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ムラ社会と「日本の経営」 閉ざされた生産社会をどう生きるか

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

 8月19日、「まわりを気にする日本人は「恥を知る」ことから始めよう」という記事を書いた。

 日本人には、周囲から嘲笑されたときに感じる恥と、自分の至らなさを自覚したときに感じる恥の、二つの恥の意識がある。もちろん、世間から非難されるような悪行はすべきでない。とはいえ、周りの評価ばかり気にしていては、自分の弱さを克服するために、行動を起こすことはできない。

 おかれた環境は重要である。人の欠点をあげつらったり、失敗をあざ笑ったりする人のいる環境では、自分らしさを発揮することはできない。また、異質な行動をとる人を、集団の秩序を乱す人だと考える思考習慣が支配する場所では、新たな可能性は生じない。人も組織も、硬直していくばかりである。

 自分の信念や価値観に従って行動するよう心掛けることで、恥の意識は克服されていく。その意味するところは、周囲と融和することを目指すのではなく、その集団に属しながらも、はっきりと自分の考えを伝えることだ。もしそれが受け容れられないのであれば、その集団を離れることを検討したほうがよい。

日本のムラ社会

 どうやら農村の価値観が支配する社会では、我を貫いて生きることはルール違反とみなされるようだ。

 もともと農業は、農家が孤立して営まれるものではなかった。田植えや稲刈り、それから屋根葺きなどは、かなりの労力が必要な作業である。そのため、ムラの人びとが団結し、農家ごと順番に作業を行うことで、相互扶助が行われていた。ムラ共同体が一つの生産システムとして、機能していたわけである。

 ムラの生産システムは、各自が歩調を合わせることで維持されてきた。過去からの習俗は、一見すると合理的でないように思われても、機能しているのだからそれでよいとみなされた。あるいは、非合理性に気づく機会もまた、少なかったのだろう。「われわれの常識」は、そうでない価値観と照らし合わせなければ、疑いの目を向けられることはない。

 明治以降、「われわれの常識」とは異なる法規範が整備された。例えば、もともと日本人には「権利」の観念が欠けていた。それゆえ福沢諭吉のいうように、よく注意して横文字を読み調べる人でもなければ、この観念は理解しがたく、およそ誤解されてきた。いずれにせよ、新しい法規範のもと、自己の「権利」に目覚め、ムラの外の価値基準によって行動する人びとが現れてきたのは、この頃であった。

 そこで、ムラの秩序に従わない人は、つまはじき者になる。いわゆるムラ八分である。当時はすでに共同体の生産システムは弱体化していたから、ムラの結束を固めるために、ムラ八分は急増した。なかには周囲に働きかけてムラの掟を壊そうとする者もいたが、多くの場合、ムラから出ていくこととなった。個人の力では、どうしようもなかったからである。

 だが、民俗学者の宮本常一によれば、「予言者郷里に容れられず」といった西洋的な価値観があったから、彼らの誇りは傷つけられなかった。否むしろ、前向きな選択だったようだ。ムラの秩序の中で自分の地位を高めることは、不可能に近い。しかも急速に発展していく都市では、ますます欧米文化が取り入れられていく。だから彼らは、こぞって都市へと移住した。立身出世の機会が拓かれているように思われたのだ。

 古さを維持することで人が離れていく社会は、ますます硬直的な態度をみせ、悪循環に陥っていく。いずれ崩壊することは明らかなのに、頑なに旧来の規範を守ろうとするのである。しかしながら、本来それらの規範は、生産システムの維持のためにつくられたはずだ。だとすれば、外の世界の変化に従って、ムラもまた変わっていく必要がある。都市とは異なる、人びとの心を引きつける体制を整えることが、ムラの生き残る道といえよう。

日本の経営

 江戸時代、わが国ではおよそ9割の人が、農業に従事していた。それゆえ、農村から都市へと移住した人、あるいは農業から職を変えた多くの人は、多少なりとも農村の規範や価値観に従って育ってきた。

 日本の経営に、ムラ社会の規範が多くみられるのは、そのためである。三つ子の魂百までというように、幼少期から育まれた人の性格は、年齢を重ねてもなお維持されていく。どれほど都市での生活様式を好んだとしても、染みついた思考習慣はどこかに残っているものだ。

 そういう大人が子供を育てるのだから、次の世代もまた、同じような思考習慣をもつようになる。社会の規範は、そこで生活する人びとの価値観を反映しながら生成されるものだ。したがって日本の経営体は、ムラ的な価値観を踏まえつつ、滞りなく生産活動を行うために組織されている。日本の経営は家族主義というよりは、ムラ的な集団主義なのである。

 先に述べたように、ムラ的な社会は、合理性や生産性ではなく、調和を目指す。そのため欧米先進国とは異なり、非生産的な活動が残存している。それに異議を唱える者は、秩序を乱す者として諫められる。行き過ぎれば、つまはじき者となる。

 転職は悪だとの風潮が変わってきたことは、自己実現の欲求をもつ人には幸運であった。彼らは自分自身を変えようと努力してきたから、実力もまた蓄えている。かくして、日本的な組織から離れていくのは、有能な人材となる。かれらはより合理的で、より有意義な働き方のできる組織へと移っていく。

 これらの人びとは、集団の価値観に埋没しなかったからこそ、有能になれた。周りの非難を覚悟し、新たなことに挑戦することで、自分自身であろうとした。言いかえれば、ムラ的な集団の中で活動したからこそ、彼らは鍛えられたのだ。閉塞した社会に生きることは、必ずしも悪ではない。北風の中でしか育まれない精神もあるのだ。

 かつて農村から都市へと移住したように、非生産的な組織から生産的な組織へと、人びとは移っていく。淘汰される組織から逃れることができるのは、その中で自分を高めようと、研鑽し続けた者だけである。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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