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元タイガース戦士、福永春吾が体験したメキシコ野球

阿佐智ベースボールジャーナリスト
現在は台湾の新球団、台鋼ホークスで指導者の道を歩んでいる福永春吾

短かったメキシコでのシーズン

 出番はいきなりやってきた。1回裏、先発投手が1アウトも取れぬまま3点を先制されて降板したのを受けて福永は急遽マウンドに上がることになった。

「いつも長い試合なんですが、別に肩をつくりにくいっていうのはなかったです。元々、行くぞって言われてから、パッとすぐにつくれるタイプだったんで。何回もつくり直しっていうのはしなかったですね」

 この時も、立ち上がりの不安定な先発投手を見てすでに肩をつくっていた。塁上になおもふたりのランナーを残して相まみえたバッターは、中日でも活躍した元メジャーリーガー、ソイロ・アルモンテだった。同じ時期にNPBでプレーしていた選手だったが、二軍暮らしの長かった福永には、それが一体誰だったのかはわからなかった。

「相手については分かんないですね。だいたい後から聞いて知るんですけど。一応ミーティングがあって、そのときに直近の試合のデータと、有名な選手だったら名前は出てくるんですけど。僕は英語に訳してもらって教えてもらうんです」

 なにも知らないというのは時として大きな武器になる。福永はスター揃いのスルタネス打線に臆することなく勝負を挑み、それ以上の得点を許さなかった。そのまま無失点で4回のマウンドに臨んだが、ランナーをふたり出したところで降板を命じられ、後続がこのランナーを返したので、結局2失点が記録された。

 この日の試合は平日のナイトゲーム。メキシカンリーグではテレビ放送の関係もあって7イニング制で行われる。へネラレスは猛追及ばすこの夜は1点差負け。6イニングしか守備につかなかった。その半分以上マウンドに立っていた充実感が福永に残った。

 強豪スルタネス相手に連敗を喫していたへネラレスだったが、翌日ようやく白星をもぎ取った。しかし、その喜びもつかの間、例のごとく長い試合が終わったのは日付が変わる頃。深夜1時にホテル帰り、シャワーを浴びて夜食をとると、早朝3時には空港に向けて出発した。次の試合地はアメリカ・カリフォルニアとの国境の町、ティフアナ。目的地に着いた時には時計の針は午前10時を指していた。このハードな移動にもめげず、へネラレスはこれまた強豪のトロスと同じ13安打を放ったが、1点及ばず勝利をつかむことはできなかった。

せっかくの先発も膝を故障

 福永に先発のチャンスが与えられたのは、この遠征が終わり、ホーム、ドゥランゴに帰ってからの週明けの初戦のことだった。先発陣が枕を並べて討ち死にしていく中、チームは最下位争いの真っただ中にいた。2度のリリーフで防御率6点台の福永だったが、前回の失点は後続が打たれたためのことで、投球内容はオープン戦から好調を維持していた。前回登板から中5日、首脳陣は、日本人助っ人に試合を託す決断をした。

 先発を告げられた時のことを福永はこう回想する。

「ああ、来たなっていう感じでしたね。それまでも結構先発が打たれてて、メンバー見てたら明らかに投げれるピッチャーいないですし、その日の枠が空いてたんで、来るやろうなと。中継ぎで出番があったんで、与えられた場所で頑張ろうかなという感じでしたから、別に先発の出番を待ってたわけではなかったんですけど。ローテションの兼ね合いとか、抑えてるピッチャー考えると、ああ、俺しかおらんなって」

 心の準備はできていた。4イニング2/3を投げ、1失点。三振は5つ奪った。この日は平日の7イニング制のナイトゲーム。勝ち投手の権利を得たまま5回2アウトランナーなしの場面で後続にマウンドを託すことになった。

「3巡目の左打者のところで交代でした。左右の兼ね合いだと思います。結局、リリーフが崩れて、勝ち負けつかずでしたけど。たしか6回に逆転されたと思います」

 メキシコに来て3度目、初めての先発試合をこう振り返る福永だが、実際は、この時すでにそれ以上投げることはできなくなっていた。膝の靱帯に炎症を起こしてしまったのだ。

「試合中にもう膝悪い、多分やったなっていう感じやったんです。ベンチにもそのことは伝えていました。それで、監督からタイミングいいところで代えるって言われてました。それがあの場面だったんだと思います。もう勝ち投手の権利は得ていて、右、右って抑えて、次から左っていう」

