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追悼 大田昌秀さん 「2個の手榴弾を渡されて、半袖半ズボンで戦場に送られた」沖縄戦少年兵の実態を証言

堀潤ジャーナリスト
2015年6月、大田昌秀元沖縄県知事にインタビューした。

沖縄の米軍基地問題を訴え続けた元沖縄県知事の大田昌秀さんが12日、呼吸不全と肺炎のため死去した。92歳だった。

戦後70年を迎えた一昨年2015年6月、J-WAVE JAM THE WORLD8bitNewsの共同取材で3時間近くお話を伺った。

大田さんは1925年生まれ。インタビュー時は90歳だった。学徒兵として沖縄戦の戦場に駆り出され、およそ20万人もの人々が犠牲になったといわれる過酷な戦闘状況の中でなんとか生き残った。戦後は、研究者として、そして政治家としてこの基地問題に関わり続けてきた。沖縄の米軍基地の歴史と内幕を一本のタイムラインで途切れることなく語ることができる数少ない人物だ。

当時、インタビューをポリタスにも寄稿した。あらためて追悼の意味を込めてインタビューを再掲したい。沖縄の戦前、戦中、戦後を知る上での貴重な証言を映像で残すことができた。今を生きる私たちがしっかりと大田さんのメッセージを受け継いでいくべきだと、強く思う。

■沖縄を90年間見つめてきた政治家が語る「基地問題」解決の糸口

私たちは「敗戦」を迎えたあの時代から続く同じ一本のタイムラインの上をいまも変わらず歩き続けている。振り返れば戦前、戦中、戦後に隔たりはなく、かつての日常の連続の上に私たちの日々の暮らしが続いているのだ。多くの犠牲と惨禍をもたらしたあの不条理な戦争の記憶は時の経過と共に薄れ、風化への駒を進めている。しかし、ひとたび沖縄へ目を向けると「風化」という言葉がいかに冷たい目線の投げかけに加担してしまっているかと強い自戒の念を感じざるをえない。なぜ、沖縄にあれだけの数の米軍基地が集中しているのか、私たちは知っているだろうか。報道で伝えられる「沖縄の怒り」という言葉の源流に想いを馳せることができているだろうか。  

私は米軍基地問題と向き合い続けてきた沖縄の歴史を知るために、先日、元沖縄県知事の大田昌秀氏をはじめ沖縄戦を体験した方々の元を訪ねた。

Q 「戦後70年」というテーマで、米軍基地問題の源流を探る取材をしています。大田さんは1945年3月、沖縄戦の当時はどのような状況でいらしたのですか?

僕は19歳で、首里にある師範学校の生徒だったわけです。戦争中にね沖縄には12の男子中等学校があったんですね。それから10の女学校があったんですよ。その12の男子中等学校と10の女学校の全ての学校の10代の若い生徒たちがね戦場に出されたわけですよね。普通はですね、そういう10代の若い人たちを戦場に出すためには国会で法律をつくって、その法律に基づいて戦場に出すことができるわけですよ。ところが沖縄戦の場合は法律もないまま、法的な根拠もないまま全ての学校の10代の若い生徒たちが戦場に出されて、過半数が犠牲になったわけなんですよね。私たちはですね、銃1丁と120発の銃弾と、2個の手榴弾を持たされて、半袖半ズボンで戦場に出されたわけですよ。普通は兵隊ですと「巻き着はん」といって足を保護する布があるわけですよ。ところが我々は素肌で戦場に出されたんですよ。

ちょうど6月23日、今の慰霊の日ですね、昭和20年の6月23日に日本本土では初めて「義勇兵役法」というのができて、男性の場合は15歳から60歳まで、女性の場合は17歳から40歳までの人たちを戦闘員として戦場に出すことが初めて可能になったわけです。ところがそれは沖縄戦での組織的抵抗が終わってからできた法律なんですよね。ですから沖縄の若達は法的な根拠もないまま戦場に送り出されて犠牲になったというのが多いんです。

Q 大田さんその当時手榴弾を抱えさせられて戦闘に投入されたというのはどんなお気持ちでいらっしゃいましたか?

