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まわりを気にする日本人は「恥を知る」ことから始めよう

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

 日本人は、どうしてこれほど周りと同調することを求めるのだろうか。

 8月13日、東洋経済オンラインに「「スニーカー通勤」知らないと恥かく基本の基本」と題する記事が掲載された。2018年3月、スポーツ庁が始めた「FUN+WALK PROJECT」では、スニーカー通勤が推奨されている。そのため、主に都会では、革靴ではなくスニーカーで通勤するビジネスマンの姿もみられるようになってきた。

 記事には、次のような一文がある。「それだけに「スニーカー通勤」をするビジネスマンは、作法を間違えると知らずに恥をかくこともありえます。」たったの1、2年で、もう「作法」なるものが出来たのかと、驚いてしまう。

 スニーカーに合う服装は、セットアップのようなカジュアルなスーツやオフィスカジュアル。黒いスニーカーには黒いソックスでよいが、白いスニーカーには黒いソックスは合わず、白に限りなく近い灰白色がなじむ。パンツのすそが履いかぶさると野暮ったい印象になるから、短い丈がよい、とのことだ。

 もともとスーツにスニーカーなどはダサイの一言に尽きるのだから、好きにすればよいはずだ。しかるに、ひとたび様式・パターンが提示されれば、それに追従している限りは、ダサイとは感じなくなる。いつもそうだが、多くの日本人は、もののよし悪しを自分の頭で考えず、たとえ考えたとしても周囲に遠慮して、自分を強く主張しない。まさしくこれらは、「恥をかく」ことへの恐れからきている。

 周りと同じであることばかり求めていれば、いつまでも自分らしく生きることはできない。たとえスタイルが変わったとしても、自分が選択したスタイルではないのだから、見せかけの変化にすぎないのである。この機会に「恥」とは何であるかについて、検討する必要があるように思う。

恥を知る

 ヒューストン大学のブレネー・ブラウンは『本当の勇気は「弱さ」を認めること』の中で、恥を克服することの大切さについて述べている。

 ブラウンによれば、恥とは自分の欠陥のゆえに愛や居場所を得るのに値しないと思い込む、激しい痛みの感情または経験である。そのため恥は、つながりが断たれることに対する不安や恐怖を生み出す。

 恥の意識を強くもつ人は、本当の自分を他者に見せることができない。自分の弱さを見せたら、嫌われるのではないかと思ってしまうからである。同じ理由から、強みを見せることもまた、避けようと努める。かくして、周囲と同じようにふるまう人間、あるいは偽りの個性を表すことでごまかす人間ができ上がる。

 かつてルース・ベネディクトは『菊と刀』の中で、欧米の「罪の文化」と日本の「恥の文化」を対比した。キリスト教文明の欧米では、行為の規範には戒律に反することに向けた罪の意識があるが、宗教的戒律の存在しない日本では、世間や他人の目を気にする恥の意識があると述べたのである。つまり、欧米では自己の内なる良心に従って行動するが、日本では、周囲の感情や思惑に従って行動するというのである。

 だが、社会学者の作田啓一は、日本でいうところの「はじ」には、人前で嘲笑されたときの「恥辱」ばかりではなく、人前でほめられたときにも覚える「羞恥」があると述べている。日本人は、他者からの注目を集めることをした際に、はじらいを覚えるのである。

 自己の属する集団の価値基準とは異なる、より広い集団の価値基準に従って行為したことで、周囲の注目にさらされる。そのとき日本人は、所属集団のウチとソトの志向の不一致に気づくとともに、その狭間で揺れ動く自己の弱さを自覚することになる。そのとき「羞恥」の感情は引き出される。その意味で日本人も、たんに周囲の規範に従って行動するのではなく、自分の内面化された優劣の観念に従っていることが少なくない。

 重要なのは、この点にある。「恥」の意識は、必ずしも悪いものではない。日本人は、旅の恥はかき捨てなどと言って、外の世界で無遠慮に振る舞うことがある。そういうときには、やはり「恥を知る」べきであろう。しかし、自己の内なる信念があるとき、それを周囲の価値基準と違うからといって、押し殺してはならない。そこで覚える「恥」を克服したとき、人は自分らしく生きることができるのだから。

信頼を構築する

 とはいえ人は、弱い存在である。それゆえ、集団の意向に逆らってまで自分を押し通すことは、多くの人にはできない。集団から孤立し、自分だけの力で生きていくことなど、人間には到底不可能である。

 だからこそ人間は、社会を形成したのだ。個々の人間のもつ欠点を補い合い、自らの強みを発揮することで、よりよい社会をつくり上げてきたのである。われわれに必要なのは、周囲と反目することではない。そうではなく、互いに信頼を築き、個々の考えや信念を認め合う社会へと変えていくことである。そうすれば、安心して自分を周囲に見せることができるし、集団による判断の誤りを是正することもできるようになる。

 人の信頼は、ゆっくりと構築されていく。ブラウンは、他者との信頼を形成する方法について、次のように述べている。「信頼は生身をさらすことによって生まれ、時間をかけ、手間をかけ、気にかけ、関わることによって育っていく。信頼は大がかりなことをやってみせることではなく、ビー玉を一個ずつ貯めていくようなものである。」だから、我を張って意固地になることは、信頼とは程遠い。自分の信念を尊重してもらうのだから、相手の信念もまた受け入れる姿勢を示す必要がある。

 人にはそれぞれ、考えの違いがある。それゆえ、それぞれの生き方や生活の様式、スタイルがあるのだ。価値を相対化すべきだというのではない。そうではなく、相互に意見を出し合って、よりよい価値を見出すことを目指すのである。集団に埋没するのではなく、そこに存在しながら、自分を発揮する。違いを認めあう社会が、発展を遂げていく社会である。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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