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「人権」という言葉の危うき乱用―”170cmない男に人権ない”暴言の本質

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
身長のイメージ(提供:イメージマート)

 人気プロゲーマーのたぬかな選手が、大学生風のUber Eats配達員から連絡先を聞かれたことに関して、該男性の身長目算が165cm程度であったことから、

「165はちっちゃいね。ダメですね。170ないと、正直人権ないんで。170センチない方は『俺って人権ないんだ』って思いながら、生きていってください。骨延長の手術を検討してください。『骨延長手術』で調べてください。170あったら人権がちゃんと生まれてくるんで」

 と発言<既報>し、2月17日になってたぬかな選手の所属事務所「ブロードメディアeスポーツ」は、該選手との契約解除を発表した(既報)。

 これを受けて現在でも、ネット世論は「男性身長が170cm未満であるか否かは是か非か」的な反応が濃密だが、この”170cmない男”暴言の本質とは、男性身長が何センチあれば(或いは無ければ)どうのとか、一般的な若年男性の平均身長は何であるとか、そういう事ではない。

・「人権」という言葉の危うき乱用

 この選手が、「人権」という言葉をあまりにも簡単に乱用したことだ。相手に対して「お前には人権がない」ということが、どれほど相手の全人格を否定する、冷酷無比な意味合いを持つか、この選手が全く無知のまま人権という言葉を乱用したことだ。

 多分この選手はこう言いたかったのだろう。「165cmの男は私のタイプじゃない。身長が170cmに届かないと、男として格好が悪い―」。問題はたったそれだけの意味を表現するために、人権という言葉を乱用したことだ。

 人権は、選手のいうように「生まれてくる」ものではない。人権は、我々の祖先が、その悠久の歴史の中で、血と涙による絶え間ない闘争によって勝ち得てきた普遍的権利である。そして現在でも、その人権を勝ち取るための闘いが世界中で続いている。「骨延長手術をすれば人権が生まれてくる」という感覚自体が異常なのだ。

 人権という言葉は、そんなに簡単に、安易に、まるで慣用句のように、乱用してよいものではない。奴隷制・封建制の時代から、まだ人権という概念すら希薄だった時代から、私たち人類の祖先は、時として差別者に、時として支配者の傲慢で理不尽な暴力に抵抗してきた。そしてそれは、現在の価値観でいえば紛れもない人権獲得の闘争であった。その結果の一例がアメリカ独立宣言であり、フランス人権宣言であった。どれほどの血が流されたか。どれほどの涙が流されたのか。教科書の中にある「人権宣言」の四文字の裏には、数多の人々の壮絶な闘いがあった。そうして人類の近代は始まったのである。

 現代、人権は天賦のものであり、生まれながらにして等しく全人類に与えられるとする。だから人権は、「骨延長手術」をして発生するものではない。人権は我々の祖先が勝ち取った結果、人が人として生まれた瞬間に備わっている天然の権利として認められたのである。

・「人権」という言葉を悪口として使う感覚

 選手の今回の言は、いかに我が国で人権という言葉が軽く、その言葉の由来を全く考慮せず、まるでジョークのように使われているかを例証するものだ。人権という言葉はそれほど重いのだ。軽々しく相手に「人権がない」などというのは、暴言を通り越して無知・無学・粗暴の極みであり、祖先の営々たる闘争の努力を完全に踏みにじるものだ。

 今回の”170cmない男”暴言に対し、前述した選手の所属事務所は、公式声明で「…本件についてはマネジメントを行っている当社の監督不行き届きによるものであり(後略)」などと謝罪している。社会通念上、所属事務所の謝罪はやむを得ないと言えるが、本件の原因は本当に事務所の「監督不行き届き」に起因するものなのだろうか。人権意識とは、民間会社の監督によって涵養されるものなのだろうか。あるいは逆に民間会社の監督が不徹底なら人権意識が低下するのだろうか。

 両方間違っている。事務所の監督がどうであるかにかかわらず、人権意識の醸成は義務教育の段階で行われ、相当程度完成されていなければならない。なぜなら人権とはすでに示したように、人がこの世に生まれたその瞬間に備わっているものだからで、民間会社の管理によって上下したりするものではないからである。

 たぬかな選手は自身のツイッターで本件につき「…社会人としてあるまじき発言をした(後略)」などと謝罪している。これも妙な釈明ではないか。社会人であるか否か、その人の社会的地位が如何様であるか否か、年齢が如何様かであるかを問わず、人権は天賦のものとして備わっているからである。そもそも「人権意識は社会人としてのルール」であるといった奇妙な感覚を、未だこの段階ですら持っているからこそ、このような言葉が出てくるのではないか。

