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「新・江戸前鮨」が世界の鮨屋のテーマとなるか

一志治夫ノンフィクション作家
四ッ谷「すし匠」の小鰭の握り。酢飯には赤酢が使われている。

世界的な和食・鮨ブームの勢いはまだまだ止みそうもない。

2013年1月~2015年7月のわずか2年半の間に、日本食レストランは、世界平均で1.6倍に増えている。たとえばヨーロッパでは、5500店舗だった日本食レストランは、1万550店舗に急増。さらにオセアニアや中東に至っては、この2年半で2倍以上に店舗は増えているのだ(農林水産省調べ)。

それらの中にはもちろん、「なんちゃって和食店」も含まれている。日本でさして料理を学んでいない、あるいは来日したこともないような外国人が運営する店もやはり少なからず存在するのだ。しかし、「大戸屋」などのファストフード店の進出、日本を訪れ本物の和食を食べて帰国した人なども増加したことで、徐々にまっとうな和食も浸透しているのだろう。鮨の世界でも、「元気寿司」「くら寿司」「スシロー」などの支店が次々とオープンする一方で、シンガポールやニューヨーク、パリなどの大都市では日本人が経営する高級鮨店がすでに定着している。

そんな中、この1年で最大の話題といえば、上野毛と銀座で高い評価を受けていた名店「あら輝」が昨秋、ロンドンに進出したことだろう。名店の流出は多くのファンをがっかりさせることとなった。驚かされるのは、現地での価格だ。ロンドン「あら輝」の「シェフのお任せ」は、何と300ポンドなのである。1ポンド186円のレートで計算すれば、日本円にして実に55800円になる。飲み物代は含まれていないから、飲んで食べてだと軽く一人7万円ぐらいに跳ね上がる。日本の高級鮨店でもまずお目にかからない値段だが、「あら輝」に限らずともシンガポールなどの大都市にはこうした店が散見される。逆に言えば、それぐらい高いレベルの鮨(和食)が受け入れられる土壌がすでにあるということでもある(もちろん客には日本人も含まれるわけだが)。いずれにしても日本食への理解度が年々深まりつつあることは間違いない。

そうした流れの中で、東京の名店がまたひとつ、海外へと出ていくことになった。四ッ谷「すし匠」だ。四ッ谷に「すし匠」ありと謳われて久しい。オープン以来、多くの食通、文化人、あるいは料理人たちをも唸らせてきた店である。

店主の中澤圭二は、優秀な弟子を生み出すことでつとに有名で、西麻布「すし匠 まさ」、赤坂「すし匠 斉藤」、秋田「すし匠」、新宿御苑「匠 達広」、六本木「匠 村瀬」、青山「匠 進吾」などなど、すでに名店と名高い鮨屋にその技を継承してきた。

「すし匠」が進出を目論む海外の地は、ハワイ、オアフ島ホノルル。

四ッ谷「すし匠」はそのまま後進に譲られ、営業は継続される。だが、中澤が板場に立つのは年内までだ。来年からは現地で本格的な準備に入り、2016年5月のオープンが予定されている。

中澤がハワイでめざすのは、「ハワイに美味しい鮨屋があると言われるようになる。世界一の鮨屋になる」である。

そして、こうも言うのだ。

「日本で食べられないものを、日本で食べると同じくらい美味しい鮨を出すのが目標なんです」

「日本で食べられないもの」とは何か。それは、日本にない魚を握る、ということである。つまり、中澤は、現地ハワイ沖で獲れる魚を中心に素材を集め、「江戸前鮨」を握ろうというのだ。「江戸前鮨」とは、そのまま受け止めれば、江戸湾つまり現在の東京湾で揚がる魚を握る鮨ということになる。しかし、もうひとつの意味としては、酢や塩を駆使して、あるいは煮きりや煮つめなどを使って酢飯とネタの一体化をはかる握り鮨、ということになる。「江戸前鮨」とは、ひと手間ふた手間かけて鮨を握る技法のことでもあるのだ。

中澤は、ハワイの魚の特性を見抜き、どんな処理をすれば美味しい魚になるか、酢飯に合う魚になるかを研究し、ハワイで「江戸前」を実現しようとしているのである。

世界に点在する高級鮨屋の多くは、いま、築地からの魚を中心にメニューを構成している。シンガポールの高級鮨屋などは、地理的に近い九州の市場からも仕入れているが、いずれにしても、日本の市場からひっぱっているのだ。輸送手段と冷蔵技術が発達したおかげで、いまや、自在に日本の魚を新鮮なままひっぱってくることができるのだ。

