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その天分を蝕んだ若きジョブズの欠点 〜スティーブ・ジョブズの成長物語〜挫折篇(2)

榎本幹朗作家/音楽産業を専門とするコンサルタント
(写真:Shutterstock/アフロ)

没後十周年を記念して、史上最強の経営者スティーブ・ジョブズの成長の秘密を探ってゆく本シリーズ。前回に引き続き、若き日に天才と呼ばれつつもダメ経営者の烙印を押された彼がいつ、どこで変わっていったのかを探ってゆく。その成長物語はやがてコンピュータ業界のみならず音楽業界、エンタメ産業ひいては人類の生活までも変えてゆくことになる。

■その天分を蝕んだ若きジョブズの欠点

 ゲームや音楽の世界にはディレクターという職がある。映画では監督という言葉に訳される。映画監督は必ずしも脚本を書かない。演技をしない。だが作品を生み出す、紛れも無いクリエイターである。

 エンジニアでもプログラマーでもない。「ただの目立ちたがり屋」と詰られてきたジョブズだったが、マッキントッシュの制作により偉大なるクリエィティヴ・ディレクターと認められた。そして彼の魂が希求したクリエイターの称号をようやく手に入れたのだった。

 マッキントッシュのデビュー成功で彼は、数百人の事業部を率いることになった。取締役会からも信用を得て、未経験の若造からも卒業できたからである。そして彼は思った。Macを創った小人数精鋭のヴェンチャー方式で、Appleを蝕みだした大企業病を駆逐してやる、と。

「Appleはこれからフォーチュン五〇〇(アメリカの代表的五〇〇社)のお手本になるチャンスを持っていると思う」

 若きジョブズは記者にそう語った。

「売上が何十億ドル(何千億円)の規模になると、会社は自動的にヴィジョンを失っていく。現場と経営陣に幾重もの中間管理職ができる。そうするとプロダクトへの愛と情熱が消えていく仕組みが出来上がるんだ」

 社交界の華形となったジョブズは当時、プレイボーイ誌の取材を受け、そう答えている。

「クリエティブなやつらがクリエイティヴなことを思いついても、いちいち五人の上司を説得しないと実現しなくなる。優秀な人間ほどバカバカしくなって辞めていき、平凡なサラリーマン集団になる訳だ」[1]

 言葉つきは傲慢だったが、後に史上最高の経営者となる片鱗が光っているように感じる。が、それを現実とするには、当時のジョブズは何かを欠いていた。

「君らは失敗した」

 事業部長に就任して初めて部下を招集した彼は、刺すような目線でそう言った。その先には、部門統合で改めて部下となった大所帯のLisa《リサ》チームがいた。

「失敗するようなBクラスの選手はここにいてほしくないので、兄弟会社で働くチャンスを与えようと思う。あと太りすぎたので人数を減らす」

 そう言ってチーム全体の左遷・解雇を宣告した。 Bクラスの人材を排し、Aクラスのチームをキープする。 初代Macの開発でジョブズが掴み、後にはiPhone誕生に活用される成功哲学である。

 しかしLisa部門には、正しい監督がいればAクラスで働ける人材が残っていた。Mac部門で最高のエンジニアだったアトキンソンは、そう振り返る。

 さらにジョブズは言い放った。

「Lisaチームは全員降格する。Macチームの部下になってもらう。上司の許可無くMacチームのあるビルへの出入りも禁止だ」[2]

 その宣告は、部門の多数を占めるLisaチームの労働意欲を根こそぎ奪った。

 この決定はしばらくして、昇進したはずのMacチームの労働意欲をも奪うことになった。部下の給料を知る立場となり、自分たちがLisaチームに比べかなり安い給料で働いていたことに気づいたのだ。

 薄給で三年間、週九十時間の激務を強いられていたのか…。

 彼らは騙された気持ちになった。ジョブズは疲れた彼らを癒すため、五年勤続者に一ヶ月の休暇を与えるサバティカル制度を導入した。そして年俸に匹敵する臨時ボーナスを出し、かれらの努力に報いようとした。

 しかしこれが、会社の稼ぎ頭だったウォズニアック率いるApple Ⅱ部門の怒りを買ってしまう。

 Apple Ⅱが稼いでいたから、その金でMacを開発できたのではないか。なのにジョブズは感謝するどころか、温厚なウォズニアックを怒らせるほどにApple Ⅱを「古い」だのなんだのと散々こき下してきた。あまつさえ我々の稼ぎを奪い、Macチームにだけ莫大なボーナスを払うのか。

 たちまち社内でジョブズは孤立していく。だが、四面楚歌は彼の耳に届いていなかった。遠く離れたNYでほとんどを過ごすようになっていたからである。

「ビジネス界のロックスター」、彼の得たその称号は世界初のものだった。

 オノ・ヨーコの家に行き、ゲストに来ていたアンディ・ウォーホルの見守る中、ショーン・レノンにMacをプレゼントした。ミック・ジャガーの家にも行き、同様のことをした。若きジョブズは高級ワインを空ける華やかなニューヨークの社交界に魅了されていく。

「ニューヨークの方が知的な女性は多い」[3]

 憧れだったシンガー・ソングライターのジョーン・バエズと付き合いはじめたジョブズは、そのうちそんなことを言い出してニューヨークから帰ってこなくなった。が、Macチームがそれで不満をいうことは無かった。会長に会うためならファーストクラスに乗って移動できたのである。

 半年後の夏。ハワイ合宿に集ったAppleのセールス部隊は興奮していた。

 ジョブズは、この合宿のために短編映画を特別に創っていた。彼の率いるMac軍が艱難辛苦の末、IBM軍を打ち破るという脚本である。意図の通り、販売部員たちは足を踏み鳴らし、合宿は意気軒昂の様相を呈した。しかしその裏で、ジョブズはひどく落ち込んでいたという。

 わずか半年で、Macが全く売れなくなったのだ(続く)。

■本稿は「音楽が未来を連れてくる(DU BOOKS刊)」のの続編原稿をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。

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[1] David Sheff, "Playboy Interview : Steven Jobs." Playboy, Feb. 1985

[2] Walter Isaacson (2011) Steve Jobs, Little, Brown Book Group, Chap.17 p.181

[3] ヤング『スティーブ・ジョブズ パーソナルコンピュータを創った男(下)』第17章 p.179

作家/音楽産業を専門とするコンサルタント

寄稿先はNewsPicks、Wired、文藝春秋、新潮、プレジデント。取材協力は朝日新聞、ブルームバーグ、ダイヤモンド。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビ等。1974年東京都生まれ。2017年まで京都精華大学非常勤講師。上智大学英文科中退。在学中から制作活動を続け2000年、音楽TV局のライブ配信部門に所属するディレクターに。草創期からストリーミングの専門家となる。2003年、チケット会社ぴあに移籍後独立。音楽配信・音楽ハード等の専門コンサルタントに。著書「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DU BOOKS)

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