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安倍総理の「天ぷら」批判の背後にある前時代的観念

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

首都圏の大雪は山梨県に及び、雪害による孤立など、自衛隊が出動する深刻な事態に陥っている。そんな中、「安倍首相が都内の高級てんぷら料理店”楽亭”」で支援者と会食をしたという首相動静をめぐり、前衆議院議員らなどから批判が噴出した。

「阪神大震災」「えひめ丸」事件とは似て非なる批判

その批判の主たる物は、「この非常時に何をやっているのか」という、阪神大震災の時に当時の村山富市首相が「(震災を)テレビで知った」(1995年)、或いは米原潜グリーンビルと実習船えひめ丸号の衝突・沈没事故の際、やはり当時の森喜朗首相が「ゴルフに興じていた」(2001年)というものに対する批判と、同じような文脈で行われているように見える。しかし、実際には今回の「天ぷら」は「阪神大震災」「えひめ丸」のそれとは全く違う文脈の中に存在していることを注視しなければならない。

今回の「天ぷら」に対する批判の急先鋒であった、前衆議院議員・三宅雪子氏のツイッター上での発言を見ていくと、基本的には「この非常時に何をやっているのか」ではなく、「この非常時に贅沢をするとは何事か」という観念を下敷きにしているように私には思える。つまり、安倍首相が”楽亭”なる店ではなく、神田や新橋にある、1品105円~とかの大衆店だったら、氏はこのような批判をすることはなかったと思う。

「よりによって東京一高い(のでは)と言われる”楽亭”」(三宅・同)とわざわざ「金額の多寡」を前提にしていることで、この観念はより鮮明になる。つまり三宅氏は、「非常時に何をやっているのか」と言いたいのではなく、「非常時に高級店に行った」ことをことさら問題視しているのであり、ひとえにこういった「贅沢」への拒絶感が背景に色濃く存在するものである。これは金額の多寡を贅沢の基準として認知する、非常に前時代的な豊かさの概念を根底にした批判であるように私には思える。

前時代的な贅沢の観念

安倍総理(当時総裁)が3500円のカツカレーを食った!(2012年)という批判的文脈もこの三宅氏の文意と全く同様のものである。つまり3500円のカレーを贅沢品と思っているのであり、今回ならば”楽亭”でのランチが「贅沢行為」と映ったのであろう。試しに”楽亭”のメニューをグルメサイトなどで確認してみると、コースで1万円とか1万3千円とある。大衆店よりは格段に高級には違いないが、そもそも「高級店で食事をすること」がなにか贅沢の権化のように思っている、これらの批判の背景にある「貧しい前時代的観念」の可笑しさにこそ、私は違和感を通り越して失笑を感じてしまうのである。

高級車に乗り、広い家に住み、高い飯を食う、という「大きいことは良い事だ」的な、前時代の高度成長時代の文脈の中にあった「贅沢の観念」は、ポスト・モダンの現代にあっては相当色褪せている。誰しもが、高級車を買ったり、夜景の見える高級フレンチでの食事が人生の成功や幸せとは必ずしもイコールではない、という事を知っているはずだ。しかし、何故か依然として、政治家や公務員の「贅沢」には、この前時代的な「贅沢の観念」が適用され、批判の対象になるのである。

今回、「天ぷら」批判の急先鋒であった前述の議員は、そもそも当初民主党に籍を置いていて、その民主党が党のスローガンであった「コンクリートから人へ」という、こういった前時代的な贅沢や幸福の観念を転換しようという主張に全く同調していたにもかかわらず、何故か現在では、彼らの批判の対象であった旧来の自民党が主張したような「贅沢・豊かさの観念」を忠実にトレースしている、という同じ穴の狢に陥ってしまっているのは、なんという皮肉だろうか。

”贅沢”の基準を巻き戻してはいけない

ここで今一度確認したいのは、安倍首相の”楽亭”でのランチは、果たして批判されるべき贅沢行為なのか?という点である。私は全く違うと思う。本当の贅沢とは、1万円のランチを食べたり、アルマーニのスーツを着たり、カルティエの時計をひけらかす事ではない。そういうものが、幸福や人生の充実とあまり関係がないということを、日本人は過去20数年間かけて嫌というほど学んだのではないのだろうか。本当の贅沢とは、平日の昼間にバッティングセンターに行ったり、猫や犬と戯れたり、芸術家の作品をリアルタイムで触れること、とか、そういうことを言うのだろう。

だから安倍総理が山梨の豪雪を知り目に、TOHOシネマズのプレミアスクリーンでスコセッシの映画を見ていた、とかだったら、批判の対象としてはしかるべきであろう。しかし、四六時中、分単位のスケジュールのただ中にいる首相が、たかだか1万円のランチを喰らうことの中に、私は何らの贅沢性を感じないので、そこへの「贅沢を糾弾する文脈」での批判は全くの筋違いである。

金銭や物質の多寡が豊かさのバロメーターである、という開発途上国的な「豊かさの観念」はここ20数年で次第に転換されてきた。それは日本が成熟した国家・社会になっていったという経緯を踏まえて、当然の帰結だと思う。だからこそ、「1万円のランチを贅沢だと思って批判する行為」が私には大変奇異に映るし、今回「天ぷら」を批判する人々の少なくない部分は、寧ろそういった途上国モデルの幸せや豊かさを否定的に捉えてきた人々だったはずだ。だからこそ益々倒錯を感じる。そういった「貧しい観念の時代」に時計の針を巻き戻してはならない。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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