だが、一方で問題も起き始めている。冒頭で記したように、世界の日本食レストランはわずか2年半で1.6倍も増えているのだ。そのため、世界中の高級日本食店がこぞって日本のいい魚を取り合うといいう現象が生まれているのである。

中澤は、こう嘆く。

「この間、西海岸に行ってきたけど、現地の鮨屋が使っている半分は日本の魚でしたからね。サンフランシスコでも、バンクーバーでも、シアトルでもいい店では日本の魚を使っている。それが不思議でね。この広い地球でどうして日本の魚だけが、と思うんだけど、やっぱり、漁師と魚屋の魚に対する手当が群を抜いて世界一なんですよね。日本の魚が旨い、と世界中が気づいちゃったんです」

そして、当然、それは日本の水産市場価格の高騰を招くこととなった。

「たとえばウニなんか数年前の3倍になってしまったものもある。海外の鮨屋がとんでもない金額で取りに来るから。そんな値段になったら、我々ももはや抵抗できないんですよ。仲卸もいままで買ってくれているところに、というのが仁義だったんだけど、最近は仁義なき戦いになってきている」

そうした趨勢の中で、中澤は、できるだけ現地の魚を使おうとしているのである。しかし、現実は厳しい。

「何回か現地に行き、魚屋さん、漁師さん、現地ですでに鮨屋を開いている日本の方に会って、実際にいくつもの魚種を試してみたけれど、思っていたより、鮨ネタに使うのは難しいことがわかってきた。味的にも難しいし、安定していい魚を手に入れることも結構大変なんです」

それでも、漁師たちと直に交渉して、魚の扱い方、締め方を伝授したりしながら、西海岸とハワイの魚でメニューを構成すべく奮闘しているのだ。たとえば、「活け締め」という方法もそのひとつ。釣った魚の眉間に針金を刺し、脳を壊し、放血し、神経を抜き、保存するやり方だ。この一手間で、魚は旨味を増し、食感がよくなり、保存性が高まる。いまや、日本の漁師たちの間では広まりつつあるが、そんな技術は、ほぼ日本でしかやっていない。それを伝えようというのだ。そこには、こんな思惑がある。

「そうやって、西海岸やヨーロッパなど世界の魚のレベルが高くなって美味しいとわかるようになれば、みんな現地の魚を使うようになるでしょ。魚の釣り方、締め方、保存の方法などで魚の旨さは変わってくる、ということを知ってもらう。丁寧に扱えば、こんなに魚は旨くなるということを浸透させれば、日本から魚をもって行かれることはなくなるでしょ。日本の魚を日本人が食べ続けるためにも、世界の魚を旨くする、というのが大切だと思っているんです」

エコロジー的に考えても、現地で獲れる魚を現地で食べる地産地消の方がずっといいわけである。すでに、フランス・ブルターニュにある鮨屋「檜 HINOKI」のように、ブルターニュの漁港に揚がる魚を使って、日本人の元で修業したフランス人職人が「江戸前鮨」を握る、という店も現出しているし、もしかすると、中澤の思い描く「新・江戸前鮨」は、これからの海外の和食店、鮨店の大きなテーマとなっていくのかもしれない。

2016年、ハワイ・オアフ島で「すし匠」中澤圭二の高邁な実験が始まる。

ノンフィクション作家

1994年『狂気の左サイドバック』で第1回小学館ノンフィクション大賞受賞。環境保全と地域活性、食文化に関する取材ルポを中心に執筆。植物学者の半生を描いた『魂の森を行け』、京都の豆腐屋「森嘉」の聞き書き『豆腐道』、山形・庄内地方のレストランを核に動いていく地域社会を書いた『庄内パラディーゾ』、鮨をテーマにした『失われゆく鮨をもとめて』、『旅する江戸前鮨』など環境・食関連の書籍多数。最新刊は『美酒復権 秋田の若手蔵元集団「NEXT5」の挑戦 』。他ジャンルの著書として、、1992年より取材を続けているカズのドキュメンタリー『たったひとりのワールドカップ 三浦知良 1700日の戦い』がある。

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