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「三刀流」として北の大地に帰ってきた「メキシコプロ野球初の日本人最多勝投手」

阿佐智ベースボールジャーナリスト
メキシコの後、昨シーズンはオリックスでプレーした中村勝

メジャーでもない、日本でもないメキシコ野球

 メキシコ野球はよく「打高投低」と言われる。そのため、とかく投手力が低いように思われがちだが、実際にフィールドに立った中村の印象は少し違う。

「本拠地のグアダラハラもそうなんですが、標高の高い球場ではボールがとにかく飛ぶんです。飛ぶっていうより、打球が落ちてこないという感じです。それに、標高によって変化球の曲がりや回転も違ってくるんです。メキシカンリーグはよく打者有利って言われるけれど、単に打球が飛ぶっていうだけじゃなくて、ピッチャーにしてみれば、標高が変われば、球をコントロールしにくいし、あと、ボールも普通に投げたら滑るっていう感じでしたね。ただし、それはボールの質っていうより、乾燥しているためだと思います。だからボールに回転がかかりにくかったですね。どうやったらちゃんと指にかかって投げれるか、いろいろ試しました」

 中村が標高の高さや乾燥以上に気を使ったのは、高低差だったという。高地と低地の海辺では指先の感覚は全く違った。遠征時の登板では、コーチに標高の高低を聞くのが半ばルーティンとなっていた。

「それを参考にしないと攻め方も変わりますから。標高が高ければ、打球もパーンって飛んでいくし、低ければ低いで変化球の曲がりが大きくなりますから。シーズン中盤、高地で投げた後、南の方のメキシコ湾岸のカンぺチェって町に遠征に行ったんです。海辺だから標高は低いですよね。キャッチボールすると、びっくりするぐらいボールがよく回転するんです。こんなに曲がる?って思うぐらい変化球が曲がりました。高低差もある上、湿気も多いからだと思います。感覚は高地と一緒なんですけど、(標高の)高いとこでいろいろ考えながら投げた後、低いところに行くとすごくいい感じはしましたね。そうやって工夫する中で、日本でやってた時よりも、自分のピッチングの質っていうか、とくに変化球の質は上がったと思います」

 近年の野球は、とくにピッチャーにおいてスピード重視の傾向が強いが、それはメキシコ野球も例外ではない。ふた昔ほど前までは、メキシコの投手陣は変化球投手が多く、打者も、とくに国内選手はパワーヒッターが少なかったため、野球スタイルはメジャーより日本の方に近かった。しかし、現在のメキシコ野球はスピード&パワーの時代に突入している。中村は、自分がメキシコで成功したのは、そういう潮流の逆を行く自分の特徴が生かされたからだと考えている。

「パワーピッチャーが多かったですけど、思ったより変化球投げてましたよ。ただ、うまく投げれるピッチャーは少なかったですね。そういうピッチャーは、ほとんどが速い真っすぐとカット系、シュート系みたいな感じでした。ふわっと曲がるカーブやフォークを投げるピッチャーがいなかったんで、僕の場合、そこが武器になったんだと思います」

 環境はもちろん日本とは程遠いものである。しかし、中村はそれさえも楽しめたという。「うちのチームは良いほうだったと思います。食事も、試合の日は球場でちゃんと試合前後とも出ましたから。遠征先でもホテルで朝晩、朝晩っていうか試合前と帰って来た時、絶対に三食とも出てたんで。給料から天引きっていうのもなかったです。だから食事面はすごく助かりました。他のチームだと、昼に弁当が出るくらいとか、晩飯は自分で作んなきゃいけないとかいうところもあったみたいですから。ホテルもきれいでしたよ。2人1部屋で、僕の場合、通訳の青木さんと一緒だったんで都合よかったです」

