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なぜ間違った医療情報を信じてしまうのか エビデンスよりも「物語」を好む心理

原田隆之筑波大学教授
(提供:towatowa/イメージマート)

矛盾する2つの意見

 新型コロナウイルス感染症に対しては、専門家からさまざまな情報がもたらされ、その情報の洪水のなかで「何を信じてよいのか」と溺れそうになっている人が多い。特に、別々の専門家から矛盾する情報が発せられたとき、あなたはどちらを選ぶだろうか。

 下の2つの例を見ていただきたい。

医師A

 私はコロナ患者をこれまで500人以上も診ています。毎日24時間体制でコロナ患者に対応しており、疲弊しきっていますが、それでもそれが私の使命だと思って全力を尽くしています。そのため、これまで1人の死亡者も出したことがなく、誰よりも適切に治療に当たっているという自信があります。その私が断言します。○○をすれば、すべて解決します。

医師B

 私は医師ですが、研究部門におりますので、直接コロナ患者を診ていません。しかし、現場の医師とたえず情報交換を行っています。毎日コロナに関する世界中の論文を読んでおり、もう500本以上は読んだかと思います。そうした知見を元に申し上げますが、○○をすることを支持するエビデンスは今のところありません。

 さて、あなたは医師Aの意見と医師Bの意見、どちらを信じるだろうか。

 この例は、若干デフォルメした架空の話であるが、実際にこれによく似たさまざまな主張がワイドショーなどで流されている。そして、SNSなどでは、それぞれの立場を支持する人々が意見を戦わせている。

 現場を熟知し、熱意と愛情をもって○○を支持するという意見を表明している医師A。一方、現場を直接は知らないが、現場の状況を把握しつつ、論文によるデータを熟知し、冷静で客観的な見地から、○○を現時点では支持しないという医師B。

 大まかに言うと、医師Aの意見は、専門家の個人的経験に基づく意見である。そして、医師Bの意見は、論文などのデータ、すなわち科学的エビデンスに基づく意見である。

 コロナ禍において、「エビデンス」という言葉が一般の人の間でも頻繁に用いられるようになった。これは望ましいことであるが、その一方で「エビデンス」という言葉が必ずしも正しく理解され、正しく用いられてはいないような場面に遭遇する。

エビデンスに基づく医療

エビデンスに基づく医療(Evidence-Based Medicine: EBM)と言う用語は、1991年にカナダの疫学者ゴードン・ガイヤットがその論文のなかで使ったのが最初だと言われている。その後、その概念はさらに洗練されていったが、簡単にまとめると次のようになる。

  1.  医療上の意思決定は、個人的経験、直観、印象、慣習、権威などによって行うのではなく、科学的に導かれたエビデンスに基づき、患者の背景を考慮しながら適用すること
  2.  その際のエビデンスはできるだけハードルの高いものとすること

 まず1つ目であるが、それまで医療上の意思決定は、ともすれば経験、直観など、必ずしも厳密なデータに基づくとはいえないものに頼って行われることが往々にしてあった。

 医療上の意思決定というのは、どの薬を処方するか、どのような処置を行うかなど、実にさまざまなものがある。冒頭の架空例で挙げた「〇〇をする」ということも、まさに医療上の意思決定である。

 しかし、データであれば何でもエビデンスと呼べるわけではない。これが2つ目の主張である。そこで重要になってくるのが「エビデンスのヒエラルキー」、最近では「エビデンス・ピラミッド」と呼ばれるものである(図-1)。

図‐1 エビデンス・ピラミッド(著者作成)
図‐1 エビデンス・ピラミッド(著者作成)

 ピラミッドの下から上に行くにしたがって、エビデンスの質が高くなるのであるが、「専門家の意見」というのは、個人的体験にのみ基づいた意見であり、それがいくら専門家から出されたとしても、「ただの意見」にすぎない。これはエビデンスとは呼ばない。

 エビデンスと呼べるのは、ピラミッドの頂点にある「RCTのメタアナリシス」であり、少し譲歩してもその下「個別のRCT」までである(ケースによっては大規模観察研究のメタアナリシスなどを含むこともある)。

 ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial: RCT)とは、新薬の治験で用いられる研究法であるが、研究参加者をランダムに2群に分け、一方に新薬を投与し、他方にはプラセボ(偽薬)などを投与して、その効果を比較するというものである。

 ただ、たった1つのRCTによって効果を見きわめることは危険なので、さまざまな時と場所で実施された複数の質の高いRCTのデータを統計的に統合したものが、RCTのメタアナリシスである。これが現時点で、最も質の高いエビデンスを提供するものとされている。

医師Aと医師Bのどちらを信じるか

 先の例に戻ると、医師Aの意見は、まさに医師の個人的体験を元にしたものであって、それはいくらたくさんの患者を診ていようが、いくら熱心な医師であろうが、「ただの意見」である。つまり、「それってあなたの感想ですよね」というレベルに過ぎない。

 個人的体験にはさまざまなバイアスの脅威に晒されており、本人の思い込み、期待、印象などが混じっている危険性が高い。また、患者の側が偏っている可能性もある。たとえば、軽症の患者ばかりを診ている可能性がある。

 500人もの患者を診ているというのは、たしかに尊敬に値することであり、それには敬意を払うべきである。しかし、世の中には日本だけでも現時点で累積130万人ものコロナ感染者がいる。それからすると500人といってもごく一部に過ぎず、それを過大視してすべてが分かったように言うのは、明らかに言い過ぎである。

