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基礎からわかる「トリチウム排出問題」

勝川俊雄東京海洋大学 准教授、 海の幸を未来に残す会 理事
復興庁作成のトリチウムのキャラクターが批判を浴びて、チラシや動画が公開停止に

トリチウムを含む処理水の排出が、社会的関心を呼んでいます。復興庁が作成したゆるキャラをつかった動画やチラシが非難され、公開中止に追い込まれました。中国や韓国が、日本の対応を非難しており、国際問題にも発展しかねない雰囲気です(韓国はトーンダウンしたようですね)。日本の水産業にも関わる重要な問題ですので、科学的な事実に重点を置きながら、トリチウムを海洋に排出することの問題点について整理してみました。

トリチウムは重たい水素です

トリチウムは水素の一種です。水素には、普通の水素と、重たい水素あり、重たい水素の一種がトリチウムです。トリチウムは、普通の水素と比較すると中性子が二つ多いので三重水素とも呼ばれています。普通の水素とほぼ同じ性質を持ちます。

トリチウム(三重水素)は、余計な中性子をもつ、重たい水素です。
トリチウム(三重水素)は、余計な中性子をもつ、重たい水素です。

トリチウムはトリチウム水として存在する

トリチウムは単独で存在するのではなく、トリチウム水として、水の中に存在しています。水(H2O)は、二つの水素(H)と一つの酸素(O)が結びついたものですが、水素の一つがトリチウム(T)になっているのがトリチウム水(HTO)です。トリチウム水は自然界にも多く存在していて、海の水や雨水などにも含まれていますし、私たちの体の中にも存在します。性質は水とほとんど変わりません。

水分子の水素がトリチウムになったのがトリチウム水
水分子の水素がトリチウムになったのがトリチウム水

トリチウムは自然発生して、環境中に大量に存在します。

宇宙線という放射線が、宇宙から地球に降り注いでいます。宇宙線が酸素や窒素とぶつかると一定確率でトリチウムが生成されます。人類が存在する前から、地球の水には一定量のトリチウムが存在していたのです。

宇宙線が降り注ぎ続けると、トリチウムが際限なく増えてしまいそうですが、そうはなりません。トリチウムは、一定の確率で、余分なものを外に出して、安定な物質(3He)に変化し、このときにベータ線を出します。自然発生するトリチウムと、トリチウムから安定な物質に変化する量が釣り合って、自然界のトリチウムの密度は、ほぼ一定水準に保たれています。

地球上では、年間7京ベクレルのトリチウムが生成されると考えられています。それによって、自然界には約100~130京ベクレルものトリチウムが存在します(経産省資料)。原発の処理水に含まれるトリチウムは1000兆ベクレルですから、天然に存在するトリチウムの約0.1%に相当します。

自然発生したトリチウムが、海水1リットルに約1ベクレル含まれています。これは、海水1リットルの中で、毎秒1つのトリチウムがベータ線を出して、安定な3Heに変化していることを意味します。ちなみに人体には、数十ベクレルのトリチウムが含まれています。今この瞬間も、体の中で、毎秒数十のトリチウム水が、ベータ線を出しているのです。あまり知られていないだけで、実はトリチウムは身近な存在なのです。

人為的につくられるトリチウムについて

地球温暖化のように、人間活動は地球規模で環境に影響を及ぼしています。1960年代には、核実験が盛んに行われました。核実験によって大量のトリチウムが発生し、地球上のトリチウム濃度が増加しました。下のグラフは、東京と千葉に降る雨にふくまれていたトリチウムの含量を示したものですが、核実験が盛んだった1960年代にはトリチウムが100ベクレル/Lにも達した年もありました。その後は核実験が禁止されたことから、徐々に減少し、現在は自然発生する量とほぼ近い水準まで下がっています。1960年代にもトリチウムによる害は観察されていませんので、現在のレベルのトリチウムが、環境や人間に深刻な影響を及ぼすとは考えられません。

https://www.kaiseiken.or.jp/study/lib/news99_02.pdf より引用
https://www.kaiseiken.or.jp/study/lib/news99_02.pdf より引用

原子力発電所を稼働させると、トリチウムが発生します。すべての原発はトリチウムを、海か空に排出しています。それらの総量は経産省がまとめた資料にあります。現在、福島原発には1000兆ベクレルのトリチウムが存在すると考えられています。これらを毎年22兆ベクレル程度ずつ排出していく計画ですが、それとは桁外れの量のトリチウムが世界中で、環境中に排出されていることがわかります。これらの排出は、特に問題視されていないし、実際に問題が発生していません。また、近年の世界のトリチウム濃度が上がっていないことからも、環境中にどんどん蓄積していくような量ではないことがわかります。福島原発の事故によって、短期間の内に3400兆ベクレルのトリチウムが環境中に放出されましたが、すでに検出できない水準になっています。

https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/007_09_00.pdfより引用
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/007_09_00.pdfより引用

トリチウムはなぜ除去できないのか?

