勝っても負けても、高額賞金を稼いでいてもいなくても、チャリティにいそしむ一流プロゴルファーの生きざま
上海で開催された今季最初の世界選手権シリーズ、HSBCチャンピオンズ(10月25日~28日)はサドンデス・プレーオフにもつれ込み、1ホール目でザンダー・シャウフェレがトニー・フィノウを下し、米ツアー通算3勝目を挙げた。
2位に3打差の単独首位で最終日を迎えたフィノウに追撃をかけ、プレーオフへ持ち込んで勝利したシャウフェレのアグレッシブなゴルフは見事だったが、ビッグな勝利に迫りながら最後の最後に敗れたフィノウが勝者シャウフェレを心から讃えたグッドルーザーぶりも素敵だった。
「勝てるチャンスはあった。本当の意味で、勝てるチャンスはあった。でも、僕がこの経験から学んだことは大きい。それを糧に、これからも前進していこうと思う。ザンダーのゴルフは素晴らしかった。彼の勝利に脱帽だ」
2015年に米ツアーにデビューしたフィノウは、2016年のプエルトリコ・オープンで初優勝を挙げたが、以後、優勝はない。
この世界選手権のタイトルは喉から手が出るほど欲しかったに違いない。この敗北は心底、悔しかったに違いない。何が悔しいって、ビッグな賞金が手に入れば、フィノウはその多くを彼が最も力を注いでいるチャリティ活動に回すことができるのだから――。
とはいえ、米ツアーと世界選手権の成長は目覚ましく、賞金額は年々上昇しているおかげで、シャウフェレが手にした優勝賞金は170万ドル(約1億9040万円)、フィノウは2位でも107万2000ドル(約1億2000万円)を獲得。
彼らがビッグになり、高額な賞金を稼げば稼ぐほど、貧困や暴力などで苦しんでいる子供たちや家族に救いの手がさしのべられる。それが、米ツアーと米ツアー選手たちの何よりの素晴らしさだ。
【米ツアーまで苦節8年】
フィノウは190センチ、90キロの立派な体格を誇る29歳の米ツアー選手。国籍は米国だが、両親はトンガとサモアの出身だ。フィノウは男6人、女2人の8人兄弟の上から3番目で、すぐ下の弟もプロゴルファー。他の兄弟もバレーボール選手やプロボクサーというアスリート一家だ。
フィノウは高校時代まではバスケットボールの選手だったが、その後にゴルフへ転向し、2007年にプロ転向。米ツアーを目指し、下部ツアーのウエブドットコムツアーに挑み始めたが、なかなか成績は上がらなかった。
やがて下部ツアーの出場権も失ったフィノウは、草の根のミニツアーを転戦する身になった。
それでも地元ユタ州で開催される下部ツアーのユタ選手権は、フィノウに何度も推薦出場のオファーをくれた。
そして、プロ7年目の2014年、そのユタ選手権で5位に食い込んだことが自信になったフィノウは、その2週間後の大会で初優勝。その年の下部ツアー賞金ランキングで8位になり、2015年からの米ツアー出場権をようやく手に入れた。
【手弁当でチャリティトーナメント】
プロ8年目にして、夢にまで見た米ツアーに辿り着いたフィノウが、すぐさま始めたのは「トニー・フィノウ財団」を創設し、経済的に困窮している子供たちや家族を救うこと、彼らに生きる喜びを見い出してもらう手助けをすることだった。
フィノウ自身、夢の米ツアーに到達するまで8年の歳月を要した最大の原因は経済的困窮だった。下部ツアーでもミニツアーでも、試合のエントリーフィーや転戦費用、用具やウエアの調達費用を稼ぐために、フィノウはアルバイトなどの副業に追われたという。
「練習したい、練習さえできればと何度思ったことか。僕のような苦労や遠回りを、才能ある若者たちに経験させたくはない」
自身の財団を設立したフィノウは、米ツアー選手として歩み出した2015年から、自身の名前を冠したチャリティトーナメントを創設した。
まだフィノウ自身が賞金もほとんど稼いでおらず、スポンサーもほとんどいないまま、ほぼ手弁当の状態から始めたこのトーナメントは、今では用具メーカーのピン(PING)がメインスポンサーとなり、今年9月で4回目を迎えた。
【勝っても負けても誰かを助ける】
2018年のフィノウは、前年は優勝こそなかったものの世界ランキングをアップさせて4月のマスターズに初出場。開幕前日のパー3コンテストでは、ホールインワンして大喜びしながら走った途端、左足首を捻って派手に転んだシーンが忘れられない。
棄権を余儀なくされそうな状況だったが、翌朝のMRI検査で「異常なしと言われてうれしかった」。それでも痛みが引いたわけではなく、激痛をこらえながらプレーして初日を2位で好発進したフィノウは初めてのマスターズで10位タイに食い込んだ。その後も全米オープン5位、全英オープン9位タイなど昨季はトップ10入りを11回も達成。
昨季終了後の9月には米国と欧州の対抗戦、ライダーカップにもキャプテン推薦で出場し、大健闘した。
そんなフィノウが今年起こした新たなアクションは、かつてお世話になった地元開催の下部ツアー大会、ユタ選手権を今度はフィノウ自身が「トニー・フィノウ・ユタ選手権」としてスポンサードするというユニークなものだった。
「故郷ユタには、たくさんの思い出がある。ユタ選手権にも数えきれないほどの思い出があり、恩がある。今、この僕が、これからプロゴルファーを目指す若者たちの教育や成長の手助けができることは、信じられないほどうれしい」
HSBCチャンピオンズでフィノウが優勝したら、その優勝賞金によって助かる子供や家族、助かるプロゴルファーの卵が「もっともっと増える」と私は一度は思った。だが、その考え方は「ちょっと違う」と、すぐに思い直した。
勝っても負けても、手にした賞金が多くても少なくても、助けを必要としている人々に彼は進んで手を差しのべる。彼は昔からそうやって来たし、これからもそうやって行く。
トニー・フィノウとは、そういう選手だ。そして、米ツアーや世界の舞台で一流と呼ばれる選手は、間違いなく、そういうチャリティ精神、ギビングバックのスピリッツに溢れている。