 つまり、目を閉じて巨象の尻尾のところだけを触って「この動物はヘビだ」と言っているようなものかもしれないのだ(図‐2)。

図‐2 目を閉じて巨象を触る
図‐2 目を閉じて巨象を触る

 それに対し、医師Bの意見は、たしかに直接患者は診ていないかもしれないが、世界中から集められた偏りのないデータに基づいているのであり、そこにはメタアナリシスのような質の高いエビデンスが含まれているだろう。それは、個人では間違いやすい人間が、間違いの元であるさまざまなバイアスをできるだけ排除した知の集積であり、現時点ではそれに頼るのが最も間違いのリスクが小さいのだ。

 ここで人々がよく惑わされるのは、医師Aの人柄や彼の語る「物語」である。医師Aは熱意があり、親しみやすく、彼が語る「物語」は信頼できると思い込みやすい。また、「断言します」「すべて解決」といった断言調で言われると、われわれは安心して頼りたくなる。

 一方、医師Bは「データ」だの「エビデンス」だの、患者をちっとも診ていないし、現場を見ていないのに、頭でっかちで冷たいなどと評されることが往々にして起きる。それに、「今のところ」「現時点では」などと、何かすっきりしない言い回しが敬遠される。

 しかし、熱意があって親しみやすい人が言うことはいつも正しいのか、間違いがないのかというとそれはまったく別物である。怪しげな壺を売ったり、投資話を持ち掛けたりする人は、たいてい皆、熱意があって親しみやすいものだ。

 つまり、われわれが医療情報のような複雑で答えがなかなかわからない問題に直面したときに取るべき大切な姿勢は、いくら人間味や真実味にあふれていたとしても、個人の体験を元に語られる「物語」に安易に流されてはいけないということだ。

エビデンスと人間の心理

 しかし、残念ながら情報を受け取る側の人間の心理は、そのようにはできていない。人間には往々にして「物語」を好む側面がある。むしろ、人間は本質的に、データやエビデンスよりも、「物語」のほうが好きなのだ

 ノーベル賞受賞者の研究内容よりも、その人柄や苦労話のような「物語」がニュースを賑わせるのを見るとよくわかる。

 コロナに関しても、日々発表される感染者や死亡者の数よりも、新生児が生まれてすぐ亡くなった、有名人が死亡したという「物語」に心を揺り動かされる。

 心理学者であり行動経済学の始祖の1人であるダニエル・カーネマンはこう述べている。

 あなたはどうしても、手持ちの限られた情報を過大評価し、ほかに知っておくべきことはないと考えてしまう。そして手元の情報だけで考えうる最善のストーリーを組み立て、それが心地よい筋書きであれば、すっかり信じ込む。逆説的に聞こえるが、知っていることが少なく、パズルにはめ込むとピースが少ないときほど、つじつまの合ったストーリーをこしらえやすい。

 同じく行動経済学者のダン・エリアリーはこう述べている。

 わたしたちは生まれながらに物語る動物であり、自分が納得し、信じられる程度にもっともらしい説明を考えつくまで、次から次へと物語を生み出す。

 つまり、人間が納得するには物語が必要であるということだ。

 これは人間として当然の性質なのであるが、医療上の意思決定のような重要な判断において、その根拠としてエビデンスよりも「物語」を重視してよいはずがない。それは、重大な誤りを含む可能性のある数少ないピースで作られた頼りないパズルを武器にして、コロナと闘うようなものだからだ。

 一方、バイアスを慎重に排除して組み立てられたエビデンスは、完璧ではないにしても、今のところ一番頼りがいがあり、間違いを犯す可能性の小さい武器なのである。

 われわれは「人間はどんな専門家でも間違うものである」という謙虚な前提に立って、より間違いの可能性を減らすために冷静に科学的エビデンスに頼ることが求められる。それがコロナ禍を生き抜くためには絶対に必要な態度である。

エビデンスを活用するために

 最後にエビデンスを活用するうえで重要なことを4点述べたい。

 第1に、エビデンスによって導かれた結論が、自分の期待とは違うものであったとしても、エビデンスで導かれた事実を期待や感情で排除してはいけない。期待や好き嫌いの感情と科学的事実は往々にして異なることがある。

 たとえば、ある薬の効果に期待していたが、研究によるエビデンスがそれを否定することがある。このように、思っていたのとは違う結果が出たとしても、謙虚にそれを受け入れることが大切な姿勢である。これが科学的態度というものだ。

 第2に、医師Aの意見は「善意」から出たものであると思う。しかし、いくら良かれと思っての主張であっても、バイアスのある意見は間違っている可能性が大きいし、効果がないどころか「害」があるかもしれない。

 特に、コロナ対策のような何万人もの命に関わるような問題に対して、個人的な体験などあやふやなものを根拠にして意思決定を下すことは絶対に許されないし、それがいくら善意に基づいていても、結局は「非倫理的」である

 一方、科学的な意見は、可能な限り間違いを回避し、真に効果のある方法を選択して害を回避するように導いてくれる。この意味で、こちらのほうがより倫理的なのである。

 第3に、科学的意見も絶対ではない。科学も間違いを犯すが、それゆえに「断定」をせずに、「可能性が大きい」などという曖昧な表現になってしまう。しかし、われわれができる最善の対処は、できる限り系統的にバイアスを排除し、間違いを犯すリスクを小さくするということなのである。この限界を知ることも大切だ。

 第4に、医療関係者は重要な医療情報を提供するときには、受け手側の心理を考慮していただきたい

 人間はエビデンスよりも「物語」を好むという心理を逆手に取って、伝え方を工夫をすればより相手に伝わりやすくなる。手間はかかるが、エビデンスの心理的ロジスティックスというものを考えることが大切であろう。

筑波大学教授

筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春新書)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

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