福島原発の処理水をALPSという装置で放射性物質の除去を行っています。ALPSで処理をする前と後の核種の量を比較したのが下の図です(引用元)。縦軸の告示濃度比は、法律で決められた排水の濃度上限との比を示していて、赤線よりも下なら排水可能と言うことになります。ストロンチウムやセシウムなどの核種は、排出限界を大幅に下回り、処理後の青い棒グラフがほとんど見えないようなレベルまで除去できています。しかし、トリチウムだけは、殆ど減少していません。なぜ、トリチウムは除去できないのでしょうか。

https://www.nsr.go.jp/data/000334474.pdf より引用
https://www.nsr.go.jp/data/000334474.pdf より引用

セシウムやストロンチウムは、これらの物質が吸着しやすい素材を用いて、取り除くことができます。放射性のセシウムや放射性のストロンチウムを選択的に取り除くのではなく、放射性ではない普通のセシウムやストロンチウムも一緒に除去しています。水から不純物を取り除く処理をすることで、他の核種を取り除いているのです。

トリチウム水の場合、放射性ではないトリチウム水はすなわち水ですから、他の核種を分離した手法は適用できません。トリチウムを分離するには、放射性の水とそうでない水を分けることになり、物質そのものを除去すれば良かった他の核種と比較して、技術的なハードルが段違いに高いのです。

超高性能の遠心分離機を利用すれば、分子の重さの違いを利用して、水とトリチウム水を分離することは可能です。ただ、コストも時間もべらぼうにかかります。カナダは原発由来のトリチウムの純度を高めて販売しているのですが、1グラムあたり300万円と高価です。分離されたトリチウムは、水素爆弾の材料なので、核拡散禁止条約によって、日本はそのような設備を持つことが許可されていません。いろいろな意味で現実的とは言えません。

トリチウムは生物濃縮をしない。その理由は?

水とトリチウム水を分離するのが技術的に困難であるということは、生物濃縮が起こりづらいことを意味します。生物濃縮は、生物が特定の物質を捉えて放さないので起こります。トリチウム水の場合は、普通の水と性質の違いが殆どありませんから、トリチウム水だけを選択的に蓄積するような生物は見つかっていません。トリチウム水は、普通の水と一緒に吸収され、普通の水と同じように排出されるので、生物のトリチウム水の濃度は、環境の濃度とほぼ等しくなります。

トリチウムを濃縮する生物が見つかったら、世紀の大発見です。その生物がトリチウム水を集めるメカニズムを解明して、海水からトリチウムを集める方法が確立できれば、水の中からエネルギーを無尽蔵に取り出すことができるようになるかもしれません。

トリチウムの海洋放出は、他国から非難されるようなことなのか?

トリチウム水を海に流すのは、海に塩を撒くようなものだと筆者は考えます。そもそも環境に大量に存在するものを低濃度で流したところで、影響が出るとは思えません。他国も当たり前のようにやっていることですし、それによって国際的な非難をあびるような事で無いはずです。中国や韓国が日本を非難しているのは、純粋に政治的な理由によるものでしょう。本当にトリチウムの排出が問題だと考えているなら、まず、自国の原発を止めているはずですから。

他国の人は、日本で大騒動が起こっているので、何かとんでもないものを流そうとしていると勘違いしているのかもしれません。世界中で認められているトリチウムの排水で大騒ぎしているとは、普通は思わないでしょうから。科学を無視した日本国内の騒動が国際的な誤解を招いているのかもしれません。

風評被害か、実害か?

