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イスラム国は去ったけれど−復興に葛藤するモスルと制裁を受けるクルド自治区

伊藤めぐみドキュメンタリー・ディレクター
クルド自治区・アルビルの街中に貼られた選挙ポスター(写真:ロイター/アフロ)

先月5月12日、イラクで議会選挙が実施された。イスラム国との戦闘が終わってから、そしてクルド自治区の独立投票が行われてからのはじめての選挙。約7,000人の候補者が329議席を争った。異なる宗派の批判合戦に陥った前回4年前の選挙と違って、今回はもう少し汚職防止、雇用、治安に焦点が当てられたとも言われる。しかし投票率は約45%と前回と比べても大幅に落ちた。現アバディ首相の党は第3位になり、シーア派指導者のサドル師を中心とした党が第1党となった。現在、選挙に一部不正があったとして混乱は続き、また政党間でどのような連立が組まれるのか駆け引きが続いているところだ。

一方で現地からは選挙期間中から、この毎度の選挙戦にうんざりしている声も聞こえて来ていた。イラクの選挙はポスターだらけ。イスラム国との戦闘で亡くなった兵士を偲ぶ看板も候補者のポスターで覆われてしまったそうだ。国内避難民の数はイスラム国が支配を始めた2014年の時点から210万人に上る。候補者がキャンプに来ることもあまりなかったという。

間違えられて、牢屋に半年

2018年3月のモスルの街(以下、筆者撮影)
2018年3月のモスルの街(以下、筆者撮影)

選挙実施の2ヶ月前、イスラム国の支配から解放されたモスルの街を訪れた。街の雰囲気はかなり変わっていた。人通りが多くなり、建物が修復されたというだけでなく、街の人たちの歩き方や話し方から人々の安堵が伝わってくるからなのかもしれない。ここには人の生活がずっとあったことを改めて感じさせられる。私はこれまでのイラク滞在でお世話になったある知人たちに会いに行った。

再会を喜び一通りみなと挨拶した後、その内の1人が話し始めた。

「いやー、実はこの前、君が帰った後、僕は大変なことになっていたんだよ。イスラム国の容疑者と間違えられて半年も牢屋に入れられたんだよ!」

『え・・・?!なぜ、そんなことに?』

「イスラム国の容疑者と名前が同じだっていうんでさ」

衝撃の告白になんと答えたらよいのかわからない。彼はモスルの街の復興にとても尽くしていた人だ。それがこんな目に合うなんて。彼は深くため息をつき「そうなんだよー」と大きく頷いてみせた。

私の反応が過剰に見えたのか、隣で聞いていた友人が会話に加わった。「別に珍しいことはないよ。よくあることだよ」。牢屋に入れられた彼は、警察の管轄下の牢屋にいたそうで、酷い扱いを受けたわけではないそう。(容疑をかけられた住民が軍に拷問をされることも以前から問題になっていた)。牢屋にいる時に撮ったセルフィー画像まで見せてくれたくらいだからそれなりに融通も利いたのかもしれない。しかし、あなたの体験をカメラの前で話してくれないかというと、友人同士、「いや、それはやめた方がいいよね」「だな、やめておいたほうがいいな」という会話をしていたので、「よくあること」とはいえ、もちろん人には簡単には言えない話なのだ。またイスラム国の関係者だと容疑をかけられたらたまったものではない。戦闘終了直後に家族を残して牢屋に入るという苦しみなど2度と味わいたくはずだ。ただ彼は怒りをあらわにしたり誰かに文句を言ったりするでもなかった。イラク軍の行きすぎた行動は問題ではあるけれど、さりとてイスラム国の人間を捕まえてもらわないと困る。彼の身に降りかかった悲劇と、その一方で「よくあること」と半ば諦めたような彼と友人の反応。これまでにいくつの理不尽なことに合い、そして諦めてきたのだろうか。

