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岡村隆史さん降板署名活動にみる「ネット右翼的」感性(追記あり)

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
旧式ラジオ受信機(写真はイメージです)(写真:ロイター/アフロ)

 4月23日放送の『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で、岡村氏による「女性蔑視」発言が大きく取り上げられる中、この発言をめぐってネット上では、「女性軽視発言をした岡村隆史氏に対しNHK「チコちゃんに叱られる」の降板及び謝罪を求める署名活動」(Chang.org)なるものまで勃発した。

 私はネット右翼研究を10年以上に亘って行っているが、その主張の軸は違えど、こういったネット上での署名活動の跋扈に対し、きわめて強いネット右翼的感性を見出している。

「ネット右翼的感性」とは何か。それは1「批判の根拠が一次ソースに基づいていない」2「自分とは相いれない価値観を持つ個人や法人に対して、当該者が出演している他のメディアに対して圧力(電話突撃=電凸、署名)をかけるよう、ネット上でオルグする(組織活動や勧誘を展開する)」という二点である。

・批判するなら最低限度一次ソースに基づいて―「ものを書くという行為」

原稿のイメージ(フォトAC)
原稿のイメージ(フォトAC)

 私はくだんの4月23日の放送を生で聴いていた。元来赤坂の深夜ラジオを中学生時分より20年以上聴いている私だが、特にドライブ中には他局にチューニングすることもある。当該の岡村氏の発言はリスナーからのメールに応えるという形で番組の最後半で行われたものだが、「残念なことに」私は運転中にBGM的なものとして聴いていたため内容を精査していたわけではなく、またカーナビの音声案内などの雑音もあって、岡村氏の発言を聴き流していた。

 問題になったのは、放送終了後から数日たった4月26日(日曜日)朝になって、雑誌『FLASH』電子版が文章の形で岡村発言を取り上げたことを、NPO法人ほっとぷらす理事で貧困問題に携わる藤田孝典氏がこの『FLASH』報道を引用する形で岡村氏を批判する記事(*5/4当該記事について追記あり末尾)を書いたことである。この記事がSNS上で拡散されることにより、前掲した署名運動に発展したのである。

 藤田氏の記事は、私が指摘した「ネット右翼的感性」に合致する最たるものである。当該記事は、岡村氏の発言を直接ラジオで聴いて文字起こししたものでは無く、雑誌『FLASH』電子版からの引用に終始していた。つまり藤田氏は当該記事を読む限りにおいては、岡村氏のラジオを聴いて批判を展開したのではなく、後になってから報道された二次ソース(文字情報)のみに依拠していたと思わざるを得ないのである。

 私は文筆家として、また評論活動を行う身として、このような批判記事は全く論評としての体(てい)をなしていないと苦々しく思う。批判記事を書くのは自由であるし、そこから提示される社会問題とその解決へのプロセス極めて重要である。が、それは常に一次ソースを元にしたものでなければ精度を欠き、あまつさえその一次ソース(放送音源)はラジコ(Radiko)によって何時でも簡単に、誰でもが当たることのできる状況であった。

 にもかかわらず一次ソースに当たらないで雑誌の電子版記事を引用するという手法は、私の感覚で言えば「ものを書く」という最低限度の水準にも達していないのである。私は雑誌の編集長をやった経験があるが、こういった「一次ソースを簡単に手に入れることができるのにそれをしない」という構成の批判記事が仮にライターから上がってきた場合、「一次ソースに依拠して書いてください」といったん突き返さざるを得ないだろう。

 この藤田氏の記事は、前掲した1「批判の根拠が一次ソースに基づいていない」という典型的な「ネット右翼的感性」に遺憾ながら合致するものだ。ネット右翼が2002年の日韓ワールドカップを機に伸張を見せてから20年弱である。その間に行われた彼らのネット上での批判は、ほとんどが「批判の根拠が一次ソースに基づいていない」ものばかりだった。誰もが簡単にかつ即時に一次ソース(個人や政治家の発言や書籍原典)に当たれる時代であるにもかかわらず、彼らは一次ソースをまとめたに過ぎないネット記事を引用して、一斉に個人や法人へのバッシングを行うことを繰り返してきた。

 ある漫画を「反日的・自虐史観的」として、学校図書館から除去せよと運動しておきながら当該の漫画を全く読んでいない事例(はだしのゲン)、ある映画やその映画に登場する俳優をこれまた「反日的・左翼的」と批判しておきながら、当該の作品を全く鑑賞していない事例(利休にたずねよ、空母いぶき)など、こういった例は枚挙にいとまがない。

 ところが真摯に一次ソースに当たってみると、そういったまとめサイトや引用記事が如何にいい加減で、恣意性に満ちたものであるかはすぐに判明する。こうしたネット右翼発の「雑な」運動や批判は、「批判の根拠が一次ソースに基づいていない」という対抗言説の登場で逐次つぶされてきた。勿論、今回の岡村氏発言は、一次ソースに当たってみても生理的不快感を惹起せざるを得ない酷いものであった。だからこそ4月30日になって岡村氏は番組内での謝罪を行った。これは当然のことである。

 藤田氏の批判はその方向性としては全く正しいと思うし、私は「深夜ラジオのノリなのだからこの程度は許容しろ」という意見には全く同意できない。しかしながらその批判は常に一次ソースに当たったものでなければ精度を欠く。断わっておくが私は藤田氏の主張がおかしいと批判しているのではない。SNS上であっという間に「まとめ」や「引用」が拡散される社会の中にあって、専門家や一般ユーザーに関わらず、ものを発信するという行為・ものを書くという行為には最低限度の参照行為が必要だ、と言っているに過ぎない。

