北朝鮮から届いた、友ヨンサムの訃報

2001年の寒い日、ヨンサムを外に連れ出して豆満江と北朝鮮を背景に写真を撮った。

私は1993年から朝中国境地帯に通い、合法・非合法に中国に入国してきた北朝鮮の人たちを取材して来た。その数は1000人近くになる。

その中で、北朝鮮に戻った後も連絡を取り合い、中国で密かに会う人たちがいる。取材のパートナーもいれば、長年の友人として、脱北して韓国や日本に渡った家族との橋渡しを私に頼む人もいる。

昨年、中国に行った私に、突然一人の友人の訃報が届いた。名をヨンサムといった。北朝鮮中部地方の農村に住んでいた。しばらく連絡が途絶えていたのだが、肺結核で苦しんだ末に亡くなったとのことだった。まだ40代半ば。一児の父だった。

ヨンサムは2000年頃に、飢える家族を食べさせるため親戚を頼って中国に越境して来ていた。インタビューさせてもらったことがきっかけで親しくなり、私が吉林省延吉市内に借りていたアパートで同居したこともあった。人懐っこく、年長の私のことを「兄貴」と呼んでくれた。

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「中学を出てすぐ軍隊に入って10年もいたし、除隊すると飢饉が広がっていて勉強するどころではなかったんです」。

こう言うヨンサムは、私に中古のコンピューターと韓国の歴史や英語の本を求めた。インターネットで、韓国の北朝鮮関連ニュースを、食事も忘れて食い入るように見ていた。

彼は3年ほど中国の親戚のもとで働いて金を貯め、北朝鮮の家族のもとに戻ることになった。国境の川・豆満江べりまで見送った私に、「半年ほどしたらまた来ますよ」と言って、明け方に、いろいろ詰め込んだ大きな背嚢を背負って川に入っていった。それが今生の別れとなった。

故郷の街までたどりついた後、ヨンサムは中国で過ごした「空白の3年」が秘密警察に問題視されて監視対象となり、再び中国に越境して来ることは、叶わなかった。

自分の肖像がニューズウィーク誌の表紙になって、ヨンサムは大喜びだった。
自分の肖像がニューズウィーク誌の表紙になって、ヨンサムは大喜びだった。

ヨンサムの一家は実に不遇であった。90年代後半の「苦難の行軍」と呼ばれる社会混乱と飢餓の中でまず母が亡くなった。父が、中国にいる弟の支援を頼って密かに往来を続けたが、01年に真冬の豆満江を渡ったところで倒れてその場で亡くなった。北朝鮮に残った兄も、ヨンサムが亡くなる直前に死亡していた。唯一生き残ったのは、数年前に韓国に脱出した姉だけである。

日本に住む者の感覚では、北朝鮮では実にあっけなく人が死んでしまう。ヨンサム一家のように家族に死が続くのは、今も北朝鮮では珍しいことではない。

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ヨンサムにとって私は、初めて会う「ナマ日本人」だった。教科書やドラマや記録映画の中で「不倶戴天の敵」として描かれる日本人の「実物」に興味は尽きなかったようで、彼は私に日本のことを様々尋ねた。

ヨンサムと対話を重ねていた頃、折しも小泉純一郎首相の訪朝があり、金正日氏が拉致を認めて謝罪した。彼は女子中学生まで拉致していた事実に驚き、深く同情した。「自国民を飢えて死なせる政権なんだから、日本人拉致なんて犯罪と思っていないに違いない」と憤った。

ヨンサムたち北朝鮮の人々と付き合いを深めながら、私は拉致問題を日本人と朝鮮人の間の民族問題にしてはならないと強く感じるようになった。当時、日本社会には北朝鮮に対する報復・懲罰感情が溢れ、「やり返せ」「締め上げろ」という言葉がメディアにも飛び交った。

朝鮮総連関連施設が攻撃され、朝鮮学校生への嫌がらせ事件が続発した。これはお門違いも甚だしい。北朝鮮の独裁政権は糾弾されるべきだ。しかし、北朝鮮に住む民衆や一般の在日コリアンは、拉致とは何の関係もないし責任もない。

日本人拉致は、北朝鮮政権が、かつて国を奪った「憎き日本人」に復讐するために行ったのではない。冷戦下、韓国に浸透するための工作活動に日本人が巻き込まれた事件だったのである。拉致問題のせいで日本人と朝鮮人が諍うのはあまりに不幸である。

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ヤン・ヨンヒ監督インタビュー「北朝鮮と私、私の家族」

ヨンサムはというと、もちろん私の求めに応じて北朝鮮の庶民の思いや暮らしを詳細に語ってくれた。「独裁政治が一日も早く終わって国を開いて欲しいと、誰もが願ってるに決まっているでしょう!」

ヨンサムが、口癖のように、そう繰り返したことを思い出す。

冥福を祈りたい。

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