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<イスラエル・UAE国交正常化合意>を読む(2) ”アラブ世界最強”の指導者の選択の背景は?

川上泰徳中東ジャーナリスト
UAEのムハンマド皇太子(右)と、サウジアラビアのムハンマド皇太子(左)(提供:Bandar Algaloud/Courtesy of Saudi Royal Court/ロイター/アフロ)

 トランプ大統領が仲介したイスラエルとUAEの国交正常化合意で、ネタニヤフ首相が掲げたヨルダン川西岸の一方的な併合を停止することを条件としてUAEの実質的な支配者であるムハンマド皇太子が提案したという見方を、前回書いた。それによってUAEが得る利益について書こうと思うが、その前にムハンマド皇太子について知っておく必要がある。あまり表に出る指導者ではないため、日本人にとっては印象が薄いかもしれないが、国際的には、いま中東で最も傑出した指導者とみなされている。

■「アラブ世界最強の指導者」と米紙

 2019年6月にニューヨークタイムズに「最も力強いアラブの指導者はM.B.S.ではなくM.B.Z.だ」というタイトルの長文の記事が出た。「M.B.S.」とはサウジアラビアの実質的な指導者のムハンマド・ビン・サルマン皇太子の略であり、「M.B.Z.」はUAEのムハンマド・ビン・ザイド皇太子である。

 記事は1991年の湾岸戦争の後、当時29歳のUAEの空軍の司令官だったムハンマドUAE王子が、米国にF16戦闘機を購入に来た時の記述から始まる。当時のUAEの空軍については「ほとんど取るに足らない空軍だった」としている。記事は「30年後のいま58歳になった王子は、皇太子で、UAEの実質的な支配者であり、間違いなくアラブ世界の最も強力な指導者である。彼はワシントンで最も影響力のある海外要人の一人であり、彼の中東地域に対する好戦的な手法を採用するように米国に求めてくる」と書いている。

 

 サウジのムハンマド皇太子と比較した見出しは、米国でもアラブの指導者といえば、30代のサウジのムハンマド皇太子(MBS)のイメージが強いことを意識したものであろう。一般の日本人にとっても、UAEのムハンマド皇太子(MBZ)の存在はほとんど印象がないだろうが、現在の中東情勢ではムハンマドUAE皇太子を抜きにしては、イランも、イエメンも、パレスチナも、そしてリビアなどの問題の行方を考えることはできない。今回、イスラエルとUAEの国交正常化合意の重要性は、単に湾岸アラブの小国が、イランの脅威を恐れて、米国やイスラエルにすり寄ったということではなく、いま中東を動かしているUAE皇太子がイスラエルとの国交正常化を選択したととらえる必要がある。

■英士官学校出身の軍人皇太子

 UAEとムハンマド皇太子については、国交正常化合意の後、数多くの論調・分析が出たが、包括的に最新のUAEの事情を知るために参考になったのは、合意の1か月前の今年7月上旬にドイツ国際・安全保障研究所が出したグイド・スタインベルク氏のリポート「地域大国(regional power)としてのUAE アブダビはもはやサウジの格下のパートナーではない」(全38ページ)である。

 ムハンマド皇太子が英国のサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業した軍事ヘリコプターのパイロットであり、自身を軍人として意識している点から、リポートでは特にUAEの軍事戦略に重点を置いている。ニューヨークタイムズでは1991年時点で「ほとんど取るに足らない空軍」だったUAEの空軍について、リポートでは「現在、イスラエル空軍についで中東地域では最強とみなされている」と書いている。それは「UAEは米国から大規模に兵器を購入し、購入兵器の中心は空軍とミサイル防衛関連である。2000年以降だけでも110機のF16戦闘機を米国から購入している」と補足する。さらに、「2017年には最新のステルス戦闘機F35の購入を希望していることを公表し、米国との交渉の結論は出ていない」としている。

■米国とF35戦闘機の売却・購入交渉が進展

 

 今回のイスラエル・UAEの国交正常化合意についての論評で、オバマ政権の大統領特別補佐として中東政策を統括したこともあるデニス・ロス氏はワシントンポスト紙で「UAEはイスラエルとの正式な和平を結ぶことで、それまでは与えられなかった高性能ドローンのような米国の兵器を手に入れることが可能になる。これまではそのような兵器は米国がイスラエルの(地域での)軍事的な優位性を質的に維持するために提供されなかった。かつてイスラエルと平和条約を締結したエジプトやヨルダンに対して行われたように、UAEにも兵器の提供が行われることになるだろう」と書いている。