私たちは徹底的な「皇民化教育」といってね、天皇のために命を投げ出すのが人間として一番幸せなことだと叩き込まれていたわけです。ところが私たちの同じ世代の本土の人たちと比べてみますとね、本土にはね神田の古本屋がいっぱいあるわけですよね。ですから自由主義とか、民主主義とかどういうものかをその本屋で買えばね密かに読めるわけですよね。ところが沖縄にはそういう本屋というものがなくて、船でそんな本を持ち込んでくる場合には、港の方で「そんな本は上陸させない」と船の中で全部処分してしまうんです。県議会でそういう危険な本を上陸させないと決議して、船の上で全部処分してしまうんです。ですから私たちは皇国史観以外、一切民主主義や自由主義の本、社会主義の本を読むことができなかったんですよ。ですから、試験管の中に入れて純粋培養するように天皇制教育を徹底的に教わってきたわけです。「この戦争は欧米の帝国主義からアジアの人々を解放する神聖なる戦争だ」と教えられてきたわけです。それを鵜呑みにしてきたんですね。ですから文字通り試験管に入れて純粋培養するようなかたちで皇民化教育をされてきたわけです。ですから戦場に出た時もそのまま信用しておったわけです。

ところが、戦争が日本軍にとって不利な状況になってきた時に、旧日本軍の沖縄住民に対する対応を否応無しに見せつけられるわけです。戦場で。

例えばですね、住民がいたるところに壕を掘っているわけです。そこに家族がみんな入っているわけですけどね、本土からきた兵隊たちが「俺たちは本土から沖縄を守るためにはるばるやってきたわけだからお前たちはここを出て行けと」言ってね、壕の中に入り込んできてそこの人を追い出して兵隊がはいっちゃうんですよね。そういうことを毎日のように見ていたわけですよ戦場で。そうするとね、沖縄の住民は「敵の米兵よりも日本軍の方が怖い」という声も出てくるんです。友軍の方が怖いと。なぜかというと、みな子供を抱えているわけです。そうするとみな豪の中に子供を連れて住むわけです。地下壕ですからそれこそ表現ができないほど鬱陶しい環境なわけです。そうすると子供は泣くわけですよ。そこに兵隊が入っているわけですからね、敵軍に豪の所在がばれてしまうと言って、友軍の兵隊が「子供を殺せ」というわけです。そうすると母親は子供を殺せないもんだから子供を抱いて豪の外に出てしまう。そうすると豪の外は砲弾が雨あられと降っているわけですから、死んでしまう。ですから今度は子供を殺せない母親が子供を抱いたまま豪の中に潜むんです。すると兵隊が近寄ってきて子供を奪い取って銃剣で刺し殺してしまうということがね何度も起きたわけですよ。

Q それは大田さんもご覧になった光景ですか?

もちろん。こういう光景を見ているとね「一体この戦争とは何だ」と思わざるをえなくなってね、それで旧日本軍に対する信頼感が一挙に失われたんですね。

私が戦争から生き延びて真っ先にやろうとしたことは、何故こんな戦争に自分たちは巻き込まれたかと。なぜ僕らのクラスメートや同僚達がねこんなに沢山死ななくちゃいけなかったかと。結婚もしない、家庭ももたないうちに死んでしまってね。これをどうしても明らかにしたいと思って20年間アメリカの国立公文書館に通い続けて沖縄戦の記録や資料を手に入れ分析してきたわけです。そうすると日本がいかに間違ったことをしてきたかもわかりましたし、なぜ沖縄が巻き込まれたかもわかりました。

Q 実際に、沖縄の本土復帰の過程において本土にあった米軍の基地が沖縄の方にどんどん移されていくことに繋がっていきますよね。時を経て、辺野古の問題が解決されないまま立ち往生していますね。大田さんならこの問題をどう解決していきますか?

今、世論調査をしますとね沖縄住民の83%が普天間飛行場を辺野古に移設に反対しているんです。ところが最近本土の方では普天間を辺野古に移すのに反対する人も少しずつ増えつつありますが、世論調査の結果を見ますとね過半数の56%が「賛成」しているんですよ。なぜ賛成しているかというのを私なんかから見ますとね、中身をご存じないと。つまりね、ただ辺野古へ基地を移設すればいいという話ばかりが言われてね、どういう基地ができるかという中身を知っていないんですよ。

