Yahoo!ニュース

『THE SECOND』による観客審査という答え お笑いを”審査”するということ

飲用てれびテレビウォッチャー
(写真:イメージマート)

これまで見てきたお笑いの賞レースとは、大きく異なる大会だったように思う。5月20日に放送された『THE SECOND』(フジテレビ系)。結成16年以上の芸人が出場できる漫才の賞レースの初回は、ギャロップの優勝で幕を閉じた。

同大会は、同じ漫才の大会である『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)とはいくつかの点で異なるが、何よりも大きな違いは観客のみが審査員を務めている点だろう。M-1では第1回大会(2001年)を除き、芸人を中心とした”プロ”の審査員がジャッジを下してきた。『キングオブコント』(TBS系)や『THE W』(日本テレビ系)、『R-1グランプリ』(フジテレビ系)なども同様だ。

そこにきて、観客だけによる審査である。その結果、『THE SECOND』はこれまでのお笑いの賞レースとは大きく異なるものになった。たとえば、マシンガンズが決勝トーナメントに進出し、さらにその決勝戦まで勝ち進むのは、M-1では考えられなかったように思う。象徴的なのは、松本人志のコメントだろう。ネタ中に小道具として紙を取り出したマシンガンズのネタに対し、松本は「途中で紙を出してたのがどうとられるかっていう部分はあるんでしょうね。プロの審査員なら、ちょっと、うん……っていうところもあるかもしれない」と番組でコメントした。

番組の制作陣によると、審査員が芸人ではなかったのは、結成30年を超えるようなベテランが参戦した場合に芸人では立場的に審査が難しくなるといった理由があるようだ。「消去法と言えばそうかもしれません」。総合演出を務めた日置祐貴氏はそう語る。

【決勝直前】漫才賞レース・THE SECOND 制作陣に聞いた「ネタ時間6分」「100人の観客審査」「アンバサダー・松本人志」の意図(NEWSポストセブン/2023年5月19日)

16年以上の漫才師の大会という性格上、観客による審査は必然だったのだろう。ただ、近年の賞レースの流れから見ると、観客が審査員を務めたことには別の必然性を読み取りたくなる。あえて言えば、歴史的な必然性。そんな見立てを考えてみたい。

年々”楽しさ”を志向する賞レース

少なくともM-1についていえば、年々”楽しさ”を増している。

初期の『M-1グランプリ』について、芸人たちはしばしば「今のM-1とはまったく違う」と振り返る。格闘技を模した演出が取り入れられた番組は、視聴者にも伝わるピリついた雰囲気のなか放送された。いまから振り返ると、なぜあんなにもお笑いの番組で緊張感が必要だったのか疑問に思えるほどだ。

審査員の点数も低めだった。特に島田紳助や松本人志は50点台や60点台をつけることもあった。漫才は芸人たちが真剣に取り組む”競技”になり、だからこそ厳正な審査が求められた。第1回大会では、審査員はその真剣さゆえにネタへのコメントを控え、紳助は「しゃべる気にならないです」と何度か繰り返した。

ただ、そんな初期のピリついた雰囲気は徐々に薄れていく。松本も紳助も審査のコメントで積極的にボケを入れるようになり、出場芸人たちも審査員との”平場”のやりとりや敗退コメントで笑いを取りに行くようになる。M-1はバラエティ番組として、どんどん”楽しさ”を増していった。”楽しさ”を削ぐストレスになるようなものは、徐々に排されていった。

”楽しさ”のノイズとしての審査

そこでネックとなるのが審査である。賞レースには何らかの点数化が欠かせない。1人1票にせよ、1人100点にせよ、なんらかの形でネタが点数化され、勝者が決まる。が、出る者はもちろん、見る者にとっても最大のストレスになるのがその審査ではないだろうか。もとより、点数化が難しいお笑いに、無理やり点数をつけているのだ。いかにプロが行う審査であっても、見る側にとって不可解なジャッジがしばしば混入する。そのストレス。自分がおもしろいと思ったネタに低い点数が出ればなおさらだ。

そして、M-1が笑いを語る文化の形成に大きく寄与した。審査員が語る評価コメントをふまえ、”手数”の多さや後半の”畳み掛け”など、漫才を評価する際の語彙がおおくの視聴者に手渡された。その結果、賞レースが終わったあとには審査結果についてネット上で議論が戦わされたりする。不合理な採点をした審査員には批判が投げかけられる。審査員が審査される状況が生まれる。審査をめぐるストレスはさらに高まっていく。