消防士たちのその後

足を負傷した消防士
足を負傷した消防士

去年の夏に取材をしたモスルの消防署を再び訪ねた。(詳しくはこちら)半年以上経っているにもかかわらず懐かしい顔の消防士たちが「よく来たねー」と明るく迎えてくれた。前回取材した当時は、まだ戦闘が終わった直後で、消防士たちは攻撃で破壊された建物の下敷きになった住民や、放置された遺体を捜索する任務にあたっていた。消防士たちのこの仕事は無給。イスラム国の支配で3年間給料がストップし、イスラム国から街が解放された後も、イラク政府から街からずっと逃げずにいたことで消防士たちはイスラム国メンバーの疑いがあるとみなされ、給料は復活しなかった。それでも消防士たちは、「俺たちがやらなきゃ誰がやる」と、危険な救助任務を続けていたのだ。

この日、私服姿の消防士がいた。彼、ムハンマド・ジャーシムは今日は休みの日なのだが消防署に遊びに来たという。よくよく聞いてみるとずっと休みなのだそうだ。今は怪我のため休養中とのこと。実は彼はIED(仕掛け爆弾)撤去の担当。遺体捜索をする時にイスラム国が仕掛けた爆弾を撤去していたところ、爆発が起きて足に大怪我を負ってしまったというのだ。まくりあげて見せてくれた足には傷痕が大きな斑点になって残っていた。爆弾の破片を足から取り除くための手術をしたという。他にも化学兵器を処理する部隊もあって、隊員の中には作業中に薬品を浴びて顔や手に傷を負った人もいるらしい。彼はおしゃべりの最後に「人助けをできるこの仕事が好きなんだ」と言った。危険で給料も払われるかわからないのにと思ってしまうが、でも彼は優しく誇らしげな顔をしてみせるのだ。

他の消防士も話し始めた。「イスラム国から逃げる最中に娘が負傷したんだ。娘を毒のついた武器で攻撃され、これまでに3回手術をしてある程度はよくなったんだけど、最終的な治療を行うお金がないんだ」。彼は息子を撃たれて亡くしてもいる。

「彼も大変なんだ」。別の若い消防士が、老齢の消防士の肩を抱いて言った。次は何だろうかと覚悟して聞く。すると、若い消防士はニヤっと笑ってから、「彼は新しいお嫁さんをもらったんだけど、これがまたなかなか大変らしいんだよ」。周りの消防士がどっと笑った。言われた消防士本人は弱った弱ったというように頭をかいて笑っている。気の弱そうな消防士の困り方があまりにも愛らしかったので私までつられて笑ってしまったが、イスラム国の支配下で彼は前の奥さんを病気で亡くして、幼い息子もまだいるということで再婚が必要だったようだ。女性のほうも経済上の理由があったのかもしれない。私まで一緒に笑っていいものかと後で考えてしまったが、消防士たちはこんなふうに不安と憤りの中に、どうにかして無理やり笑いをねじ込んで日々を過ごしているのかなと想像してみる。モスルに行くと悲惨で理不尽な出来事がいっぱいで、そういう話を聞かなければと思う。けれどもひと時でもいいから彼らもこの緊張を忘れられるなら忘れたいし、「俺たちも夫婦喧嘩もするし、同僚と遊びにも行く」、と普通の話も聞かせたがっているようだった。

イラクから帰国した後、消防士から喜びの連絡があった。この5月からようやく給料の支払いが再開されることになったという。ただし、過去3年間分は支払われないことになり、給料の再開が先延ばしされた人も30人ほどいるそうだ。見せてくれる笑顔はギリギリのところで保たれている。次に会った時は彼らはどんな表情をしているのか。

生活はよくなっている?

ブロック工場の責任者
ブロック工場の責任者
モスル西岸のブロック工場
モスル西岸のブロック工場

人々の気持ちとは別に、街のインフラ設備などの物質的な「復興」はどれくらい進んでいるのか。戦闘で壊されたイラクの家々はブロック造りが多い。ならばということで、ブロック工場を訪れてみることにした。