 ただし日本の5倍という国土の隅から隅までに18球団が散らばっているメキシカンリーグでは遠征がかなりの負担となる。「貧乏リーグ」ゆえに、移動手段はもっぱらバスだ。ディアブロスとの「クラシコ」でも8時間のバス移動だった。航空機の利用は、南北の地区を越えた遠征か、最北西のフランチャイズであるティファナで試合の時のみ。無論メジャーのようなチャーター機の使用などあるはずがなく、利用するのはもっぱら早朝の格安便。2時間前のチェックインに間に合うよう、空港までのチームバスの集合時間は、ほとんど深夜といっていい時間だった。

「僕らっていうか、ほとんどの選手はホテル住まいなんです。だから、チームバスはそのホテルから出発でした。ベテラン選手の中には、家借りて家族と一緒に住んでいる人もいましたけど、その人たちもホテルに集合。集合時間はだいたい夜中の1時、2時でしたね」

(グアダラハラ球団提供)
(グアダラハラ球団提供)

しょっぱかった最後の美酒

 メキシコでの好成績を前にして、中村の脳裏に「NPB復帰」の文字が浮かび上がってくる。

「これもしかしたらあるのかな」

球速も140キロ台終盤を記録するようになった。何といっても感覚がいい。「(NPBに)戻れたらいいな」という気持ちは、次第に「この状態でもう一度勝負してみたい」という確固たる意志に変わっていった。

手を差し伸べたのは、現役時代を共にしていた中島聡が監督を務めるオリックスだった。2022年の春季キャンプの途中からテスト生として合流。キャンプが終わった時点で育成契約を手にした。開幕は二軍で迎えたが、ファームでローテーションの柱として投げ続けていると、投手の台所事情が苦しくなる夏場を前にした7月初旬に支配下選手に契約が変わった。7月7日の七夕の日、中村はなつかしい一軍のマウンドに立ったが、それは日本ハム時代最後のマウンドから実に1095日が経っていた。

「(NPBに)戻れた喜びもありますけど、やっぱり年齢的にもそこそこやらないといけない立場ではあったとは思うんで、その点はうれしかった半面、プレッシャーは感じていましたね。メキシコで最多勝取ったっていうんで、ちょっと期待される部分はあるじゃないですか」

 NPBのマウンドには、オーストラリアやメキシコで感じた楽しさはなかった。周囲の心持ちまでは分からなかったが、メキシコ帰りの自分がどんなピッチングをするんだろうという視線を感じた。

「投手としてやるべきことは正味変わらないんです。試合では同じようにはできたと思います。気持ちの面でメキシコとは違いましたね」

 8月7日には古巣ファイターズ相手に先発のマウンドに立ったが、5回3失点で敗戦。その後、中村に一軍のマウンドが与えられることはなかった。12球団トップクラス投手陣の中で中村に割って入るスペースはなかった。

チームは、2年連続のリーグ優勝を遂げ、日本シリーズも制し、26年ぶりの日本一に輝いた。その瞬間、歓喜の輪の中に中村の姿はなかった。

「あの瞬間は、もう戦力外を通告されていました。もちろん悔しい思いはありましたよ。でも、日本ハムの時と一緒で、客観的に見て自分がクビになる候補の1人ではあるなっていうのは自覚していたんで」

 それでも中村の旅はまだ終わらない。もう一度メキシコに戻ってウィンターリーグでプレーしようかなとも思い、トレーニングを続けていたところに、独立リーグからのオファーがあり、これを受けた。

 今、中村は、監督、投手、GMの「3足の草鞋」を履いている。流行り言葉を使うと、「三刀流」といったところだろうか。しかし、ここもまだ「終着点」ではない。

「マリアッチスのメンバーは今でも仲良くてSNSで連絡取っているんですよ。スペイン語は無理だけど、みんなだいたい英語でコミュニケーション取れますので。日本で監督になったよって流すと、おめでとうってみんな返してくれました。そんな感じなんで、また自分の中でまた投げたいっていう気持ちが強くなったら、もう一回海外でプレーするかもしれません。もちろん今の球団との契約はありますけど」

 まだ31歳。中村勝の野球人生はまだまだ続く。

(了)

(キャプションなしの写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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