家族を疑わない『パラサイト――半地下の家族』が、逆説的に示唆する格差社会の厳しさと家族という宿痾

ポン・ジュノ監督(右)と主演のソン・ガンホ(2019年12月26日、東京都内で)(写真:Keizo Mori/アフロ)

 カンヌ映画祭のパルムドールを皮切りに世界各国で様々な賞に輝き、米アカデミー賞でも6部門でノミネートされる快挙を成し遂げ、現在、日本で絶賛上映中の『パラサイト――半地下の家族』。タイトルに「半地下の家族」とあるように、これは「家族」の物語でもある。あまり語られていないように見える、その家族のあり方について考えてみたい。

■家族同士が「パラサイト」しないと生きられない社会

 いずれもアジアの映画が獲得した前回のパルムドールと今回のパルムドール。『パラサイト――半地下の家族』(ポン・ジュノ監督)と『万引き家族』(是枝裕和監督)は似ていると言われがちだ。しかし、前者は「格差社会>家族」、後者は「家族>格差社会」で、主眼はまったく異なっている。逆に言うと『パラサイト』において、血縁家族(という制度)への疑念は一切ない。血縁家族のつながりは、むしろポジティブに描かれる。

 2006年に公開された『グエムル――漢江の怪物』も、家族がそれぞれの特技を生かしながら団結して大きな構造(の化身)とたたかうという意味では同じような構図だ。ただし『グエムル』は、冴えない一家が突然現れたわかりやすい敵とたたかうためにみんなで助け合い、そのなかで成長していく様子がフラットな関係のもとにあるように見えたためか、そこに表れた家族観が気になることはなかった。だが、『パラサイト』の主人公一家の関係性は、それとは異なるように思う。

 格差社会を主題にした場合、家族は、格差社会という構造のなかでサバイブするための貴重な資源だから疑っている場合ではないということなのか。厳しい格差社会のなかで、下層の家族は助け合わないと生き抜いていけないというのは事実だろう。生き抜くために家族が助け合う――。こう書くと一見美しいが、つまりそこで描かれていたのは、よその家族にパラサイトする話であるにもかかわらず、実は家族内で家族同士が「パラサイト」しないと生きられない社会だ。

■処方箋になりえない「ファンタジー」としての血縁家族

 家族内の誰か(しかもこの場合は子。おそらく多くの場合は子だろう)がチャンスをつかんだら、それを家族(この場合は親。おそらく多くの場合は親)にシェアしていくことで一家が(一時的にでも)救われる。一見ポジティブに見えるが、子の立場に立ってみたらどうだろうか。生活に困窮していると親離れも子離れもできない構図。本作の家族は子どもだけを一方的に搾取しているわけではないが、運命共同体にならざるをえない構図。

 もしかするとこのような構図を示そうとしていたのかもしれないとも考えたが、私の見落としでなければ家族内での、家族間の、葛藤は描かれていない。やはりその構図への疑問や懸念は示されていないとみなすのが妥当だろう。実際、韓国では血縁家族に頼る傾向が日本より強く、映画やドラマで、子にたかる親が子から見てネガティブな存在として描かれることも少なくない。だが『パラサイト』にそのような血縁家族という制度への疑念は一切ない。そして父は単なるグータラではなく、子(とくに息子)にとっての理や知や仁の源として、リスペクトされるべき存在として描かれているように見える(まさに家父長制!)。

 要は、家族の話で「も」あるのに、そこがツルッとしすぎているというのが、筆者がもうひとつ入り込めなかった理由であるように思う。社会経済的に困難な状況は、一般的に家族の関係も複雑化させ、とくに子どもを困難に陥れる。社会経済的に困難な状況にあるが家族は仲よしという表象は、筆者にとってはどうしてもファンタジー、欺瞞に見えてしまう。いやポン・ジュノは、「救い」として家族のファンタジーを描いたのかもしれない。それは格差社会の厳しさを逆説的に示唆するものではあるが、だが一方で、韓国でも日本でも(そして世界中のどこであっても)、血縁家族への回帰が処方箋になることはないだろう。

【追記】本作が米アカデミー賞6部門でノミネートされたことにスポットが当たっていますが、韓国映画としては、短編ドキュメンタリー部門でも2014年の「セウォル号事件」を扱った『In the Absence』がノミネートされています(リンク先で全編見ることができます)。