トリチウム排出において、唯一起こりうる問題は、風評被害であると筆者は考えます。風評とはいえ、経済的な被害や、精神的な負荷といった実害を伴うので、無視することはできません。

風評被害の原因は、放射性物質ではなく、人の心の中の不安や不信です。トリチウム水そのものではなく、日本政府や東京電力への不信感が風評被害を引き起こし、科学的な根拠も無く「危ない、危ない」と騒ぐ、メディアや特定政党の政治家がそれを増幅しているのです。

不正確な情報で危機を煽る人たち。正義感に駆られてそれを拡散する人たち。よかれと思ってそのような行動をとっているのかもしれませんが、やっていることは火の無いところに煙を立てて、人々の不安を煽り、一次産業従事者を苦しめて、原発事故の処理を妨害して、近隣諸国との間に不要な摩擦を引き起こしているように私からは見えます。

反対派の言い分について検討してみよう

1)綺麗だというなら飲んでみろ

反対派から「安全性に問題ないなら飲んでみろ」という要求がしばしばなされます。民主党政権時代には、フリーのジャーナリストから「飲んでみろ」と詰め寄られた政務官が、処理水を飲んだこともあります。そんなことをしても、安心感は得られません。だから、現在もこのような問題が繰り返されているのです。

そもそも飲料水の基準と、環境排出基準は全く別物です。この瞬間も多くの河川の水が海に流れ込んでいますが、それらの水のほとんどは飲料水としては不適格です。「飲めるかどうか」と「海に流して良いか」は別問題なので、論点をすり替えるべきではありません。これは排出推進派にも言えることで、「飲めると聞いている」などといって、安全性をアピールするのは、賢いやり方ではありません。あくまで、環境に流しても問題が無いかどうかを論点にすべきです。

2)問題ないなら、処理水を東京湾で排出すべきである

べつに東京湾に排出したところで、何も起きません。税金を使って、わざわざ水を運んでも、問題が解決するとも思えません。そもそも反対をする人たちが、それぐらいのことで納得するとは思えないからです。やりたければ、やれば良いけど、時間とお金の無駄でしょう。

3)他の核種も混じっているのではないか

これは重要な論点です。東電のデータを見る限り、トリチウム以外の核種の除去には問題がなさそうです。技術的にも十分可能だと思われます。近年は、福島県の一次産品はほぼすべて基準値以下になっており(下図)、トリチウム以外の核種を大量にばらまくとすぐに明らかになるでしょう。そういうリスクを冒してまで、東電が他の核種をこっそり排出するとは考えづらいです。

とはいえ、「国や東京電力が都合の悪い情報を隠してごまかしているのではないか」という疑問を持つこと自体は、無理からぬことだと思います。国や東電を信用できないからと言って、原発事故の処理を止めるわけにいきません。そこで、透明性をどのように高めていくかが重要な課題です。福島県沖の水質や生物のモニタリング結果を見ていれば、大きな変化があるかどうかはわかります。また、国際団体のIAEAが人を派遣して監視をすることになっています。IAEAが原発推進団体であることを問題視する人もいますが、外部の団体をいれるのは重要です。今後は、漁業関係者や第三者を交えながら、透明性を持って監視をしていく仕組みの構築が必要になるでしょう。

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/89-4.html
https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/89-4.html

我々にできる風評被害対策

以上見てきたように、筆者はトリチウムの排出が環境問題を引き起こすとは思っていません。ここまで明白な問題すら、きちんと説明をして理解を得ることができないまま、10年間も放置してきた事の方が問題だと考えています。反対する人がいるからと言って、何でもかんでも先送りにしておくことは、未来の世代にツケを残すことに他なりません。

とはいうものの、基準値超過がなくなり、漁業を再開した矢先に、このようなネガティブな議論が沸き起こったことに対して、福島の水産関係者が落胆する気持ちはわかります。「いやなものはいやだ」、「放射性物質を海に流すなどとんでもない」という価値観を持つ消費者は一定数いるでしょう。風評被害だから問題はないとは、とてもいえません。一方では、トリチウムを十分に薄めながら徐々に排出するという国の方針は、理にかなったものであり、他に有力な選択肢がないことも理解できます。

こういう状況で自分にできることは何かと考えた結果、トリチウムへの理解を深めて、消費者の心配を減らし、風評被害を軽減するための記事を書くことにしました。この文章を読んで、トリチウムの排出には問題が無いことに賛同いただけたなら、福島の一次産品を積極的に購入して、そのことをSNSなどで拡散してほしいと思います。我々にできる風評被害対策は、適正価格で買い続けることと、その意思を示すことです。

東京海洋大学 准教授、 海の幸を未来に残す会 理事

昭和47年、東京都出身。東京大学農学部水産学科卒業後、東京大学海洋研究所の修士課程に進学し、水産資源管理の研究を始める。東京大学海洋研究所に助手・助教、三重大学准教授を経て、現職。専門は水産資源学。主な著作は、漁業という日本の問題(NTT出版)、日本の魚は大丈夫か(NHK出版)など。

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