  国交正常化合意の後、8月下旬にポンペオ国務長官はイスラエル訪問の後、UAEを訪れた。国務省報道官はUAEとの間で、F35の売却についても「前向きに話し合っている」とUAEの国営通信に語ったという。F35は中東ではイスラエルの軍事的な優位を維持するために、イスラエル以外には供与されていない。イスラエル紙の報道では、ネタニヤフ首相は米国がUAEにF35戦闘機を売却することを承服しているわけでもないようだが、中東最大の米軍基地を抱え、イランと対峙するUAEにF35戦闘機を提供することは、米国の中東戦略上も重要なこととみられる。

 さらにUAEにとっては11月の大統領選でトランプ大統領が敗れて、民主党のバイデン氏が次期大統領になる可能性を考えて、「トランプ後」に備えるものという見方が強い。UAEはデニス・ロス氏が書いているように、共和党、民主党関係なく、米国の優先的な武器供与対象国となるためにイスラエルとの和平を選択したということが大きな要因だろう。

■米議会から武器売却阻止の決議案

 特にUAEは2015年3月以来、サウジアラビアとともにイエメン内戦に介入し、イランが支援するシーア派勢力のフーシ派地域への大規模な空爆を行い、紛争監視を行っている。国際組織市民組織の発表によると、これまでに1万2000人の民間人が死亡し、そのうちサウジやUAEの無差別空爆による死者が8000人以上とされる。

 サウジとUAEがイエメン内戦での戦争犯罪を非難する声は世界の人権組織には強く、米国議会は空爆に米国がサウジとUAEに売却した戦闘機が使われていることを重大し、2019年6月には米上院が武器売却を阻止する決議案を可決し、7月には米下院が同様の決議案を可決した。トランプ大統領は決議に拒否権を発動した。

■米国の武器購入のための選択肢

 UAEにとっては、11月の大統領選で、トランプ氏が敗れて、バイデン氏が大統領になれば、米国の武器売却は停止することになりかねない。エジプト、ヨルダンに次ぐアラブ諸国の3番目の国としてイスラエルと国交正常化すれば、米国から武器を購入するのに、トランプ大統領の拒否権に頼る必要はなくなる。ムハンマド皇太子の下で急速に空軍力の増強を続けてきたUAEにとっては、米国からF35購入や高機能ドローンなどを購入し、さらに兵器レベルを上げるためには、イスラエルとの国交正常化は避けて通れない選択だった。第1回で書いたように、ネタニヤフ首相がヨルダン川西岸の一方的な併合を掲げたために、同首相だけでなく、トランプ大統領も、それぞれ国内外の反発や批判を受けているタイミングで、両首脳を「平和の敵」から「平和の担い手」に変身させる起死回生の一手として、国交正常化合意という切り札を切ったことになる。

 ここで出てくるのは、UAEはなぜ、米国の最新武器が必要なのかという問いである。普通に考えれば、イランの軍事的な脅威に対抗するため、と思うかもしれない。しかし、UAEにとってイランは近すぎる脅威であり、将来の戦争を想定して、米国やイスラエルの支援を受けて軍事的に対抗しているというような単純なものではない。UAEのムハンマド皇太子はサウジのムハンマド皇太子とともに、対イラン強硬姿勢をとってきた指導者とされるが、現在、UAEは明確にイランに対してはデタント(緊張緩和)路線に転換している。

■タンカー攻撃後にイラン政策を転換

 UAEの対イラン戦略の転換は、2019年6月に、ホルムズ海峡で日本船籍のタンカーなど2隻が攻撃を受け、トランプ大統領がイランを非難して、有志連合の結成を提案するなど緊張が高まったことである。UAEは同7月末にUAEの沿岸警備隊司令官らがテヘランでイランの沿岸警備隊との間で、ホルムズ海峡の航行の安全についての協議を行った。その時の協議は、2013年以来6年ぶりのもので、UAEがイランに対する強硬策から現実的な政策に転換したと受け取られた。同じころにUAEは2015年から軍事介入していたイエメン内戦からの軍の撤退を決めたのも、対イラン関与政策とも符合していた。

