「”眠さ”しかない」「”わかりみ”が深い」→なんでも名詞に、どうして?

(写真:ロイター/アフロ)

先日、学生たちと話していた時に、こんな会話を耳にしました。

「あの教授の授業ねむさしかないよね。」「それはわかりみが深い!」

「ねむさ」? 「わかりみ」? 聞きなれない言葉に、思わず首を傾げてしまいました。

もちろん「ねむさ」は形容詞の「眠い」が名詞になったものですが、「分かる」の名詞化としての「わかりみ」というのは聞いたことがありません。

違和感をいだいてよくよく話を聞いてみると、これはTwitterや2ちゃんねるから発生した言葉だということが分かりました。

「ねむい」→「ねむさがある(ねむみがある)」、「わかる」→「わかりみがある」のように、一語で済むところを敢えて婉曲的に表現するこの流行り言葉は、「エモい」「ふろりだ」のような、略するタイプの若者言葉・JK語とは性質が異なります。ストレートに言わず、わざわざまどろっこしく伝えようとするのにはどんな理由があるのか。ここは大まじめに考えてみることにしました。

「主体の意志」が欠けている

まず挙げられるのが、「感情の温度を下げる」ということ。普通、動詞・形容詞などは、「私は行きたい」「僕はつらい」といったように主語を付けることができます。実際の会話では省略されることも多いですが、「行きたい」と言っただけで「(私は)行きたい」ということが伝わります。

しかし、シンプルに「行きたみ」とするとどうでしょうか。「行きたい」という感情が主体を離れ、それだけでふわふわと浮いているようなイメージになります。「めっちゃ行きたい」よりも「行きたみがある」の方が、どこかクールで、感情の温度が低くなっています。

また、単に「行きたみ」と、言い切って使うことも可能で、こちらの方が、より主体と感情が分離している印象を与えます。

他人事っぽい言い訳になる

そして、主体の存在が薄れる、ということは、その感情が他人事にもなりうるということです。「ねむみ」を例にとってみましょう。ただ「ねむい」というだけだと、「(私自身が)ねむい」、つまり「ねむく」なっているのは「私自身」が原因である、というニュアンスで伝わります。

ところが、「ねむみがある」という表現になると、「私」とは無関係のところから「ねむみ」という感情が襲ってきて、そのせいで私は眠くなっているんだ、という意味が含まれてくる印象。すごく眠い!という気持ちを表すのは恥ずかしい、でも主張したい。そうしたときに、どこかその辺に転がっている「眠いという感情=眠み」に思いを託せばいいというわけです。

感情の所在を曖昧にすることで、感情の責任をも自分から引き離そうとする、賢い戦略です。

より共感を得やすい

上記の二つの性質からさらに考察を深めるならば、「○○み」「○○さ」という表現には、「他人に共感してもらいたい」という感情がひそんでいるといえそうです。

主体の存在を消す、ということは、個別の感情がより普遍に近づくということです。「〈私の〉眠い」と「〈あなたの〉眠い」は本来同じではありません。ですが「私」という主語を連想させないことで、より一般化されたかたちで感情が表現され、結果としてストライクゾーンが広がり、共感されやすくなるのです。

'''私が眠いことと、あなたが眠いことは別だけれど、

私の眠みと、あなたの眠みは、同じ。だから即座に「確かに!」と共感して欲しい、'''

ということです。

最初の「○○み」は「バブみ」

ちなみにネットの海をさらに検索してみると、最初に「○○み」「○○さ」が生まれたのは2006年4月のことという説が。記念すべき、はじめの「無理矢理な名詞化」はずばり「バブみ」。

「母性を感じさせる対象に出会ったときに、自分が幼児化してその対象に甘えたい→バブバブ言いたい→バブみ」というわけです。聞いたこともないインパクトのある言葉で「なんじゃこりゃ」という驚きを与えるのと同時に、内容をストレートに表現したときの不気味さを緩和する役割を担うこともできる発明品でした。

むりやり名詞化現象が意味するものは?

「○○み」「○○さ」は、自己を隠し、他人に同化しようとするきわめて日本人的な言い回しであり、現代的なコミュニケーショントレンド。

しかし、細かい感情のニュアンスや言葉のニュアンスが失われ、一般化に向かっていく傾向はいかがなものか。共感しやすさを狙うあまり、個人的な感情や自己主張が失われるのは残念な兆候です。

ツイッター界隈の一過性のトレンドと見過ごすにはあまりに特徴的すぎる、日本語のゆらぎがそこにはあります。

危なさしか感じないし、心配みが深まるいっぽうです(笑)

(作家・心理カウンセラー 五百田 達成)