1995年の5月に少女暴行事件が起きましたね。それを受けて沖縄県民8万5千人が抗議大会を開いたわけです。そしたら日米両政府が慌ててね。「SACO=沖縄に関する特別行動委員会」というのを組織して、沖縄の基地を閉鎖する考えを発表したんですね。そして中間報告と最終報告を日米両政府がそれぞれ出したわけです。その報告書を僕らは丹念にチェックしてみたわけですね。そうすると日本政府は普天間飛行場を辺野古に移すとあった。現在の普天間飛行場を5分の1に縮小して移すと。そうすると現在の普天間飛行場の滑走路の長さは2600メートルくらいありますから、それを1300メートルに縮めて、前後に100メートル緩衝地帯を設け、長くても1500メートルに縮小して移すと。建設期間は5年から7年くらい。建設費用は5000億円以内と発表したんです。日本政府の最初の策は。ところがアメリカ政府の最終報告は、建設計画は最低でも10年かかると。それからMV22のオスプレイを24機配備するからこれが安全に運行するためには2カ年の演習期間が必要で、移設には少なくとも12年はかかると。建設費用は1兆円、あるいは1兆5千億円という人もいますがね。さらに運用年数40年、耐用年数200年になるような基地をつくると書いてあるんです。はっきりと。耐用年数200年になる基地をつくられると沖縄は未来永劫基地と共生しないといけなくなりますからこれは絶対ダメだといっているわけですよね。

本土では全く知られていませんけどね、吉田茂首相が平和条約を結ぶ時にですね、当時の西村熊雄という外務の条約局長に、できるだけ早く平和条約を結びたいからアメリカ政府に日本政府の条件を早く出しなさいと指示を出したという記録があるんです。その記録の中に、琉球は将来日本に返して欲しいけどいまは米軍が軍事基地として使いたがっているからバミューダ方式で使わせると書き入れなさいと指示を出した、という記録が残っているんですよ。バミューダ方式というのは99カ年ですよ。私はそれをみた時にね、耐用年数200年というのは吉田総理の発言が生きているのかなと思ったわけです。

さらにいうとね、私が県に入った時につくったのは公文書館なんですよ。アメリカで修士号をとった沖縄出身の優秀な学生を県の職員に採用してねアメリカの公文書館に9カ年はりつけて「沖縄の問題で解禁になったアメリカの資料を片っぱしから県の公文書館に送れ」といったわけです。もともと普天間飛行場を辺野古に移すという計画については、はじめ日本政府は辺野古とは言わなかったわけです。沖縄本島の東側海岸といって誤魔化しておったわけです。それが辺野古と決まった時に、私たちは「なぜ辺野古か?」というのを当然疑問に思ってですね県に入ってきたアメリカで解禁になった公文書資料をチェックしてみたんです。そしたらなんと驚いたことにね、意外なことがわかるんですよね。

そもそも普天間飛行場を辺野古に移すという話はね、1996年に橋本総理と私との間で始まった話と思っていたわけです。実際に96年1月にはね、クリントン大統領が4月に来日されるということでね、橋本総理の密使として秩父セメントの諸井虔会長が沖縄に一人で来られたんです。二人で会いたいということになり会いましたら、諸井さんは「自分は橋本の友人だけど、沖縄が基地を引き受けてくれないと苦労しているから、なんとか基地を引き受けてくれないか」と言うんですね。それで私は「申し訳ないけど我々は沖縄戦を体験しているから基地を引き受けることは到底できない。200年に渡るような基地を作ると書いてあるから到底受けられません」と言ってね、さらに「あなたが本当の友人だったら橋本総理に率直に「沖縄は基地を受け入れる気は全くないです」と伝えてください。基地を引き受けたら次に戦争が起きたら真っ先に沖縄が戦場になってしまう。だからこれだけは戦争から生き延びたものとして許すことはできない。だからあなたが本当に橋本総理の友人だったら率直に総理にそういうことを言って下さい。総理がアメリカ側に安請け合いして沖縄が基地を受け入れると言ってしまったらね、契約社会だから、いっぺん約束して守らなかったら信用が傷つくと、人間的に。だから本当の友人だったら総理を傷つけないようにして下さい」と言ったんです。