 

 今年、イスラエルとの国交正常化合意が発表された10日前の8月3日には、イランプレスの報道によると、UAEのアブドラ外相と、イランのザリフ外相はビデオ会議を持った。ザリフ外相は「私たちは新型コロナの問題や、二国間問題、地域問題、世界情勢など実質的で友好的な対話を行い、対話を継続することを約束した」とツイッターで発信した。8月3日といえば、UAEとイスラエルとの国交正常化合意は固まり、トランプ大統領の発表の予定も決まっていたはずである。UAEが合意発表の直前にイランと外相会談を持ったのは、突然の合意によって対イラン関係が悪化するのを避けようとしたものとみられる。合意発表の直後で、米国の「中東研究所」が所属する専門家たちの解説を掲載したなかで、ジェラルド・フェイアスタイン氏は、合意直前のUAE・イラン外相会談に注目して、「イランはUAEとイスラエルの合意の主要な標的ではないかもしれない」との見方を示している。

■報復攻撃を10分前に停止

 トランプ政権と距離を置いて、関与政策に転換したのはトランプ大統領の危険な対イラン強硬策がエスカレートし、イランによるタンカー攻撃の後、イランが米国のドローン(無人偵察機)を撃墜して、米軍がイランに軍事的に報復を実施する瀬戸際まで行ったこともあった。

 この時、トランプ大統領は軍にイランへの報復攻撃を命じながらも、「攻撃の10分前に中止させた」とツイッターで明らかにした。中止した理由については、「攻撃によって150人の死ぬと知り、無人偵察機の撃墜とは釣り合わないと思った」とした。このことはイランと米国が一触即発の状態にあるという軍事の舞台裏を、米大統領自ら世界に知らせることになった。攻撃を取りやめたトランプ大統領の決定に、ネタニヤフ首相は大きな衝撃を受けたと、当時のイスラエルメディアは報じた。

■イランとの不戦が大前提か?

 UAEがイランに沿岸警備隊の代表団を送り、海峡の安全航行の協議をおこなったのは、それから約1か月後のことである。ムハンマド皇太子は、この時、トランプ政権でのイランとの軍事的な衝突の危険を現実に感じて関与政策に舵を切ったということだろう。この時のトランプ大統領の攻撃取りやめの決定の真相は明らかではないが、イラン人の人命が失われることを気にするというのは、大統領の普段の言動とはそぐわない理由付けと思われた。その後の、動きを見れば、トランプ大統領が信頼している指導者で、イランへの軍事的報復をやめるよう本気で進言した人物がいたとすれば、ムハンマド皇太子ではなかったかという気もする。

■米国の中東軍事行動に積極的に参加

 イランはUAEにとって人口も、軍事力も差が大きく、直接対決となれば、UAEはひとたまりもない。ムハンマド皇太子は米国の後ろ盾を得て、自国の軍事増強を行っても、イランとの軍事衝突はしない、というのが大前提だったのだろう。先に挙げたドイツの研究所のリポートはUAEは米国が中東とその周辺地域で行った主要な軍事行動に参加しているとして、「1991年、湾岸戦争、1992年、ソマリアの軍事作戦、1999年、コソボ戦争、2003年、アフガニスタン戦争、2011年、リビアへの軍事作戦、2014年-15年、シリアでのIS地域への空爆」と列挙している。特にIS地域への空爆では、米軍主導の有志連合に参加し、「UAE空軍は、米国以外のほかの参加国よりも多く出撃した」としている。

 そのUAEが参加しなかった中東の戦争が、2003年のイラク戦争である。ムハンマド皇太子は2003年にアブダビの副皇太子、04年に皇太子に就任しており、イラク戦争の参加についてはすでに決定権を握っていた。米国が国連安保理決議なしに開戦したイラク戦争については、賛成するかどうか、参加するかどうかで国際社会は割れた。米国の軍事的な同盟国としては参加するという選択もあったかもしれないが、参加しなかったのは、イラクと敵対することで、自国の安全が危うくなるという計算だと考えるしかない。現在のイランとの対応を見ても、米国の軍事的な傘の下にあっても、自国の安全を最優先する、したたかな安全保障戦略をとっているということである。