貫禄あるブロック工場の責任者の男性が話を聞かせてくれた。工場を再開したのは今年の1月頃。イラク軍がモスルでのイスラム国との戦闘勝利宣言を出してから半年も経った後だったそうだ。イスラム国がいなくなっても、水、電気などのインフラが復旧していなかったので仕事を再開できなかったからだ。今一番、困っていることは?と尋ねると輸送手段だという。イスラム国が車を持って行ってしまったため、モスルで使用されていた2,000台あった運搬用の車が今は200台くらいしか稼働していない。「イスラム国が来る前はいい機材も揃っていたんですよ」、と少し笑ってかつての工場の様子を懐かしげに話した。イスラム国の支配下では彼ら一家は工場を閉鎖してずっと貯蓄で食いつないでいたという。行政から受注していた公共事業がなくなったため、一気に仕事がなくなってしまったからだ。戦争というと爆弾が降り注ぐ状況を想像してしまうけれど、経済が止まり収入がないというのも、人々を苦しめる大きな理由になる。「今、みんなまた働き出して、お金ができてそれで家を直そうとブロックを買いに来るお客さんも少しずつ増えている。そんな風に連鎖していくと思うよ」。彼は明るく前向きに話した。

小麦工場の責任者イブラヒム・ハリル
小麦工場の責任者イブラヒム・ハリル
  • 隣の小麦工場はフル稼働。イラク人の主食はホブスやナンと呼ばれるパン。工場はこのあたりで一番高い建物だったため、イスラム国は戦況が不利になると、イラク軍がスナイパーを配置しないように屋上部分を爆破した。現在はブロック工場の主人も手伝って復旧。建物の灰色の部分が破壊の痕跡。
タイル工場の責任者のハッサン
タイル工場の責任者のハッサン
  • タイル工場の経営者は、タイルを買いに来るお客さんは少しずつ戻って来ていると言う。イスラム国の支配の間は仕事がないので家で座っていたそう。「何が原因で家を壊された人たちが多いのですか、イスラム国ですか、空爆ですか」と尋ねると、取材を見ていたイラク軍兵士がすかさず「イスラム国!」と答えた。
モスル東岸の花栽培場
モスル東岸の花栽培場

復興に向かおうとしているとはいえ、政治への不信感がないわけではない。花栽培場のおじさんは「テロリストも政治集団もいなくなった。治安もよくなって今はいいといえる」と言いながらも、イスラム国が来る前のモスルの街について「良くも悪くもないといったところですかね。政府はモスルを、例えば首都のバグダッドなどの他の街とは差別してよくは扱わなかったから」とかつての状況を話した。人々を悩まして来たのはイスラム国だけではない。イスラム国が来る前、シーア派中心イラク中央政府による差別的な扱いにスンニ派中心のモスルの街は苦しめられていた。それゆえモスルの一部の人たちはイスラム国がモスルを助けてくれるのではないかと思い受け入れてしまったという話はよく聞く。今、仮にも治安が保たれているのは、イスラム国の騒動をきっかけに外国のジャーナリストや援助団体が来るようになったため、政権側も横暴な行為をできなくなったということが背景にあるらしい。「昔は別の仕事をしていたんだけど今の仕事に変えたんだ。イラクの状況はいろいろよくないこともあるけれど、この仕事はいい匂いを楽しめて、何も悪いことをもたらさないからいいね。私の仕事は政府ともイスラム国とも話す必要はないんだよ」優しい言葉で表現しようとしてくれるが、この十数年、どんな経験をしてきたのだろうか。

政権への評価がモスルで高くはなっているのは事実だ。今回の選挙では他の県では苦戦した現首相のアバディのシーア派政党が一番多くの票をモスルのあるニナワ県で獲得した。これはスンニ派が多数派のニナワ県では普通はないことだ。イスラム国との戦闘にイラク政府が勝利したことが好意的に受け止められた結果でもある。しかし、モスルの人たちの捉え方は1つではない。今も生活は苦しいままの人たちもいる。モスルの60万人以上の国内避難民がいまだ家に帰れないままだ。イスラム国がモスルを支配できたのは、貧しい人たちを取り込んで力を強めたという側面もある。イスラム国が一応は去ったとされる今、取り残された人たちがまたイスラム国のような存在に引き寄せられるのではないかと懸念する人たちは少なくない。人々は助け合おうとはしている。しかしそれぞれが自分たちの「復興」に精一杯になった時、そこからあぶれた人たちがどこに向かうのか。