1996年1月に私たちは「基地返還アクションブログラム」というのを出して、2001年までに1番返しやすいところから10の基地を返してくれと要望を日米両政府に出しました。2010年までに14の基地を返してくれと。2015年になると残りの嘉手納飛行場を含めて17の基地全てを返してくれと。そうすれば2015年に沖縄は基地のない平和な社会を取り戻すことができるからといって、これを日米両政府の正式な政策にして下さいと要望したわけですよ。そしたら諸井さんが「2001年までに10の基地を返してくれというけど、最優先で返して欲しい基地はどこか?」と尋ねるのんで「それは普天間です」と返信しました。なぜなら普天間には周辺に16の学校があり、それだけではなく病院や市役所もあって、さらにクリアゾーンと言ってですね、滑走路の延長線上には建物をつくったり、人間が住んでいけないようになっているんですけどね、そこに普天間第二小学校ができていて3千人の人が住んでいると。だから一番危険だから普天間を真っ先に返して下さいと言ったら、2001年までに10の基地を返して欲しいというところに普天間を付け加えて11の基地を返すことが日米両政府が合意したわけですよ。すごく喜んだわけですよね。ところが後になってね、11のうちの7つについては沖縄県内に移設するというんですよ。移設するとね、コンクリートで作るわけですからね耐用年数が尽きるまで米軍が使える。普天間飛行場や嘉手納飛行場はね、兵舎をプレハブで作ったところを全部コンクリートで作り変えているわけですよ。だから我々としてはね、県内に7つも移設するのは到底納得できませんと返したわけですよ。

どころがですね、県の公文書館にある資料を読むとこんなことが書いてあるんです。まず1960年代に米軍は「沖縄住民の基地に対する怒りが強すぎる」と言っているんです。1953年から1958年までは「島ぐるみの土地闘争」と言って、米軍が農家の土地を強制的にとりあげて軍事基地にかえて行ったんです。それを「島ぐるみの土地闘争」といってね、沖縄の歴史始まって以来の大衆反米行動が起きたんです。そうした中、沖縄が日本に復帰する話が1965年頃に始まるわけです。アメリカ政府は沖縄が日本に復帰して、日本国の憲法が適用されると、沖縄県民の権利意識がますます強まって運用が厳しくなると。一番重要な基地は嘉手納以南に集中しているわけです。人口が一番多いところに集中しているもんだからね、それを一まとめにしてどこかに移そうと計画を立ててね、アメリカのゼネコンまで入れて西表島から北部の方まで全部調査したんです。その結果、大浦湾が一番いい、辺野古が一番いいと決定したわけです。何故かというと那覇軍港は水深が浅くて航空母艦を入れられないわけですよ。ところが辺野古のある大浦湾は水深が30メートルあるんです。航空母艦を横ずけできるということもあり、普天間の滑走路だけではなく、海軍の巨大な桟橋をつくって航空母艦や強襲揚陸艦を入れようと。さらに反対側には陸軍の巨大な弾薬庫を作ろうと、核兵器を収容できる弾薬庫をつくろうと計画を立てたわけです。2008年に明らかになった話ですが、アメリカ政府は日本政府と密約を結んで、沖縄が日本に復帰して憲法を適用されてもねいつでも基地の自由使用は認めると、いつでも核兵器を持ち込めると密約を結んで安心しておったわけです。ところが、一方で当時アメリカはベトナム戦争で軍事費を使ってしまって金がないわけです。当時は建設費も移設費用も全て米軍の自己負担です。結局金がないから、自己負担できないもんだからこの計画は放置されてきたわけです。しかし、今、これが半世紀ぶりに息を吹き返してね、現在は、移設費も、建設費も、維持費も思いやり予算も、みんな日本の税金でもつわけですよ。こんないいことはないわけさ米軍としてはね。こんなありがたい話はないわけです。過去の、半世紀前に計画したものがね日本の税金で全部できるということになったらね。だから辺野古辺野古といっている。

普天間の副司令官にトーマス・キングというのがいてね。NHKのインタビューに答えてね、辺野古に作る基地は普天間の代わりの基地をつくるんじゃなくて、軍事力を20%強化した基地をつくるといっている。強化の中身は何かというとね、今の普天間飛行場はですね米軍のヘリ部隊がアフガン戦争やイラク戦争などで出撃するときに爆弾積めないで、嘉手納へ行って積んできたわけです。非常に不便だから辺野古に移したら陸からも海からも自由に爆弾を積める施設をつくるといっているんですね。それからMV22オスプレイを24機配備する。実際には36機配備する計画になっているんですけどね、そうすると現在の普天間飛行場の年間の維持費は280万ドルだけれども、辺野古に移ったらこれが一気に2億ドルに跳ね上がる。これは日本の税金でもってもらおうと言っているわけですよ。こういう中身を僕らは知っているもんだからね、本土の皆さんがこういう中身を知っていたらね、辺野古の基地を作ったらね耐用年数200年で1兆5千億円という関西新空港並みの基地になると言っているのにね。自分たちの頭の上にどれだけの財政負担がおっかぶさってくるかも知らないもんだから賛成と言っているわけですよ。

Q 本土の皆さんには何を訴えたいですか?