 誰かを批判する言説を二次ソースやまとめサイトに依拠して乗っかるのではなく、常に一次ソースに当たって、その妥当性を確認してから批判するのは、SNS全盛の時代、最も求められているリテラシーである。これを欠いた批判は、たとえその批判が方向性として正しくとも、すぐに対抗言説の猛砲火を受けることを覚悟するべきである。

・繰り返されてきたネット右翼による集団私刑/自警団的行為に類似

 さらに岡村氏の発言を受けて展開された(5/2日現在でも展開されている)、「女性軽視発言をした岡村隆史氏に対しNHK「チコちゃんに叱られる」の降板及び謝罪を求める署名活動」(前掲)は、私がこれまで、10年以上見てきたネット右翼による、2「自分とは相いれない価値観を持つ個人や法人に対して、当該者が出演している他のメディアに対して圧力(電話突撃=電凸)をかけるよう、ネット上でオルグする(組織活動や勧誘を展開する)」という点において全く同じ構造であり、そら寒い。

 ネット右翼は彼らが「反日的・左翼的」であり「不道徳である」とみなした個人や法人を、主に電凸やメール投書によって番組やスポンサーから降板させるよう、現在でも何かの話題があるたび、醜悪な圧力運動を展開している。ある時期(2012年頃)まで、こういったネット右翼による個人への番組降板圧力は取るに足らないもの、として黙殺されてきた。

 ところが2010年代中盤以降、ネット右翼から人気を集める保守系言論人が、この圧力の旗振り役となってSNS上で率先して呼びかけを苛烈にすると、実際に放送局やスポンサーに平時を超える批判が届くようになり、人員不足に窮するメディアの対応能力がパンクして、止む無くその圧力に妥協するという事象が起こった。

 私はこういったネット右翼の「自分とは相いれない価値観を持つ個人や法人に対して、当該者が出演している他のメディアに対して圧力」をかけるという彼らの行為を、言論の委縮につながると再三批判してきた。つまるところそれは、「自分の気に食わない人間は、有形無形の圧力を以て屈服させて良い」という、法的根拠を無視した集団私刑/自警団的行為で、私はこういった勢力を「道徳自警団」と名付けている。

・あまりにも激しい他罰感情は、正当性を歪ませる

 今回の岡村氏の発言は、何度一次ソースに当たってその音源を聴いても、生理的不快感を禁じえず、また岡村氏には、昭和恐慌下における女衒(ぜげん=売春あっせん業者)のような、醜悪な女性への人権軽視の価値観があるように思えてならない。発言者の謝罪は当然であるし、批判も当然である。

 ただしその批判は、一次ソースに当たったものでなければならず、また当該個人が他の放送局に出演している番組や企画から「ネットを使った外部の圧力」によって降板させようという署名活動までに進展するのは、はっきり言ってやりすぎであり、中世社会で行われた集団私刑の奨励に他ならない。この構造は、私が永年批判してきた「ネット右翼的感性」(前掲)そのものなのである。

 勿論、ネット右翼はその批判の根拠を、人種差別や人権軽視においている。今回は批判される側、つまり岡村氏に性差別や人権軽視の価値観があったのだから、それは「ネット右翼的感性」ではない―、と抗弁する向きもあるかもしれない。

 しかし私が言っているのは、批判の方向が「正しい」とか「正しくない」とかではなく、1「批判の根拠が一次ソースに基づいていない」、2「自分とは相いれない価値観を持つ個人や法人に対して、当該者が出演している他のメディアに対して圧力(電話突撃=電凸や署名)をかけるよう、ネット上でオルグする(組織活動や勧誘を展開する)」という構造そのものが、ネット右翼がここ20年弱行ってきた醜悪な行為と、あまりにも類似していると指摘しているだけだ。

 私はこれまで徹頭徹尾、ネット右翼と彼らに支持される保守系言論人の言動には批判的な姿勢を貫いてきた。であるがゆえに、彼らと思想的に真逆にある、進歩派や女権論者、その他リベラルと目される人々には、そういった低リテラシーで前近代的な私刑の発想は希薄だ、と勝手に期待していた感がある。しかし今回の問題で、こういった「雑さ」「急進的で直情的反応」は、政治思想や信念の別なく、人間が根源で有している他罰的なものであると思い知った。

「貧困と性」を笑いものにするという発想自体が私には希薄で、仮にそういった価値観を内心で持つのは自由だが、それをラジオで開陳するのは言語道断の事である。岡村氏の下品で人権意識に欠ける発言は全く擁護することはできない。しかしながらそれを批判する際、批判者の側にも最低限度のルールやコモンセンス(常識)が求められるのではないか。私たちは他者を批判する自由を当然持っているが、あまりにも他罰的な批判は、結局のところ「ネット右翼的感性」に収れんされ、その「雑さ」「急進さ」ゆえに、批判の方向性の正しさにも疑問符が付きかねない、という事態になりかねないのである。(了)

*追記(5/4,16:30)

5月4日になって、当該記事の部分には修正があり、「知人から発言があったことを教えてもらい、radikoで発言の該当箇所を聴き」と追記されている。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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