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「復讐の刻が来た。ぶちのめしてやる」〜スティーブ・ジョブズの成長物語〜挫折篇(7)

榎本幹朗作家/音楽産業を専門とするコンサルタント
(写真:ロイター/アフロ)

Apple退社時、契約で個人向けのパソコンを作れなくなったジョブズは大学向けのワークステーションで再起をかける。だが伏兵のサン・マイクロシステムズ社が、後の音楽配信の雄スポティファイも勝ちパターンにしたフリーミアムモデルを大学向け市場に仕掛けてきたことで惨敗を喫することになる。

■ネクスト・キューブ。ジョブズの放埒な完璧主義がもたした失敗作

 高価なマグネシウムで覆われたその漆黒の立方体には、ジョブズの完璧主義が結晶していた。Appleを辞め、取締役や株主の軛を逃れると、ジョブズの完璧主義は放埒へ向かってしまっていた。

 デザインに資金を集中した。筐体にはSonyのトリニトロンテレビとウォークマンを手がけたハルトムット・エスリンガーに依頼。化粧箱もSonyに倣い、じっくり金をかけた。

 ロゴも徹底的に拘り、ロゴのデザイン料だけで十万ドル、現在価値で二六〇〇万円をかけた[1]。Sonyと同じくプレミアム価格を実現すれば、元手は取れると考えたのである。

 工場も奢った。日本出張時、盛田の案内でSonyの工場を見たとき、その清潔で整然として、オートメーションで生産されていく様に、彼は感動した。

 それは天啓にも似て、「工場の創造もまた作品づくりに等しい」と感じたのである。ネクストの工場は床、壁、天井、その全てが純白に広がり、機械はモノトーンで統一されていた。端々にデザイナーチェアがあり、博士号を持った工場員が歩いていた。それは一日に六百台をオートメーションで生産できる革新的な工場だった。

 オフィスに帰れば、百万ドル、現在価値で約二億五千万円をかけて設計された、空中庭園を思わせるガラスの螺旋階段が彼を迎えた。コンピュータを芸術の域に載せようとしていたジョブズは、芸術的な職場がなければ、芸術作品は生まれないと考えたのである。それは将来マンハッタンに現れる、ガラスの神殿のごときAppleストアにそっくりだった。

 社内を歩きまわり、誰のどんな仕事も隈なくチェックした。芸術において、神は細部に宿ると信じたからだ。開発期間は延びに延びた。全ての仕事がジョブズを通るので、彼自身がボトルネックになったのである。会社ができて物を売るまでに、三年の歳月と相応の開発費を費やすことになった。

 当時、彼の愛車は黒いポルシェ・コンバーチブルだった。Macが、自動車を民衆のものとしたフォードT型だとしたら、次はポルシェのようなコンピュータを創りたかった。

 そうやって金に糸目を付けず、全てに拘ってできあがったネクスト・キューブは実に、「コンピュータのポルシェ」といってよい価格となった。

 定価は七千五百ドル、高いと言われたMacの三倍だ。それに、光磁気ディスクのMOが標準搭載で、(またもや)ハードディスクはついていないという謎構成だった。外付HDDに加え、専用のプリンタなども買い合わせると計一万ドル、現在価値に引き直すと約二六〇万円にもなった。

「パーソナル・ワークステーションの時代到来」とジョブズは高らかに謳った。だが、学生や研究者が挙ってポルシェを買うことがあるだろうか。

 彼らが欲しかったのは、相当速いけれど頑張れば買える、喩えていえばRX−7やランサー・エヴォリューションといった日本のスポーツカーのようなワークステーションだった。そしてそうした製品を創る会社は、既にシリコンバレーに存在していたのである。

 サン・マイクロシステムズの共同創業者スコット・マクネリはジョブズと同い年である。彼は自動車メーカーを経営する父に憧れて育った。父のアタッシェケースを覗いて中身を読み漁るのが、少年時代の趣味で、せがんで工場に連れて行ってもらい、実際どんなふうに自動車を創るのか、製品工程を見て、実地にモノづくりの経営を学んだ。

 そんな彼の創業したサンは、初代Macの開発が進んでいた頃に誕生した。そしてジョブズがIBMやスカリーとの闘争に明け暮れていた時分には、すでに第三の市場を作り上げていた。たった四年余りでワークステーション市場を築いたのである。

 大工場経営の何たるかを見て育ち、コスト・ダウンを学び尽くしていたマクネリのマシンは、Macよりちょっと高い三千ドル台の価格で、パソコン勢には届かぬ処理速度を実現していた。

