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樋口尚文の千夜千本 第181夜『アレックス STRAIGHT CUT』(ギャスパー・ノエ監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
※写真クレジットは文末に注記。

謎めいた作家的「暴挙」に笑いを禁じ得ない

2003年度の某映画雑誌のベスト・テンで私は『アレックス』を第一位に選んだのだが、その直後にネットで「この評論家はやり過ぎな映画を好むらしい」というようなことを書かれて苦笑したのを覚えている。確かに当時、『アレックス』を推す(まして一位に選ぶ)というのはちょっと勇気が要ることだったかもしれない。しかし、私がそういった言われようを予想さえしつつも、思わず『アレックス』を首位に選んだのは、確かに起こっている出来事の表向きは「やり過ぎ」以外の何ものでもないこの作品に、きわめて繊細な監督のまなざしの通貫を感じたからだ。

『エンター・ザ・ボイド』のうららかな親子のドライブが一瞬にして最悪の惨劇に転ずるように、『アレックス』でも華やかなパーティに興じていたヒロインがほんの数分後には目をおおいたくなる凄惨な蹂躙に見まわれる。先だってギャスパー・ノエ監督にインタビューした時に「日本には一寸先は闇という言葉がある」という話をしたらたいへん関心を示していたが、ノエ監督が好んでそういう状況を描くのは、何やら自分が不意に巻き込まれた交通事故や重病などのトラウマゆえのことらしい。そして、ノエ監督によるかかる陰惨で衝撃的な不意打ちの表現にあっては、そのグロテスクな細部を追い越す小児病的な怯えや不安のほうが際立っていて、そこに妙に胸をかきむしられるのだった。

そして、ノエ作品の身上とするこうした展開に、『アレックス』の時間遡行というアイディアが加わった時、こういった特有の怯えや不安の感情に、さらにとめどない情感が加わった。トーマ・バンガルテルのサウンドトラックが地べたを這いまわるような煩悩や愚昧を煽情的に表現した後で、キャメラが宙に浮上してベートーヴェンの交響曲第七番の静寂と哀切に転ずる時、ノエ監督流の「もののあわれ」が噴出する。この小児病的というよりやや神経症的な怯えや哀しみの感覚は、時間遡行という技巧によってある奇異なる詩情の高みに達した。

ところが、ノエ監督が2019年の第76回ヴェネツィア国際映画祭で、この『アレックス』をノーマルな時間軸で再編集した『アレックス STRAIGHT CUT』をお披露目したと聞いて、とまどうというよりは笑いを禁じ得なかった。あの地べたの悲愴な感情や怒りは時間遡行という工夫によって聖なる詠嘆にまで到達していたのに、それをわざわざ丸腰の時間軸に置換したら、もう作家的たくらみのダウンコンバート以外の何ものでもないではないか。そんなことはちょっと頭で考えればわかるだろうし、たとえばオリジナル版のDVDの一部にはなんと特典として通常の時間軸で再生するギミックも付いていたので、私はラフなかたちではあるがそのヴァージョンが実際にどんなものになるのかも概ね視認していた。

それはもちろん映画学校の編集のレッスンとして観るならばひじょうに興味深いものではあったが、受ける印象は想像どおりオリジナル版とは大きく隔たるもので、まさかノエ監督が自らこのヴァージョンを正式に作るなどとは思いも寄らなかった。しかしこの「まさか」をやってしまうところがまたギャスパー・ノエならではの発想で、普通の監督ならまず絶対にやらないはずの、これはひとつの「暴挙」である。さすがにこの意図は奈辺にありやとノエ監督本人にその理由を尋ねると、監督本人も通常時間軸に変更するのはDVDの特典映像の発想であって、もともとはまるでやる気もなかったが、編集室でほんの試しにつないでみたらこれはこれで意義のあるヴァージョンが出来たと思い至ったらしい。

『アレックス STRAIGHT CUT』は、反クロノジカル的なオリジナル版とは逆に、静謐な冒頭に始まって、以後は最後まで喧騒と衝動と怒りが唸りをあげて続いている感じである。人物はいずれも愚かな選択に走り、カタストロフに向けて進行は単線的だが、それでも全篇をワンカットで観ているような自在なカメラワークやシークエンスを結ぶ「行間」の編集の繊細さは際立っている。なんでもこれは来るべき『エンター・ザ・ボイド』で採用しようと思っていたカメラワークをテスト的に試してみた、ということだったようだ。しかしその成果はてきめんで、陰惨きわまりない展開を意外と直截でない夢魔的な印象で見せきることには成功している。

したがって、われわれがもしも『アレックス STRAIGHT CUT』を先に観ていたとしたら、物語は救いもなく露悪の極みなれど、それをあくまで独自のイメージとして織り上げてゆくノエ監督の手腕には(それまでの作品同様の)一定の評価を贈っていたかもしれない。しかし大胆な創意を加えたオリジナル版を観てしまっている者であれば、あの諸行無常を詠嘆する余韻がばっさりと消え、怒りと絶望ばかりが充満する今作については大いに意見が分かれることだろう。そしてそんなことはわかりきっていることなのに、あえて今作の試みに手をつけたノエ監督の作家的な姿勢は謎めいており、ご本人にそれを訪ねても案外気にしていない感じが実に面白かった。

ノエ監督は『アレックス』をはじめ諸作で、観ていていらいらするほど衝動的なアクションをやらかしてしまう人物たちを奇妙な愛情とともに見つめてきたが、私も『アレックス STRAIGHT CUT』でつい「暴挙」に走ったノエ監督のことを「ああ、やらかしてしまったな」と苦笑まじりに不思議な応援の気持ちで眺めてしまうのであった。こういうわけのわからないことをやってしまうことを、どこかでギャスパー・ノエに期待しているのかもしれない。

※写真クレジット= 2020 / STUDIOCANAL - Les Cinémas de la Zone - 120 Films. All rights reserved.

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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