 故障はフェータルなものだとは思わなかった。ちょっと炎症を起こしたくらいだろうと。しかし、彼はここメキシコでは「助っ人」だった。初の先発マウンドの後に待っていたのはリリースの宣告だった。

「まあ、メキシコの場合は、下(ファーム)に落ちたらもう契約切れるのと一緒なんで。もともとここではDL(故障者リスト)の枠がもともと1つしかなくて、もうそれ使っちゃってるから、いったんリリースせざるを得ないと球団からは言われました」

ただし、完全なクビというわけではなかった。球団は、この日本人選手を手放すつもりはなかったようで、残りシーズンは治療に専念し、翌シーズンに戦力となってくれればいいと考えたようだった。

「とりあえず、チームには残って、メキシカンリーグの後にウインターリーグあるから、それに備えてくれって言われてたんです」

 しかし、ロースターから外れた福永を見逃さなかったチームがあった。グアダラハラ・マリアッチスが獲得を申し出た。チーム残留と言っていたその舌の根が乾かぬうちにドゥランゴ球団のGMから再度呼び出された福永は、手渡された航空券を手にしてメキシコ第2の町、グアダラハラへ向かうことになった。

「結局、ドゥランゴにいたのは2カ月半ぐらいですね。テスト生や、招待選手ではいたらしいですけど、本契約を結んだ日本人は僕が最初だったみたいです。それもあって、ファンからは割と覚えてもらえましたね」

「日本では考えられないくらいの打ち合いが毎日でしたし、ピッチャーが足上げるまでずっと音楽が鳴り響いていることも日本ではないですしね。初回にいきなり7点とか入っても試合決まんないですからね。日本だったらもう絶対決まりですよ。日本じゃビッグイニングそうそうないですけど、メキシコだったら1試合に3回ぐらい起こる、そういうイメージでしたね。規定打席到達した打者はおおかた3割ですからね」

 かと言って、メキシコの打線が強力だったとは思わなかったと福永は言う。

「単に標高が高いとこでやってるんで、ボールが飛ぶだけです。そういうところだと変化球は曲がらないですし。ティフアナ・トロスが一番強かったですが、本拠地の標高が低いからそんな打ち合いにならなかったですし。あそこはやっぱり2-0、3-0のスコアが多かったような気がします。だから、メキシコのバッターが日本に来てもあんなに打てないと思います。あんなに変化球曲がるとか見たことないと思うので。打てないと思います。そりゃ日本人に比べたらやっぱりパワーとかはあるかもしれないですけど、逆に日本のピッチャーがメキシコに行ったら抑えると思います。僕の感想では、高めの真っ直ぐと、低めの縦の変化、ツーシームなんかがあれば抑えれると思います。

この夏、インタビューに応じてくれた。
この夏、インタビューに応じてくれた。

移籍するも故障は癒えず

 移籍先は、どうも膝の故障のことはよくわかっていないようだった。チームに合流すると、早速投球を見せてくれと言われた。膝は治っていなかった。福永は投球は無理だとその申し出を断ったが、投手不足に悩むチームは、そのまま福永をチームに帯同させた。

「マリアッチスでは投げたの1回だけです。もうけがしてたんで。投げれる状態じゃなかったんで」

 へネラレスでの先発登板から2週間近く経った5月22日、福永はグアダラハラでのホームゲームのマウンドに立った。同点から一挙5点を取られ、試合が半ば決まった7回表、いわゆる敗戦処理のマウンドだった。1イニングを投げ、ダメ押しとなる1点を失い、この回でマウンドを降りた。

「投げてみろって言われたんで投げたんですけど、治ってませんでしたから。全然駄目でした」

 痛みはまだひいていなかった。その後も何試合かチームには帯同したが、ドクターのしばらくは治らないという診断が下るとリリースが通告された。

「軸足の膝だったんで、全くもう動けませんでした。もう絶対駄目やと思ったんで、ドゥランゴにも戻りませんでした。結局、ちゃんと検査しないとあかんなというぐらいだったんで」

 球団から渡された航空券は日本行きのものだった。

(つづく)

*写真は筆者撮影

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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