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アニメおたくがアーティストになるまで 〜スティーブ・ジョブズの成長物語 ピクサー篇(6)

榎本幹朗作家/音楽産業を専門とするコンサルタント
ジョン・ラセター監督とジョージ・ルーカス監督(写真: ロイター/アフロ)

 ジョブズは晩年、Appleの創造性の秘訣を「テクノロジーとアートの交差点」だと語っていた。彼はApple復帰時、その哲学を経営手法にまで発展させるが、「トイ・ストーリー」のジョン・ラセター監督との出会いこそジョブズのピクサー社を救った「テクノロジーとアートの交差点」だった───。

音楽産業のみならず人類の生活を変えた男、スティーブ・ジョブズ没後十周年を記念した集中連載第十六弾。

■アニメおたくがアーティストになるまで

 後に『トイ・ストーリー』を監督するジョン・ラセターは、ジョブズと年はほとんど変わらないが、ふたりはキャラクター設定でもしたかのように好対照だった。

 黒のタートルネックのジョブズは菜食主義者。厳しい顔立ちで、その言葉は寸鉄人を刺し、職場に恐れをもたらす。アロハシャツのラセターはチーズバーガーが大好物。いつも冗談ばかり言って職場のみんなに愛されていた。

 そんなラセターだがこの職場に来た当初、孤独を感じないではなかった。テクノロジー企業として始まったピクサーにあって、ラセターは唯ひとりのアーティストだったからだ。

 ラセターの半生こそ、科学者集団のピクサー社に魔法をかける最後の触媒だった。

 TVアニメの『鉄腕アトム』や、ディズニー映画が大好きだったラセターは高校時代、隠れオタクだった。TVアニメは家で観ればいい。が、子供ばかりの集うディズニー映画に行くのを見られては、高校で笑いものにされてしまう。だから母に車で映画館の前にぴったりつけてもらい、人目を避けて映画館に入っていた。当時、ビデオは家庭に存在しない。

 結局、美術教師だった母に「アニメも立派なアートよ」と励まされる中、彼はカルアーツのアニメ科に進学した。ウォルト・ディズニーが創設に大きな役割を果たした大学だ。ウォルトと仕事をした叩き上げのアニメーター陣が教鞭を振りまわしていた。

 厳しかったが充実した毎日だった。即戦力がモットーで、「まるで軍隊のようだった」と同級生で同僚だったティム・バートン監督は言う。だが学生だったラセターは、相反する気持ちのあいだで揺れ動いていたのだった。

 アニメなどしょせん子供のものではないかという気恥ずかしさ。いや、大人も感動させるアニメだってありえる、という矜持。そのあいだを、プロを目指す彼の心はゆきつもどりつしていたのだ。

 彼の迷いを啓いたのは、世界のセレブとなったジョージ・ルーカスと、まだ日本でも知名度の低かった宮﨑駿だった。

■『スター・ウォーズ』の起こした革新

『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカスが映画監督を目指したのは、夢を諦めざるをえなかったからだった。

 高校卒業の前日に彼は改造し倒したフィアットを、エピソードⅠのアナキン坊やのように駆ってレースに出場。エピソードⅥのスピーダー・バイクのように接触され木に激突。シートベルトが切れ、車外に放り出された。

 一命は取り留めたが、エピソードⅤのルークのように入院し、その大怪我でレーサーの道を捨てた。車の次に映画が好きだったので、南カルフォルニア大学の映画科に入ったが、そこで人生を変える作品群との出会いが待っていた。

『七人の侍』『用心棒』『椿三十郎』等々。日本の巨匠、黒澤明の映画だ。

 彼の心酔は、クロサワ映画の背後にある日本文化にさえ向かった。ルーカスは仏教に傾斜していった。その影響は『スター・ウォーズ』の、宇宙に満ちるフォースの設定にも顕れていることを認めている[1]。若きジョブズも大学を辞めた頃、永平寺の禅僧になろうとしていたことは以前書いた。

 大学在学中にルーカスの才能は開花した。全米学生映画祭では彼の作品3本がノミネート。同じく黒澤映画を敬愛するF・コッポラ監督に見出され、プロ・デビューを果たした。そしてルーカスは、『スター・ウォーズ』の初稿シナリオを書き上げる。

 スター・ウォーズは当初、黒澤の『隠し砦の三悪人』をSFに焼き直したものだった。彼はリメイク権を東宝に申請しようかとすら考えたという。推敲を重ねるうちに我々の知るストーリーとなったが、初期の片鱗は映画の至る所に残っている。

 ジェダイの名は時代劇の「時代」から取っている。その衣装は柔道着がモティーフで、ライトセーバーで侍の剣劇を再現した。日本の兜が好きで、ダース・ヴェイダーのマスクはあのデザインとなった。

 黒澤映画でおなじみの三船敏郎にベン・ケノービ役をオファーしたのは有名な話だ。三船が受けていればレイア姫も日本人にしたという。今思えば、三船に断られてよかったのだろう。おかげで黒澤の模倣からルーカスは脱皮できた。

『スター・ウォーズ』の公開された一九七七年は奇しくも、Appleコンピュータを上場に導いたヒット作Apple Ⅱが世に披露された年だった。

 その年、社会現象となったスター・ウォーズを見るために人々は何時間も映画館に並んだ。列の中には大学を中退したばかりの若きジョブズもいたし、大学生だったジョン・ラセターも混じっていたのである。

 ラセターはスター・ウォーズに衝撃を受けた。

 それまで宇宙戦争のようなSFものは、アニメと似た評価を受けていた。「子供騙し」というレッテルだ。だがルーカスは最先端のSFX、本格的なオーケストラ、そして壮大なストーリーを駆使して、大人から子供までを夢中にする「スペース・オペラ」を生み出していた。

 アニメの感動だって万人のものにできるのではないか。スター・ウォーズのように───。

 ラセターはそんな勇気をもらいつつ、大学を卒業していった。ルーカスと同じく、彼も学生オスカー賞を受賞。電気ランプが主人公の、そのアニメ短編のおかげで目標だったディズニーのアニメーターになることができたのである。

 憧れの職場には、絶望と希望とが待っていた。(続く)

■本稿は「音楽が未来を連れてくる」(DU BOOKS刊)の続編原稿をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。

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作家/音楽産業を専門とするコンサルタント

寄稿先はNewsPicks、Wired、文藝春秋、新潮、プレジデント。取材協力は朝日新聞、ブルームバーグ、ダイヤモンド。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビ等。1974年東京都生まれ。2017年まで京都精華大学非常勤講師。上智大学英文科中退。在学中から制作活動を続け2000年、音楽TV局のライブ配信部門に所属するディレクターに。草創期からストリーミングの専門家となる。2003年、チケット会社ぴあに移籍後独立。音楽配信・音楽ハード等の専門コンサルタントに。著書「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DU BOOKS)

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