■砂漠の鷹狩りでの二人の皇太子の出会い

 2015年3月に始まるイエメン内戦への軍事介入についても、一般的には当時、29歳でサウジの国防相に就任したばかりのムハンマド王子(当時)が決断し、UAEが同調したと考えられている。二人のムハンマド皇太子については、英国のニュースサイト「テレグラフ」で、2015年春、ムハンマドUAE皇太子はUAE・サウジ国境地帯で行った砂漠での鷹狩キャンプに、国防相に就任したばかりのムハンマド・サウジ王子を招待し、二人の個人的な親交が始まったという記事が出ている。UAEでの鷹狩りのシーズンは10月から3月の間であり、サウジとUAEがイエメン内戦に軍事介入する前であろう。

 記事ではムハンマドUAE皇太子のことを「究極のマキャベリスト」と書いている。当時54歳で、すでにアラブ世界で傑出した指導者として目されていた皇太子が、25歳年下の無名のサウジの王子と接触を図るというのは、戦略的に先手を打つムハンマドUAE皇太子らしい動きである。第1回でも紹介したベンフッバード著『MBS(ムハンマド・ビンサルマン)』には、その時の二人の会合について、「それはムハンマドUAE皇太子がサウジとの協力関係を強化しようとする機敏な動きだった。その時の会合は二人にとって利益があった。ムハンマド・サウジ王子にとってはサウジの支配者になろうとする彼の思いを支援する力強い指南役を得ることになり、一方、ムハンマドUAE皇太子にとっては、経験のないサウジの王子に対して、イランやムスリム同胞団の政治的イスラムに対する敵意という彼の見方を吹き込む機会だった」と書いている。

■イエメン内戦への参戦と撤退

 当時、国防相になりたてで、軍務の経験もないムハンマド・サウジ王子が、イエメン内戦に介入するというのは、危うい動きに思えたが、手練れのムハンマドUAE皇太子の入れ知恵だったと考えれば、納得できる。しかし、2019年7月にはすでに書いたように、UAEはイランとの緊張緩和策に転換し、イエメンから自国軍を撤退させた。しかし、UAE軍空軍はその後も、分離独立派の南部勢力を支援し、サウジが支援している暫定政権軍に空爆を加え、イエメン南部での影響力を保持している。

 イエメン内戦をめぐってはサウジ・UAEの同盟関係の終わりがささやかれるなど、ムハンマドUAE皇太子の冷徹なマキャベリストの本領が発揮されているように見える。そのうえで、今回のイスラエルとの国交正常化の合意である。合意には、今年59歳となり、百戦錬磨のムハンマド皇太子の深慮遠謀が結晶していると考えるしかない。

■イラン危機の抑制につながるとの見方も

 今回、UAEがイスラエルとの関係正常化合意を決断したことについて、UAEはトランプ大統領の対イラン強硬策を支えながらも、オバマ政権、トランプ政権と、米国が中東から軍事的な関与を減らしてきている状況をみて、自国の安全を守るのに、米国は頼みにはならず、結局は自国で守らねばならないと考えているという指摘も、欧米の論調・分析には広くみられる。その意味では、イランが核開発を進めれば攻撃も躊躇しないと公言しているイスラエルと、イランとの関与政策を探るUAEが関係正常化することは、互いの疑心暗鬼による事態の悪化を防ぎ、イランをめぐる中東危機の抑制につながるのではないかという見方もある。

 少なくとも、対イラン強硬策をとるUAEがイスラエルと国交正常化を行えば、イランを刺激し、中東はさらに不安定化し、イラン危機が進むというような単純な思考は通用しないことになる。

 UAEがイスラエルと国交正常化するのが、イランに軍事的に対抗することが主な目的ではないとすれば、ほかにどのような意図や目的があるのかは、次回で考察する。

中東ジャーナリスト

元朝日新聞記者。カイロ、エルサレム、バグダッドなどに駐在し、パレスチナ紛争、イラク戦争、「アラブの春」などを現地取材。中東報道で2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。2015年からフリーランス。フリーになってベイルートのパレスチナ難民キャンプに通って取材したパレスチナ人のヒューマンストーリーを「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(岩波書店)として刊行。他に「中東の現場を歩く」(合同出版)、「『イスラム国』はテロの元凶ではない」(集英社新書)、「戦争・革命・テロの連鎖 中東危機を読む」(彩流社)など。◇連絡先:kawakami.yasunori2016@gmail.com

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