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技術革新と「技術による革新」の違い:稼ぐ能力を身につける

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:ロイター/アフロ)

1月5日から8日まで、米国ネバダ州のラスベガスにてCES 2017が開催される。

CESは「革新な考えを持つ人々および革新的テクノロジーのための市場投入の可能性を探る場」として開催される、世界最大規模の見本市である。その歴史は長く、50年にわたって革新的な製品を世に知らしめてきた。4000近くの企業の出展に加え、基調講演やセッションなども魅力の一つである。2016年の来場者数は17万7393人と、過去最多を記録した。

主要出展品目は、以下の通りである。巷を賑わす革新的なワードが勢揃いである。これらが実際のモノとなって、CESには展示されている。

3Dプリント、アクセシビリティ、拡張現実、自動運転車、サイバー&パーソナルセキュリティ、ドローン、eコマース、エデュケーション&テクノロジー、エンタープライズ ソリューションズ、エウレカパーク、ファミリー&テクノロジー、フィットネス&テクノロジー、ゲーム&ヴァーチャル・リアリティ、ヘルス&ウェルネス、iプロダクト、キッズ&テクノロジー、ロボット、スマートホーム、スポーツ・テクノロジー、ユニバーシティ・イノベーションズ、ウェアラブル

すでに5日から、ニュースではCESで展示されている様々なものが取り上げられている。これらをよくよく眺めることで、これからのIoTの動きが理解できるようになるだろう。重要なのは、市場を制するものは何か、ではなく、おもしろいものは何か、という観点をもつことである。市場を制するというのは結果であって、おもしろいものがその結果をもたらす。だから単純に、自分がほしいもの、心を動かすものを見つけようとしたほうが、売れるものは何かがわかってくる。

ところで、こういった製品は技術の賜物である。しかしいうまでもなく、技術があるからといって、おもしろいもの、人が欲しがるものができあがるわけではない。どうやらここに、技術を扱う者が陥ってはならない誤解があるように思われる。

技術革新と「技術による革新」の違い

我が国は、技術革新に力を入れている。技術革新とは、画期的な技術が生まれることである。技術はすなわち国家の力であり、他国と比べて高い技術があることは、他国よりも産業において秀でていることを意味する。より性能のよいものは、より高い生産性を約束するからである。よって、やはり技術は「一番でなければいけない」。蔑ろにしてはならない。

しかし、例えば一番の性能のスーパーコンピューター(スパコン)があることで世の中が変わるかといえば、そういうわけでもない。スパコンは、あくまでの世の中を変えることが「可能」であるに過ぎない。これを「現実」のうちにいかに扱うかが重要である。

スパコンは、シミュレーションなどに使われる。しかし、この言葉のうちには現実感はない。シミュレーションは、天気予報などに活用される。まだ足りない。精度の高い天気予報は、農家の安定的な生産に効力を発揮する。ここにおいて、ようやく現実のうちに意味をもつようになる。価値を受け取る人が定まったからである。ゆえに一番のスパコンは、一番安定的な農業を我が国にもたらすのである。これが、技術革新とは異なる「技術による革新」である。

革新とは、既存のものをよりよいものに置き換えることである。「技術による革新」は、現実のうちの誰かの小さな満足を、大きな満足に置き換えることである。精度の高い天気予報は、農家の勘に置き換わるがゆえに、革新といえる。技術革新は、既存の技術が新しい技術に置き換わるに過ぎない。対して「技術による革新」は、技術によって生じる「誰かのための革新」である。誰かに認められるからこそ、その技術には価値がある。値段がつく。よって、売れる。

ここにCESの意味がある。すべての技術は、それが古いか新しいかはさておき、すでにある技術である。すでにあるものを解釈し、何らかのものを世に生み出そうという人間のはたらきがあって、製品は生まれる。その生まれた製品が、人から認められるかどうかはわからない。だからプロトタイプとして、人の目に晒すのである。結局のところ、新たなものを生み出すのは、技術ではなく、人である。客体のことを考えてなされる、主体者の営みが、価値のある新たなものを生み出すのである。

もはや技術力だけでは戦えない

「我が国の強みは技術力である」といわれる。たしかにそうである。しかるに「技術力」は量的な概念である。対して革新は、質的転換を意味する。よって力の強さは、ここでは直接的には作用しない。力の強さは、質が変化したのちに、効力を発揮する。

この時代は、多様性の時代である。それぞれの人がそれぞれのライフスタイルに合った自己充足を求めている。そのため彼らを満足させるには、彼らすべてを満足させるようとしてはならない。そのうちの誰か、特定の顧客を見出すことから始めなければならない。その上で、顧客に固有の満足を提供しなければならない。「若者の◯◯離れ」ではない。「若者のうちの××の満足」である。

ようするに、イノベーションを生み出したければ、イノベーションを生み出そうなどとは考えないことである。第四次産業革命の核となるテクノロジーとみられているIoTの観点から、なんでも色々と生み出してみること、多種多様に新たな価値を生み出すことを目指さなければならない。キーコンテンツではなく、様々なコンテンツである。色々なものがあって、ひとまとまりになってでき上がった社会が、新たな社会である。産業革命は結果である。様々な価値が世にもたらされ、受け入れられて、それは実現される。

「技術による革新」は、人のなす解釈的取り組みによって生じる。よって、いま我が国に必要なのは、例えば技術者同士の集まりとか、経営者同士の集まりではない。技術者と、解釈者、そして実行者が入り混じった集まりである。技術者と実行者の間に、技術を用いて価値に変えることのできる解釈者を入れなければならないのである。技術を高めることではなく、生まれた技術をいかに解釈して、それを現実にもたらすかを考えなければならない。そういった仕組み、プラットフォームを整備することこそ、我が国の成長戦略には必要なのである。

同様のことは「技術者でもMITテクノロジーレビューを知らない人が多いようだ:日本版、開始」の中ですでに述べた。技術は何にでもなりうる。ゆえに何のために用いるか(=目的)によって、いかなる価値になるかが変わってくる。人間が、技術を価値に変えるのである。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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