・「人権意識は社会人としてのルール」という詭弁

 人権意識は社会人としてのルールではない。正確にいえばルールとすら言い難い。社会に出ようと出まいと、全ての人が生まれながらに人権を持つ厳然とした事実があるのであって、社会人のルールではない。

 人権という言葉の背景にそういった重みを感じていないからこそ、人権意識はマナーやルールの一種である、みたいな「後感想的謝罪」が出てくる。人権はマナーやルールなどではなく絶対不滅の権利である。言うべき言葉は「人権」というあまりにも重い言葉を軽々しく乱用し、それが「無い」などと相手の天賦権利を否定したこと、そのものの普遍的なる罪についてではないか。「監督」云々とか「社会人」云々は関係がない。

 これは我が国の人権教育の後進性が故なのだろうか。自虐的に、或いは皮肉的な文脈で、自らを「私には人権なんてないんだよね」と表現するのならばわかる。が、「あなたには人権がない」などと他者に対して決して言ってはいけないという、基本的な、近代社会の根幹を支える人権教育がなされてこなかったからなのか。人権・人権という二文字だけを連呼し、その背景にある血と涙の歴史を、全く義務教育が放棄してきたに等しいのが由縁であるのだろうか。いずれの説をとるにせよ、人権という言葉が乱用され続け、人権という言葉がずいぶんと簡単に使われるようになった。

・進む言葉の軽量化―水平社の理想から今年で100年

 和服を着ているから貴方は保守ですね、とか、富士山が好きだから君は愛国(者)ですね、といった言葉の軽量化が進んでいるように、言葉には軽々しく使ってはいけない種類のものがある。その言葉の重みを知っていればいるほど、とりわけ他者に対してその言葉を使ってはいけないのである。それが現在、とりわけ若年層(もちろん中高年層もであるが)では人権という言葉だ。人権という言葉の希釈化が進んでいることこそ、今回の”170cmない男”暴言に於ける本質的問題である。

 なるほど、その原因が日本の義務教育にあるにせよ社会の風潮にあるにせよ、その背景には「血と涙という市民革命の結果、勝ち取った人権」という歴史的経験が、我々日本国家には希薄だから、われわれ一般の日本人にその意識が弱いのではないか、という構造があるという人がいる。

 確かに我が国は西欧近代諸国家と違って、本格的な市民革命を「ほぼ」経由しない形で近代国家が成されたとも言えるから、そういった説も理解できる。しかし、我が国の歴史であっても、「血と涙により人権獲得への闘いをした人々」は無数に存在することもまた事実である。

 その一例が被差別部落解放運動である。くしくも今年、すなわち2022年3月3日は、大正11年に、京都市岡崎公会堂にて、理不尽な人権侵害に苦しみ、人権を無きものとして扱われてきた無辜の人々が立ち上がって全国水平社を結成し、その地でかの有名な「水平社宣言」が高らかに謳われてから100年を迎える節目である。

 ちょうど100年前、岡崎を満杯にして宣された水平社宣言は、万雷の拍手のなか、こう読み上げられた。

…吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行為によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである。水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。(大正11年3月3日・全国水平社宣言)

 最後の「人間」は、一般的にこの場合、「にんげん」ではなく「じんかん」と読ませる。敢えて「ヒトとヒトの間」を連想させることによって、この水平社宣言が被差別部落解放という人権希求だけではなく、すべての人類の普遍的人権希求を目指すものであると解釈することができるように工夫されている。「お前には人権がない」という言葉は、水平社宣言の中にある「卑屈なる言葉」であり、「人の世の冷たさ」そのものではないか。

・やれ多様性、SDGsという割に

SDGsのイメージ
SDGsのイメージ提供:イメージマート

 水平社宣言から100年。確かに人権啓発は相対的には進んだ。憲法も変わった。法整備も行われつつある。しかし人権への無知と無学と無理解は、とりわけ本件がそうあるように、降ってわくように出てくる。人権という言葉が、人を、まるでおふざけの様に打擲する言葉として、あまりにも軽く使われるようになった。

 やれ多様性だ、やれSDGsだのと言っておきながら、ある種の人々は、人権という言葉の背後にある、あまりにも重い歴史を忘却し、「お前には人権がない」という台詞を、日用的悪口の一種として使うようになった。そしてその言葉を人間に投げかけることが、どれほど罪深い行為であるかをまるで忘れたようになった。我々は本当に進歩しているのか。私たちのある一種は、本当に人権という言葉の何たるかを理解してそれを使用しているか。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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