だからだろう、M-1に限らず近年の賞レースでは、自らがつけた点数の根拠を(ときにボケを交えつつ)理路整然と語れる審査員が多い。笑いに点数をつけるという無理なことに、言葉でできるだけ合理的な根拠を示す。お笑いを審査することが必然的に帯びてしまうストレスをいかに減らすか、その難題に対するひとつの解答が、語れる審査員ではなかったか。

ただ、いかに言葉をつくしても、お笑いを点数化することの理不尽それ自体はなくなるわけではない。

反対に、お笑いを語ること自体への忌避が示される向きもある。これはお笑いだけでなく文化一般に言えることなのかもしれないが、音楽なり映像なりパフォーマンスなり、なんらかの作品を自分が受け取ったときの感覚を重視し、そこに他者が言葉を挟むことを嫌う傾向が少なからず見られる。お笑いであれば、自分が「おもしろかった」と感じたそのプリミティブな感覚以上のものは夾雑物として排する感じ。理解よりも共感を求める感じ。そのような感覚のもとでは、お笑いに点数をつけその根拠を語ることは忌避されるだろう。いや、そもそも審査それ自体が不要とされるだろう。

一方に、審査の適正化を求める向きがある。他方に、第三者による作品の解釈を忌避する向きがある。いずれにしても、審査は”楽しさ”にとってノイズである。

観客審査というひとつの答え

そこにきて、観客だけによる審査である。今回の『THE SECOND』では100人の観客が審査員を務めた。1人の持ち点は3点で、とてもおもしろければ3点、おもしろければ2点、おもしろくなければ1点を入れる。その合計点で勝敗がつく。

この方式を採る場合、個々の観客審査員がどういう理由で点差をつけたのか、見ている側は解釈できない。合計点の背景にどういう評価軸があるのかも読み取りづらい。さらに、審査を終えたあとで観客の一部に点数の根拠についてのコメントを求め、ジャッジへの緊張感と責任を少なからず負わせているので、あまり変な点数はつけない。だからジャッジはそれなりに納得のいくものになる。

ちゃんとした結果は出るが、その理由は追えない。合理的に見えるジャッジは下されるが、背後に評価軸は見いだせない。今回の観客審査は、そんな状況を生んだ。マシンガンズとギャロップ、正反対にも思えるネタを披露する2組をどちらも最終決戦に上げる論理は、「どちらもおもしろかった」以上にさかのぼれないだろう。

それは結果的に、お笑いを審査することをめぐるストレスを最小化し、賞レースをさらに”楽しい”ほうに傾けることになったのではないか。審査員は匿名性がほぼ確保された形で100人もいるし、彼ら彼女らが下した審査結果の背後には評価軸が読み取れないので、審査の適正化を求める欲望は必要以上に刺激されにくい。審査の背景には「おもしろかった」以上のものを読み取れないので、第三者による作品の解釈を忌避する向きもストレスを感じにくい。

そういう意味で今回の観客審査は、変化するお笑い賞レースの歴史が到達した現在の答えであったと考えたい。もちろん、少なくとも100人もの観客がお笑いの審査員を務め、コメントを発せるまでになった状況は、M-1をはじめとした賞レースが培ってきたお笑いを語る文化の成熟の結果だ。その意味でも、歴史の産物である。

もちろん、完璧なシステムはありえない。この審査方法に不満が残る人もいるだろう。また、M-1についていえば、いわゆる”正統派”に括られるような漫才師も、イレギュラーなネタをする漫才師も、どちらもチャンピオンに選んできた。「これぞ漫才」と「これも漫才」の往復。それが漫才の進化を生んできたようにも思う。それはプロの審査員だったからこそ、という面はなかったか。観客による審査は「これも漫才」をチャンピオンに選ぶのか。今後、問われてくる気がする。

が、おそらく第2回、第3回と続くことになるのではないかと思われる『THE SECOND』。第1回であれこれ言うのは早いかもしれない。ひとまず、新たな”楽しい”賞レースの誕生を寿ぎたい。

テレビウォッチャー

関西在住のテレビウォッチャー。文春オンライン、現代ビジネス、日刊サイゾー、日刊大衆、週刊女性PRIME、電子コラム&レビュー誌『読む余熱』などでテレビに関する文章を執筆。

飲用てれびの最近の記事