クルド自治区の失望

キルクーク南部ダコークにあるクルド兵士の基地 2017年8月
キルクーク南部ダコークにあるクルド兵士の基地 2017年8月
見張りに立つペシュメルガの兵士
見張りに立つペシュメルガの兵士

イラク北部にあるクルド自治区の人々も、今、大きな節目にある。クルド自治区は2017年9月にイラクからの分離独立を問う住民投票を行なった。イスラム国との戦闘で領土を拡大し、勢いをつけたクルド政府は投票に踏み切ったのだ。90%以上の人たちが独立に賛成の票を投じた。しかしこの結果を受けて独立に反対するイラク中央政府はクルド自治区への制裁を行なった。まず、クルドが実効支配していた地域にイラク軍が進軍して軍事衝突が起きた。クルドの国際空港を閉鎖し、陸路の国境移動も大きく制限した。予算配分の削減も続いている(きっかけは4年前にクルド自治区が石油を中央政府を通さずに独自に輸出したこと)。経済は大きなダメージを受けた。欧米諸国の政府からの支援も得られず、最終的にはクルド政府は投票結果を取り下げることになったのだ。

クルド人たちからアラブ人への恨みの気持ちを聞くことは少なくない。ふとした会話から、「親戚のおじさんがサダム政権時代に行方不明になったままなんだ」「ハラブジャでの化学攻撃は絶対に忘れない」という話を聞く。今回のイスラム国との戦闘で、この感情に加えてさらに、若いペシュメルガ(クルド軍兵士)たちがイラク軍についてこういうのを聞いた。「まったく協力的でない。イスラム国と戦っている時、アメリカなどの有志連合軍はこちらが苦戦しているとイスラム国側に空爆をして支援してくれたけれど、イラク軍は近くに部隊がいたとしても助けてくれない」。クルド軍はイラク政府の管轄するアラブ地域での作戦にもかなり協力しており、2014年のイスラム国の支配の始まりから、2016年6月の本格的な奪還作戦が始まる前の時点だけですでに、1,466人のクルド兵士が死に、8,610人が負傷している。イスラム国との戦いで、ペシュメルガはものすごく貢献したのにイラク政府と国際社会からのこの仕打ちを受けたというのが、クルドの人々の中にある感覚なのだ。

両者の大きな隔たりを感じるが、しかし今回のイスラム国騒動で皮肉にも見えたこともあったのだ。クルド自治区の医者や行政関係者、一般の人々までアラブ地域からやって来た避難民を受け入れ、部屋を貸したり、不足している医薬品を調達し合ったりしていた。外国からの取材者の通訳・ガイドとなって前線に同行していたのは多くはクルド人の若者たちだった。彼らの多くはアラブ人中心の街であるモスルに生まれて初めて行き、自分たちが見た現状にとても心を痛めていた。国レベルで同じようにはいかないとしても、個人、地域レベルでできていたことがあったのだ。だからこそこのイラク政府の対応に対する憤りは大きかった。

  ***

「イスラム国という共通の敵」がいなくなった今、保留にしてきた問題が再び前に現れた。クルド自治区に関しては分離独立をすることが、クルド地域に住む人たちにとって、イラクの今後にとっていいのかどうかわからない。スンニ派、シーア派の摩擦は今も存在するし、貧富の差からくる人々の間の格差にも根深いものを感じる。「イラクはこれからどこへ向かうのか」なんて言う月並みな言葉しかでてこないが、さまざまな要素が入り乱れている。選挙実施から約3週間、サドル派の政党を中心に連立協議の話し合いが行われながらも、投票結果をめぐり未だ混乱が続いている。

ドキュメンタリー・ディレクター

1985年三重県出身。2011年東京大学大学院修士課程修了。テレビ番組制作会社に入社し、テレビ・ドキュメンタリーの制作を行う。2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ ~イラク戦争 日本人人質事件…そして~』を監督。第一回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。その他、ベトナム戦争や人道支援における物流などについてのドキュメンタリーをNHKや民放などでも制作。2018年には『命の巨大倉庫』でATP奨励賞受賞。現在、フリーランス。イラク・クルド人自治区クルディスタン・ハウレル大学大学院修士課程に留学中。

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