレイマニ司令官と、民衆動員部隊の副司令官が殺害され、イランと米国の対立が強まった後、シスターニ師に忠誠を誓う4つの軍団が、民衆動員部隊から離れて、イラク政府の指揮下に入ったというニュースが出た。シスターニ師とイランの亀裂が深まったとする見方が流れた。

■若者たちの反政府デモで政府を非難

 シスターニ師の政治への影響力を示した最新の事例は、2019年10月にシーア派の若者たちがイラク政府の腐敗に対する大規模なデモを始め、バグダッドからイラク南部のシーア派地域にデモが拡大した時である。11月下旬までに治安部隊による銃撃で400人のデモ参加者が死亡する事態になり、シスターニ師はデモ隊に平和的なデモを呼び掛けながらも、「非暴力のデモ隊に対する(治安部隊の)攻撃は禁止されている」とする宗教見解を出し、「首相を選出した議会は、その選択を見直すべきだ」とまで述べた。その結果、当時のマフディ首相が議会に対して辞意を表明した。

 シーア派の若者たちのデモは同年11月初めにイラク中部のカルバラにあるイラン領事館に対して行われ、領事館の警備との衝突が起こるなどして、デモ隊から死傷者が出た。シーア派の若者たちの間には、イランがイラクの内政に介入し、シーア派政治組織の関係者やシーア派民兵だけが政府への就職などで恩恵を受けていることに強い反発が出ていた。

 以上の流れを見れば分かるように、シスターニ師の立場は、イラクの運命はイラク人が選挙を通じて決定するべきだというもので、米国の介入も、イランの介入も拒否する立場である。イラク戦争後、イランはイラク政治を主導したシーア派政治勢力を支援し、強い影響力を持ったが、イラクのシーア派勢力がイランからある程度、独立を保つことができたことには、シスターニ師の存在が大きい。

■教皇庁はシスターニ師の姿勢を評価

 フランシスコ教皇がシスターニ師と会談したのは、以上のような師の役割や影響力の大きさを十分に考慮した上でのことである。ローマ教皇庁の広報機関であるバチカン・ニュースは、フランシスコ教皇がシスターニ師を訪問した時の記事の中で、「シスターニ師はについて宗教権威が直接的な政治活動に関わることを控えるよう唱え、イラク国内の多様な政治や宗教組織間の貴重な調整役とみなされている」と紹介している。

 さらに、①2004年にイラクの初めての民主的選挙に重要な貢献をした。②2014年にISに対してイラク人が団結して戦うよう求めた。③2019年に大規模なデモが始まった時に、デモ隊と警察に暴力を避けるよう求めたーーと3点での貢献を紹介し、単なる宗教対話ではなく、シスターニ師の立場や影響力を判断、評価していることが伺われる。

 フランシスコ教皇がコロナ禍とテロの危険をおかして、シスターニ師の自宅を訪ねてまで、対話を行ったことは、①イラク戦争後の米軍の占領、②イランによる介入、③ISの拡大――という3つの脅威から、イラクを守ろうとしてきたシスターニ師の宗教権威としての役割に敬意と連帯を表したものであろう。

■シスターニ師が流した動画の意味

 シスターニ師にとっても、ローマ教皇との会談を重視していることは、前編で紹介したアラビア語の声明についている会談の動画を公表したことにも表れている。特に、イランとの力関係を考えた時に、大きな意味を持つ。教皇が訪れたことで、イラク国内と、イスラム世界と、さらに欧米に対して、シーア派の中心が、イランのコムではなく、イラクのナジャフであることを印象付けることができるということである。イランのシーア派体制が経済制裁下に置かれて孤立しているとすれば、ナジャフはローマ教皇も訪れるほどに世界に開かれているという強みを持つ。

 1970年代までは、ナジャフがシーア派世界の中心であり、レバノンや湾岸諸国からも宗教指導者はナジャフで学究を積んだ。シスターニ師が50年代にコムからナジャフに移ってきたのも、学問を究めるためだったであろう。レバノンのシーア派ヒズボラ党首のナスララ師も、若いころ、ナジャフで学び、いまでも、ナスララ師が寝泊まりしていたとされる部屋がある。シーア派が国民の多数を占めるバーレーンのシーア派最高権威のイーサ・カーシム師も1960年代にナジャフで学んだ。しかし、1979年にスンニ派のサダム・フセイン大統領が就任して以来、シーア派宗教界は迫害を受け、多くの宗教者がコムに逃げ、宗教活動も制限され、ナジャフは勢いを失っていった。

■復活したナジャフに、圧倒的なイランの圧力

 イラク戦争によって、フセイン体制が倒れ、シーア派主導となったことで、ナジャフはシーア派の中心として急速に求心力を強めている。しかし、イラク戦争後のイランの政治的、軍事的な圧力は圧倒的で、イラクがいつイランのイスラム体制に呑み込まれてもおかしくないような状況である。それをとどめてきたのが、シスターニ師ということになる。

 そのシスターニ師も90歳で、師亡き後のイラク・イラン関係を考えると、大きな波乱要因を含んでいる。すでに書いたように、シーア派の若者たちの間に、反イラン感情が高まっている。一方で、シーア派政治勢力やシーア派民兵の中には、イランの宗教指導部や革命防衛隊に支えられているところもあり、シスターニ師の後を狙って、イランがイラクを支配しようとすれば、シーア派内の対立が激化する可能性がある。

 シスターニ師にとっても残された時間が少ない中、今回のフランシス教皇のイラク訪問を契機に、今後、イラク国内でどのような動きが起きるかは注視する必要がある。

中東ジャーナリスト

元朝日新聞記者。カイロ、エルサレム、バグダッドなどに駐在し、パレスチナ紛争、イラク戦争、「アラブの春」などを現地取材。中東報道で2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。2015年からフリーランス。フリーになってベイルートのパレスチナ難民キャンプに通って取材したパレスチナ人のヒューマンストーリーを「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(岩波書店)として刊行。他に「中東の現場を歩く」(合同出版)、「『イスラム国』はテロの元凶ではない」(集英社新書)、「戦争・革命・テロの連鎖 中東危機を読む」(彩流社)など。◇連絡先:kawakami.yasunori2016@gmail.com

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