 加えてハーヴァード大学でマーケティングを学んだ彼は、ジョブズと違い、正しい顧客を選んでいた。軍や国際企業の研究施設をメインターゲットに据えたのだ。ジョブズが直感で選んだ大学の市場規模など、軍産複合体と比べれば高が知れていた。

 サンを率いるマクネリはその大学をさえ、上手く活用する術を見出していた。

 大学には「無料」同然で売ってしまえばいい。サンのワークステーションを使う学生はやがて卒業する。研究施設に就職すれば、大学時代に使い慣れたものを、組織の金で購入してくれるだろう。それで充分ペイする。

 近年、音楽業界がスポティファイで知ったフリーミアムモデルに似た戦略を、サン・マイクロシステムズはコンピュータ市場に仕掛けたのである。

 ジョブズの誇る「コンピュータのポルシェ」が大学で、フリー(無料)の魅力に勝つことは遂に無かった。発売から三年後。ネクスト社のシェアは、サンの支配するワークステーション市場のわずか一%に留まった。

「Appleでの失敗からあらゆることを学んだ」

 ネクスト時代、ジョブズはそう述べている。だがワークステーションの王者サンに比べ、あまりに的はずれなネクストの経営は、彼が何か大切なレッスンから逃げたことを示していた。

 振り返ればネクスト・キューブの発表前日、プレゼンテーションの準備を整いあげたジョブズは、祈る神父のように両手のひらを額の前に合わせて、剣呑なせりふを呟いていた。

「復讐の刻が来た。奴らをぶちのめしてやる」と。[2]

 奴らとは、Appleのスカリーたちだった。ネクスト社の市場に大学を選んだのは、ほとんど復讐のためという心理的側面が露呈した瞬間だった。彼を追い出したApple社の、最も得意にしていたのが教育市場だったのだ。

 ネクストのジョブズが対峙し、学び取るべき相手はマクネリ率いるサンであるべきだった。だがIBMやAppleのスカリーを敵視するあまり、伏兵のマクネリを見くびった。

 ものすごいワークステーションを創って、研究の世界に革命を起こす。その志は尊い。だがひとを許せぬせいで、そのヴィジョンと天稟を曇らせた。

 八〇年代、シリコンバレーでは世界に先駆けて、後のEMSに通じる、自前の工場を持たずに外注する経営が浸透しつつあった。「全てを完璧にするために、全てを所有し、全てをコントロールしたい」というジョブズの美学はすでに時代遅れとなりつつあったのだ。彼の「完璧な工場」は転じて、大出血の大元に変わった。

 一九九〇年の年の暮れ。

 たった四年でジョブズの財産は一億ドルから二千五百万ドルに減っていた。それすら、危うかった。彼の経営するネクスト社は五百七十人、ピクサー社は八十人。合わせるとひと月で五百万ドルの運転資金を必要としていた。

 その中、ネクスト社のワークステーションは月に二百台も売れなかった。彼が毎月、個人資金を会社に注ぎ、倒産を免れていた。放っておけば一年と経たず、財産を使い果たしてしまう。その間、スカリー率いるApple社の株価は四倍以上になっていた。

 Appleを去ったジョブズは自由だった。彼を制止する「無理解な」取締役会もなければ、いらだたしい予算の制限もなかった。持てる資産の赴くままに、完璧を求めてきた。

 この惨状はジョブズ自身の他、誰に責任を帰することも不可能だった。(続く

■本稿は「音楽が未来を連れてくる(DU BOOKS刊)」の続編原稿をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。

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[1] CPIで現在価値に直し、120円/ドル換算した。 http://www.measuringworth.com/uscompare/relativevalue.php

[2] Alan Deutschman "The Second Coming of Steve Jobs" (2001), Crown Business, Chap. 1, p.73

作家/音楽産業を専門とするコンサルタント

寄稿先はNewsPicks、Wired、文藝春秋、新潮、プレジデント。取材協力は朝日新聞、ブルームバーグ、ダイヤモンド。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビ等。1974年東京都生まれ。2017年まで京都精華大学非常勤講師。上智大学英文科中退。在学中から制作活動を続け2000年、音楽TV局のライブ配信部門に所属するディレクターに。草創期からストリーミングの専門家となる。2003年、チケット会社ぴあに移籍後独立。音楽配信・音楽ハード等の専門コンサルタントに。著書「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DU BOOKS)

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