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低賃金労働者を量産する“残業代ゼロ法案”の目論見

河合薫健康社会学者(Ph.D)
著者:JonoMueller

「賃金があがった~」と喜んでいるアナタ! 

企業は賃金アップどころか、この先、「低賃金化」に向かおうとしていることをご存知ですか?

「残業代ゼロ」で話題になっている“働き方改革”。産業競争力会議が提案した法案の内容を詳しく見ると、働く人たちの賃金が下がる可能性の高い法案であることはあまり伝えられていない。

“働き方改革”では、「働き過ぎ防止に真剣に取り組むことが、『働き方改革』の前提」とし、国が監視を強めるとしている。もちろん、その具体策は一切明記されていないので、残業代ゼロ、労働時間が青天井になる可能性が極めて高いことは、改めて指摘するまでもない。

しかしながら、法案では、「職務内容・達成度、報酬などを明確にした労使双方の契約」とした上で、「明示した業務に不適合の場合、通常の労務管理に戻す」との文言が明記されているのだ。 

つまり、もし仮に、この法案通りに「働き過ぎに対する監視を国が強め」、それに企業が従わざるおえなくなる。

その結果、

「国から叱られちゃうから、残業やらないでさっさと帰ってね。その代り、賃金はコレ! だってアナタ、会社が求める成果を出せなかったんだから、仕方がないじゃない。賃金減るのがイヤなら成果出すしかなかったのに、それができなかったんだもん。その代わり、残業はしなくていいからさっさと帰ってね」

こんな勝手な言い草で、賃金を減らす言いわけを会社は与えられてしまうのである。

そもそも成果を基準にするであれば、それが達成できなかったときのペナルティは、「働く人」だけでなく、「成果」を求める側の能力も考慮すべき。

成果主義で賃金を決める欧米では、残業は、働く人の問題ではなく、その業務を与えた管理者の問題と考えられている。

残業は、管理者側のペナルティ。「残業をしないと終わらないような成果を求めた」マネジメント側の能力も問題にする。欧米では残業などの割増賃金の標準が5割程度で、日本よりかなり高いのもそのため。日本では残業は、個人の能力の問題と処理されるが、その仕事をオーダーしたマネジメント側の能力も重要なのだ。

時間に囚われない柔軟な働き方を模索するだけなら、フレックス制や在宅勤務やテレワークなどを広げ、“時間を動かせる”既存の制度を徹底的に見直せばいい。

もっともこの法案には「会社」が、完全に抜け落ちていることが、最大の問題だと私は考えている。

「会社」という言葉は、蘭学書を翻訳する際に作られた和製英語で、当初は広い意味で、団体や集団を意味した。現代の狭い意味で、会社が使われるようになったのは明治以降だとされている。

また、会社を英語で言うときには、COMPANY(カンパニー)となるが、COMPANYは、「ともに(COM)パン(Pains)を食べる仲間(Y)」こと。

つまり、会社とは、「(食事など)何か一緒に行動する集団」なのだ。その「一緒に行動する」という部分が、件の法案には一切含まれていないのである。

「働かないアリ」の存在を見つけた進化生物学者の長谷川英祐氏によれば、コロニーの2割の働きアリは、働かないアリで、そのアリたちのおかげでコロニーは存続しているそうだ。

「全員働いているアリ」だけのコロニーを人工的に作っても、必ず2割は働かなくなる。逆に、「全員働かないアリ」だけのコロニーをつくっても、8割は働くようになる。働きアリが疲弊したり、なんらかの理由で働けないときに、この2:8の法則がコロニー存続のカギとなる。働かないアリは、コロニー存続には欠かせない存在なのだと。つまり、働かないアリも、「そこにいるという仕事」をし、働きアリが取ってきた“パンを一緒に食べる”一員なのだ。

「だから何? それってアリの社会のことでしょ?」

確かに。会社はアリのコロニーとは違うし、働かない人を抱え込むほど、企業には余裕もないし、働いてもらわなきゃ困ることはわかる。

でも、働く人の多くは、1人きりで働く体験がいかに孤独であるかを知っている。同僚たちとの世間話やたわいもない話から、仕事に役立つ情報を得たり、共通の話題を交わすことで、自分の居場所を得ることだってある。

一緒にパンを食べる人に救われ、元気をもらい、「もう無理!」と思った仕事を最後まで踏ん張れることもあるんじゃないだろうか。

その一緒にパンを食べる人とのつながりを育むのが、“時間”であり“空間”だ。

企業に内在する“目に見えない力”である社員のつながりは、「ソーシャル・キャピタル」と呼ばれる。

企業におけるソーシャル・キャピタルの重要性を指摘しているナレッジマネジメントのコンサルタント、コーエンは、「ソーシャル・キャピタルは、人々の間の積極的なつながりによって構成され、協力行動を可能にするような信頼、相互理解、共通の価値観、行動である」と定義し、「ソーシャル・キャピタルによって、自分のプライベートな目的の達成を気にかける個人の集団ではなく、それを超えた“組織”や“協力グループ”が生まれる」とした。

件の法案は、“目に見えない力”を育む土壌(=時間と空間)を根底から否定している。

会社は、性能のいい“機械の部品”を集めるだけで回るもんじゃない。それぞれの部品が動くための“油”も必要だし、“部品”が壊れたときのバックアップも必要となる。目に見えないパーツや、普段は動いていないものが同じ空間に存在するから、“会社”は、回り続け、生産性を維持できる。 “会社にとっての成果”とは何なのか? 成果主義を徹底する前に考えるべきだと思う。

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健康社会学者(Ph.D)

東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。 新刊『40歳で何者にもなれなかったぼくらはどう生きるか』話題沸騰中(https://amzn.asia/d/6ypJ2bt)。「人の働き方は環境がつくる」をテーマに学術研究、執筆メディア活動。働く人々のインタビューをフィールドワークとして、その数は900人超。ベストセラー「他人をバカにしたがる男たち」「コロナショックと昭和おじさん社会」「残念な職場」「THE HOPE 50歳はどこへ消えたー半径3メートルの幸福論」等多数。

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