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台湾から古巣、阪神タイガースの38年ぶりの「日本一」を見届けた福永春吾の次なる夢

阿佐智ベースボールジャーナリスト

 帰国後、福永は古巣・徳島に戻った。インディゴソックスが場所を提供してくれるというので、リハビリをしながら膝の回復を待った。しかし、チームに戻ることはなかった。

「インディゴソックスには、ドラフトにかかるような選手がたくさんいます。僕が戻ることで、彼らの(投げる)イニング数食っちゃうとダメでしょう」

 幸い、夏が過ぎる頃、膝は完治した。

現役時代を振り返る福永春吾(台湾・高雄市にて)
現役時代を振り返る福永春吾(台湾・高雄市にて)

先輩の声掛けから独立リーグ復帰

 連絡があったのはそんな時だった。

「良かったらうちで投げてくれないか。ピッチャーが足りないんだ」

 電話の向こうには、阪神時代の先輩、西岡剛の声があった。野球好きの元メジャーリーガーは、NPBから去った後もプレーを続け、このシーズンを九州アジアリーグの新球団・北九州フェニックスで監督兼任選手として送っていた。首位・火の国サラマンダーズを追いかけるのにピッチャーを必要とした西岡は、福永に白羽の矢を立てたのだ。

「西岡さんには、阪神時代に食事に連れて行ってもらったり、お世話になってたんです。だからメキシコに行くときも、戻って来た時も報告はしていたんです。怪我も治ったし、オフはメキシコに戻ってウインターリーグで投げるつもりだったんで、声をかけてもらったのはありがたかったですね」

 リハビリのかたわら、平日には徳島と大阪で野球教室を行っていたのがネックとなったが、週末だけの参加でいいと条件が提示され、福永はフェニックスのユニフォームに袖を通すことにした。

「試合の前々日ぐらいにはチームに合流して練習しましたけど、チームに帯同したって感じじゃなかったですね。連戦の時は泊りもありましたけど、ほんと、助っ人、でした。ギャラは日当と徳島からの交通費だけもらいました」

 フェニックスでは3試合に登板した。2度リリーフのマウンドに立ち、最後は先発して9月半ばにシーズンを終えた。

 その後、福永はメキシコに戻ることはなかった。

最後のチャンスを求めて台湾へ

 台湾から誘いがあった。

 富邦ガーディアンズが福永に目をつけ、秋季キャンプに招待したのだ。要するに入団テストだ。

 台湾に渡ったのは11月。九州でのシーズンが終わってからすでにひと月が経っていた。春にメキシコでキャンプを迎え、シーズン途中にリリース。帰国してからリハビリ生活を送った後、独立リーグに復帰。変則的なシーズンを送った体は、一旦休めるともう言うことを聞かなくなっていた。

「九州でやっている時は良かったんですけど、もう全然調子悪かったんで。ブルペン行って投げてすぐこれあかんわって思って。だいぶ感覚が空いていましたから。今までその時期にそんなにすごいやってたわけじゃないので、うまく体つくれなかったですね。自分のミスですね」

 「テスト」は当然のごとく失格。福永は潔く野球から身を引く覚悟を決めた。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。かつての同僚が手を差し伸べてくれた。

「あれはお前のパフォーマンスじゃないだろう。もう一回ゆっくりちゃんと体をつくり直せ。元々4月、5月はお前、調子いいから。うちでやれば春の大会の時にスカウト来るから、絶対(プロに)上がれるから、やれ」

 福永に声をかけたのは、台湾球界のレジェンド、張泰山(ジャン・タイシャン, 現味全ドラゴンズコーチ)だった。安打、打点、本塁打(のち別の選手に抜かれる)の通算記録「三冠王」のまま2015年シーズン限りで台湾リーグを去った強打者は、キャリアの終わりを日本で迎えようと、2016年シーズンを福永と同じ徳島インディゴソックスで過ごしたのだ。

 富邦のトライアウトが終わった後、共にした食事の席で、引退を口にする福永を張はフィールドに引き戻した。

「お前は来年俺のチームで野球するんだ。そこからもう一回、プロ目指せ」

 「俺のチーム」が何を意味するのかは分からなかったが、福永はそのまま台湾に留まることにした。2023年シーズンを彼は、社会人チーム、台中市成棒隊で迎えることになった。

 台湾の「社会人野球」は、セミプロといったほうがいい。企業チームは日本と同じく社業とプレーを並行して行っているが、福永が所属したチームでは選手はプレーに専念する。もちろん給料も支払われた。

「僕のチームは台中市のチームなんですが、別に市役所に勤めたりということはなかったです。感覚的には独立リーグみたいな感じですね」

 プロとの違いは、リーグ戦がないことだ。春と秋の大会が主戦場で、シーズンは12月いっぱい続く。張の言った通り、春先の福永は絶好調だった。春の大会が終わると、プロから声がかかった。

新球団でプロ復帰

 福永の次の行き先は、新球団・台鋼ホークスだった。参入初年度とあって、このシーズンは二軍リーグにのみ参戦となったが、球団は来年度の一軍リーグ参入のための戦力とみなしていたことは、チーム唯一の外国人選手として獲得したことに現れていた。チームの本拠、高雄にやって来た時、福永は自分の現役生活のピリオドが近づいているとは夢にも思わなかった。