辺野古に基地を移すという問題をね、ただ移すという問題だけではなくて、どういう基地をつくるのかという問題をね真剣に議論していただきたい。そして自分たちの財政負担がね、どれだけになるかということを考えるべきだと。1兆5千億円かかると言われている負担がね「おもいやり予算」などでどれだけついていくのかということについて、もっと真剣に考えないととんでもないことになりかねないと心配しているわけですよ。そんな財政のゆとりがあるとしたらね、福島県の復興を1日でも進めるべきだって言っているわけです。我々は。

沖縄は本土復帰するまで憲法が適用されていなかったわけですよ。憲法を適用されないということがどういうことかといいますとね。憲法には人間の基本的な権利とかねそれが全部うたわれているわけですよ。ですから人間が人間らしく生きていけないということなんで、沖縄は絶えずモノ扱いされて、日本本土の国益の名において、日本本土の利益を達成するための手段にね、モノ扱いされてきて、政治的取引の具にされてきたわけですね。ですから怒りが満ち満ちているわけです

大田元知事へのインタビューを終え、翌日、私は普天間基地を利用するアメリカ海兵隊の将校にインタビューするため、宜野湾市や沖縄市にまたがるキャンプ・フォスターを訪ねた。取材に応じてくれたルーク・クーパー中尉に「辺野古は唯一の選択肢だという日本政府の方針は本当か?」と尋ねた。かつて森本敏元防衛大臣が「軍事的には沖縄でなくても良いが、政治的に考えると沖縄が最適な地域だ」と語っており、つまり本土では受け入れの理解が得られないから沖縄にあるという趣旨の話をして話題になったことがある。クーパー中尉はまず辺野古移設に関しては「日本政府が選択して決めたことです。私たちにとって大切なのは任務が適切に遂行できる場所であるということ。それが担保されればどこへでもいきます」と語った。その上で「海兵隊は空陸任務部隊というのが基本になっており、航空部隊と地上部隊と、兵站部隊、その3つが一緒に活動しているのが海兵隊ですのでそれらは近くにいなくてはならないというのはあります。海兵隊の中心的部隊というのは航空部隊が岩国や普天間にありまして、韓国、ハワイにも分散されて航空部隊が配備されていますが、それぞれの地域から必要な任務を遂行できるようになっています。先日のネパールの際での大地震の際にはフィリピンで訓練をしていた部隊が急遽ネパールの支援にむかいました。海兵隊というのはその時の状況に応じて臨機応変にその場その場で迅速に対応するという部隊です。それに必要な条件というのが、空陸任務部隊というのが海兵隊の特徴ですので空と陸と兵站部隊が常に緊密に活動するというのが条件になっています」と説明。辺野古移設は日米両政府の合意事項であり、日本政府の選択だと海兵隊は強調する。

私は今後も取材を継続することで沖縄との関わりを続けたい。日米安保反対、ベトナム戦争反対といった反戦・反米運動の作用から米軍基地の多くが本土から沖縄に移されていった。自分の庭からやっかいな問題が取り除かれればそれで良かったのか。私たちには考え続ける責任があるはずだ。

ジャーナリスト

NPO法人8bitNews代表理事/株式会社GARDEN代表。2001年NHK入局。「ニュースウォッチ9」リポーター、「Bizスポ」キャスター。2012年、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校で客員研究員。2013年、NHKを退局しNPO法人「8bitNews」代表に。2016年(株)GARDEN設立。現在、TOKYO MX「堀潤モーニングFLAG」キャスター、Amazon Music「JAM THE WORLD」、ABEMA「AbemaPrime」コメンテーター。2019年4月より早稲田大学グローバル科学知融合研究所招聘研究員。2020年3月映画「わたしは分断を許さない」公開。

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