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槇原敬之さんの曲に「罪」はあるのか? 過剰反応とバッシングがダメな理由

石戸諭記者 / ノンフィクションライター
警視庁(写真:アフロ)

 歌手の槇原敬之容疑者が覚醒剤を所持していたなどとして警視庁に逮捕された事件で、槙原さんの楽曲使用を控える動きがマスメディア上で広がっている。

 槇原さんが社歌を製作していた関西テレビは当面の使用禁止を早々に発表し、日本テレビは昼の情報番組「ヒルナンデス!」のテーマソング使用を見合わせ、テレビ朝日も「じゅん散歩」のテーマ曲の差し替え検討を発表した。まだ逮捕段階であり、推定無罪の原則はどこにいったのかと思ってしまう。インターネット上でも「幻滅」「またか」という言葉で、槇原さんへのバッシングが強まっている。メディアの対応も、こうした声とリンクしているように見える。

過剰反応でいいのか?

 芸能人の薬物問題で毎回のことだが、メディア上でも、エビデンスに基づかないバッシングにつながるような過剰反応が出てくる。私は薬物依存症治療や支援の現場で活動する医師や専門家の取材を重ねているが、著名人逮捕報道とその反応を見るたびに現場の常識と、メディア・社会の常識に乖離があると感じさせられている。

 薬物犯罪の捜査機関、薬物依存症の専門家、当事者団体が一致しているのは、バッシングで解決するほど薬物問題は甘くないという「事実」である。何度も繰り返し書いてきたが、今回も指摘しておこう。

 精神科医の松本俊彦さんら、薬物依存症の専門家たちの言葉を借りれば「覚せい剤の依存症って、簡単にいうと脳がクスリによる快楽でハイジャックされている状態」になる。覚せい剤というのは打ったり、あぶって吸ったりするだけで、非常に強い多幸感を得られる。覚せい剤は脳の快感中枢に直接作用することで、脳が快楽を覚えてしまい、忘れることができない状態になる。治療は簡単ではないのだ。

薬物依存症の目的は「回復」

 薬物依存症治療の第一人者である松本さんは、私のインタビューに「仮に治療プログラムを受けたとしても、彼らが安定した断薬生活を送るには、だいたい7〜8回の再発機会があるというデータがあります。クスリが欲しくてしょうがない、あるいは使ってしまう機会が平均して7〜8回はあるということです。安定と、再発するかもしれない時期の波を繰り返しながら、だんだんと落ち着きを取り戻すのです」と語っている。

 再発の可能性は治療でも織り込み済みであり、覚せい剤の依存症にとって「完治」はありえず、自身と向き合い「回復」していくことが最大の目標になっていく。

 「依存症患者の言葉と涙は信じるな」という言葉も治療や支援の現場では共有されているが、一般社会ではそんなことはない。周囲が根拠もなく言葉を信じて、裏切られたと感じ、怒りの矛先を本人に向ける。

芸能界は甘いのか?

 麻薬取締法違反で懲役1年6カ月、執行猶予3年の有罪判決を受けたピエール瀧さんが今月映画撮影に参加し、芸能活動に復帰した際にも「芸能界は薬物に甘い」という声が散見されたが、罪を犯した人々を締め出し、厳しく接すれば薬物問題が解決するというエビデンスも当然ながら無い。

 逮捕時点でこれだけ過熱した報道が繰り返され、社会的制裁も受ける芸能界が甘いとは思えないが、仮に一般社会のほうが芸能界と比べ「社会復帰は容易に許されない、厳しい社会」だとするならば、そちらのほうがおかしいのだ。薬物依存症患者を孤立させ、追い詰める社会ならば、復帰の場を与えられる芸能界のほうがまだマシである。

 逮捕された槇原さんが仮に有罪判決を受けたならば、その時は刑事司法の中で罪は償えばいい。そして、薬物依存症であるならば適切な治療につながればいい。そして、彼の作った曲に罪はないのだから、そのまま流せばいい。

記者 / ノンフィクションライター

1984年、東京都生まれ。2006年に立命館大学法学部を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。岡山支局、大阪社会部。デジタル報道センターを経て、2016年1月にBuzzFeed Japanに移籍。2018年4月に独立し、フリーランスの記者、ノンフィクションライターとして活躍している。2011年3月11日からの歴史を生きる「個人」を記した著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)を出版する。デビュー作でありながら読売新聞「2017年の3冊」に選出されるなど各メディアで高い評価を得る。

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