 台湾でのプロ生活はすぐに終わった。移籍して4試合目くらいだったろうか。登板中に突如それは襲ってきた。

「試合中に右肘の靱帯をやったんです。最初、靱帯はやってないと思いました。投げてすぐ、前腕に張りを覚えたんで、筋肉的な問題だと思ったんですけど。検査したら靱帯が完全に断裂してたんです」

 台鋼では先発を任された福永はその日も先発マウンドに上がった。自分自身、調子の良さを感じて投げていたのが落とし穴だったのかもしれない。知らず知らずの間に力が入ってしまっていたのだろう。5回途中に右ひじに激痛が走った。

「今思えば、何となくいつもより肘が張ってんなという感じはありましたね。最後の1球で、もう無理ってなりました」

 その時点では、大きなことだとは考えず、ローテーションを1回飛ばそうと首脳陣と話し合った。しばらくして、痛みが抜けたのでキャッチボールを再開したが、右腕に力が入らない。遠投も問題なくできるのだが、力を入れようとした途端、張りを感じてしまう。球団と相談の上、病院に行ったが、そこで福永は引退を決断することになる。

「じゃあ一回レントゲン撮りに行くかってなって、どうせならということで一緒にMRI検査することになりました。その時は、靱帯は全く気になっていませんでした」

 検査の前に医師の診断があった。医師が福永の右腕のあるツボを押さえると強烈な痛みが走った。医師は言った。

「ああ、断裂してるね。」

 MRI検査の結果は医師の見立て通りだった。右ひじの靭帯が完全に断裂していた。直すにはトミージョン手術しかない。

 福永はユニフォームを脱ぐことを決心した。

「もう台湾に来る前に覚悟して来たので。台中のチームで野球やる時点で、プロに上がれなかったらもうプロ目指すのはやめようと思っていました。プロ目指すのは今年までかなと。手術すると、2回くらい冬を越さなければなりませんから。自分のキャリアを考えると、2年後に戻って来れるかって考えると難しいのは分かっていますから。まあ、放っておくと、将来日常生活に支障が出てくると思うんで、ゆくゆくは手術しますけど」

 台中のチームはいつでも戻ってきていいと言ってくれていたが、もうプレーを続けるモチベーションを保つことは難しくなっていた。

 それでも、福永は、ユニフォームを着ている。今、彼は第2の野球人生を台鋼ホークスの指導者として歩もうとしている。

「まだもう少し言葉を覚えたりしないといけないんですけど。野球で仕事するというのは続けていきたいですね。はじめは、台中で指導できればいいなと思っていましたけど、台鋼からコーチとして残ってくれって言われて…。言葉を覚えたら今後いろんな仕事ができるんじゃないかなっていうのは考えています」

 ゆくゆくは、国際スカウトとして新たな才能を発掘するのが夢だ。

 福永は、高校時代、一旦野球からは離れている。だからこそ、今、余計に離れられないんだと言う。

「結局、野球好きやし、今後も携われるなら携わっていきたいなと思っています」

「自分は自分」、古巣の日本一より指導者修業

 振り返ってみると、決して順風満帆な野球人生ではなかった。怪我から挫折した高校時代。ブランクを埋めるため独立リーグから這い上がり、阪神に入団したが、独立リーグからのドラフト本指名は当時非常にまれなことだった。阪神では一軍デビューを先発で飾ったが、結局勝ち星を挙げることなく4年間のNPB生活を終えることになった。それでも、プレーを諦めず、国外に活路を見出そうとしたが、コロナ禍により台湾球界入りは頓挫。独立リーグに戻って再び至福の時を過ごし、メキシコ行きの切符をつかむも、さあこれからという時に故障。そして、社会人野球から開けた台湾リーグへの扉も、故障によりあっけなく閉じられてしまった。独立リーグとトップリーグの往復に終始した野球人生は故障との戦いだった。

独立リーグ復帰時はグラウンド整備も率先して行っていた。
独立リーグ復帰時はグラウンド整備も率先して行っていた。

 運がないと言ってしまえばそれまでだが、福永には悔いはない。

「仕方がないですね。(故障は)どうすることもできないことなので。それに、海外に出るって決めた時点から覚悟はできていましたし。向こうでは1日で終わる世界も見てきたんで」

 2023年シーズン、日本のプロ野球の主役は古巣、阪神タイガースだった。日本一となったチームの4番には、ドラフト同期の同級生、大山が座っている。そんな古巣も、福永にとってはすでに強い思い入れのある場所ではない。

「ネットぐらいは確認しますけど、今はもうこっちで生活してて、こっちで野球してるんで。コーチになったところなんで、コーチ業の勉強で精一杯ですね。来年うちのチームは一軍に参入します。自分がどうなるかとかもまだわからないんですけど」

 思い出は飯を食わせてくれない。福永の顔にはそう書いてあった。当面は台湾に腰を据える覚悟だ。

「台湾、すごくいいですよ。ずっと日本の文化で育ってきて、それが当たり前と思っていたことが、海外に出たら全然当たり前じゃなかったり、新しい文化に触れることによって、こんな世界もあるんだっていうのを感じました。メキシコもそうですし、ここでもそうです。こういうかたちで現役は終わったんですけど、野球人生、楽しかったですよ。とくにここ数年は。もちろんタイガースも含めてですけど。楽しかったですね。メキシコも全然違いました。同じプロですけども全然違う。楽しかったです」

 福永春吾の野球人生はまだまだ続く。

(終わり)

*写真は筆者撮影

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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