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ノーベル平和賞はロシアに平和をもたらすか~北方領土亡命者を2年前に捉えていた受賞メディアの取材力

亀山陽司元外交官
ノーベル平和賞を受賞したロシア人ジャーナリスト(写真:ロイター/アフロ)

ノーベル平和賞は毎年のように受賞者をめぐって物議をかもすが、今年も例外ではなかった。言論の自由を守るために戦ったということで、フィリピンのマリヤ・レッサとロシアのドミトリー・ムラトフの2名のジャーナリストが平和賞を受賞した。ロシア人が平和賞を受賞したのは3人目となる。1人目は、1975年に受賞した物理学者、アンドレイ・サハロフ。2人目はミハイル・ゴルバチョフ大統領だ。

ロシアの平和に貢献しない受賞者の系譜

サハロフは、ソ連を代表する核物理学者であり、また水爆開発に携わりソ連水爆の父と呼ばれながら、のちに民主化運動の象徴となった人物である。ソ連のアフガン侵攻を批判して、1980年に流刑に処されたが、2人目のノーベル平和賞受賞者となるゴルバチョフによって1986年に釈放された。そのゴルバチョフ大統領は、ソ連崩壊後にノーヴァヤ・ガゼータ(現在ムラトフが編集長を務める)の創設に関与している。

このように見ると、ロシアにおけるノーベル平和賞の系譜は、サハロフからゴルバチョフを通じてムラトフにまでつながっていることがよくわかる。サハロフはノーベル平和賞受賞者でありながら、当時のソ連において政治犯となった。また、ゴルバチョフ大統領は1990年、つまりソ連崩壊の前年の平和賞受賞者となったが、ソ連を崩壊に至らしめた人物として、ロシア国内の保守層の間では十分な評価を得ていない。むしろ、欧米での評価の方がはるかに高い。つまり、サハロフも、ゴルバチョフも、ソ連・ロシアにとっての平和への貢献者というよりは、敵対する陣営である欧米諸国にとっての平和に貢献したということになる。一言で「平和」と言っても、それは一義的な概念ではないのである。

平和賞受賞は国家の不名誉

ノーベル平和賞委員会のプレスリリースは、表現の自由が民主主義の最も重要な前提であると述べ、表現の自由のための勇気ある闘争に対して賞を授与するとしているが、これは、ロシアには表現の自由も民主主義もないと言っているも同然である。今回のムラトフの受賞については、ロシア政府も公式には祝福の言葉を述べているが、実際のところは、今回の受賞を快く思ってはいないはずだ。ロシア人ジャーナリストが受賞したということは、ロシアに報道の自由がないことの証しなのだから国家としてはむしろ不名誉なことだろう。物理学賞や化学賞、医学・生理学賞といった科学系の賞とは異なり、平和賞については有難迷惑、余計なお世話というのが本音のところであろう。

なぜナヴァリヌイではないのか?

ここで疑問が浮かび上がる。同じ反政府勢力に平和賞を授与するなら、なぜ著名な反政府活動家のナヴァリヌイではなく、ムラトフを選んだのかという疑問だ。それに対する答えは、ノーベル賞の授与には多くの人が納得できる大義名分が必要だ、ということだろう。今回の授賞理由で言えば、言論の自由⇒表現の自由⇒民主主義⇒恒久平和という図式である。ナヴァリヌイはSNS上での発信者ではあるが、ジャーナリストというよりは政治活動家というべき人物である。

仮に、ナヴァリヌイが平和賞を受賞したとしたら、ロシア政府は強く反発したに違いない。ムラトフはロシア政府にとって、あくまでもジャーナリストの一人に過ぎないが、ナヴァリヌイは反政府活動家として強い影響力を持ち、プーチン政権への挑戦者だからである。そもそもの話として、ナヴァリヌイは平和に貢献する人物なのだろうか?

ノーヴァヤ・ガゼータは北方領土をどう報じている?

さて、ムラトフが編集長を務める独立系メディアであるノーヴァヤ・ガゼータ紙は、ロシア社会の内実に深く切り込むようなルポルタージュを得意としているが、やや扇情的なものも目につく。筆者がロシア大使館に勤務していた時、ロシアの報道をチェックするのが日課だったが、コメルサント、イズベスチヤ、ロシア新聞、独立新聞といった硬めの主要紙に比べて、ちょっと変わった視点の新聞との印象があった。同紙のルポ記者としては、チェチェン戦争の内情を調べていて殺害されたアンナ・ポリトコフスカヤが有名だが、ほかにも5人の同紙ジャーナリストが殺害されているという。

北方領土についてはどうだろうか。2018年末から2019年初めにサハリン、モスクワ、ハバロフスクなどで高まった北方領土交渉に対する反対デモの詳細なルポも行っている。興味深いのは、このデモに関連して、北方領土住民に関する一連のルポを発表していることだろう。その中で、2019年3月の「島の人々」というルポでは、日本人の元島民と現在のロシア人島民の島に対する思いを聞き取って淡々とつづっている。

国後島からの亡命者を捉えていた

また、2019年4月のルポ「海の石ころでも」は、なぜ国後島の人々が日本に帰属したいと思わないのかというテーマで、国後島住民に関する長大なルポである。このルポの冒頭には、今年の8月に国後島から泳いで日本に亡命してきたということでいっとき世間を騒がせたノカルドという男性も登場しているのが目に付く。ルポによると、当時、ノカルドは国後島に移住しており、日本語クラブで日本語を勉強している変わった人物として描かれている。将来はロシアを脱出し、オーストラリアに移住したい、日本にも惹かれていると発言している。いずれにせよ、ノーヴァヤ・ガゼータが事件の2年前にここまで捉えていたというのは、同紙の取材力を示すものと言ってもいいのかもしれない。

報道の自由より国家の威信

ムラトフは10月22日に開催されたヴァルダイ会議(各国の有識者がプーチン大統領と意見交換をするイベント)に参加した。ムラトフはその場で、メディアを「外国のエージェント」に指定することに関する法律を修正するようにプーチン大統領に対して要請している。この法律は、外国から資金援助を受けて活動しているメディアやジャーナリストを「外国のエージェント」、要するにスパイとして認定することについて規定しているものなのだが、裁判を経ずに、政府機関によって一方的にリストアップされるなど、不透明な権力の道具となっているとの批判が強い。現在、88のメディアやジャーナリストが認定されている。

ムラトフの指摘に対してプーチン大統領は、この法律を改善すると答えている。しかし同時に、アメリカの類似の法律はもっと厳しいものであるとし、懸念は過度に誇張されたものだとの認識を示した。プーチン大統領にとって、国内の報道の自由よりも、米国への対抗心やロシア国家の威信の方が勝っている。たとえ法律が修正されたとしても、報道の自由への道のりは遠いだろう。

元外交官

元外交官 1980年生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修了。外務省入省後、ユジノサハリンスク総領事館(2009~2011年)、在ロシア日本大使館(2011~2014年)、ロシア課(2014~2017年)、中・東欧課(ウクライナ担当)(2017〜2019年)など、10年間以上ロシア外交に携わる。2020年に退職し、現在は森林業のかたわら執筆活動に従事する。気象予報士。日本哲学会、日本現象学会会員。著書に「地政学と歴史で読み解くロシアの行動原理」(PHP新書)、「ロシアの眼から見た日本 国防の条件を問いなおす」(NHK出版新書)。北海道在住。

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