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オーストラリアウィンターリーグからメキシカンリーグへ。メキシコで最多勝投手となったサムライ

阿佐智ベースボールジャーナリスト
中村勝士別サムライブレイズ監督(筆者撮影)

 かつて「ダルビッシュ2世」と期待されながら、ドラフト1位に違わぬ成績を挙げることができず、2019年シーズン限りで日本ハムをリリースされた中村勝は、セカンドキャリアの足掛かりを探すべくオーストラリアに渡った。彼はここで予期せず、プロ復帰を果たすのだが、そのオーストラリアでの中村のピッチングを海の向こうで見ていた男がいた。

ルイス・メンドーサの名を覚えている野球ファンは多いだろう。メジャーリーグで7シーズンプレーした後、来日し、4シーズンで27勝を挙げたメキシカンだ。日本を去った後、彼は母国メキシコ球界で活躍。2020年の冬のシーズンを最後に母国のプロ野球からも引退すると、夏の全国リーグ、メキシカンリーグのエクスパンションに伴う新球団立ち上げに際して、GMに就任していた。メンドーサは、インターネットで中村のオーストラリアでのピッチングを確認すると、オファーを出した。

「青木さん(日本ハム元スタッフ)経由で話が来たんです。SNSかなにかで僕のピッチングを見て、メキシコ野球に興味ないかって」

 オーストラリア滞在は1年と決めていた。帰国し、次は何をしようかと思案していたところへの突然のオファーだった。いまさらという思いと、オーストラリアで感じた手ごたえが交錯した。最終的に勝ったのは、野球選手としての本能だった。

「最初は、どうしようかなって考えたんですけど、いい経験にはなるんじゃないかなって思って挑戦することにしました。誰もが行けるような場所ではないですから。行けるんだったら行ってみたいなって」

 しかし、アメリカ大陸ではマイナーリーグ扱いとは言え、中南米一の規模を誇るメキシコのトップリーグである。レベルは、オーストラリアとは比べ物にならない。どうせすぐクビになるだろうなという思いも頭をよぎったが、その分、気は楽になった。

「オーストラリアの時と違って、メキシコには、純粋にプレーしに行ったって感じですね。現役復帰って言うほどの気持ティファナかったですけど、オーストラリアでちょっと良くなった感覚を試したくなったんです」

新球団の立ち上げに参加

 新しい所属先は、グアダラハラ・マリアッチス。本拠地はウィンターリーグの人気球団、ハリスコ・チャロスのフランチャイズで、郊外にある本拠地球場ではWBCやカリビアンシリーズも行われたことがあるサッカー大国メキシコにあって数少ない「野球処」だ。サッカーの世界では、この町のチーム、「チーバス」と首都メキシコシティの名門クラブ、「アメリカ」とのゲームは、「クラシコ・デ・クラシコ」と呼ばれる看板カードとなっている。その「クラシコ」を野球でもと考えたのかどうかは分からないが、メキシカンリーグは16球団から18球団へのエクスパンションにあたって、この町に新球団を設置することにした。

 とは言え、中村はメキシコ野球のことなどほとんど知らない。ウィンターリーグについては、日本のNPB球団が選手を派遣したことがあるため、そういうものがあるんだと思っていたが、夏にもプロリーグがあることはメンドーサからの連絡を受けて初めて知った。

 報酬については、もうほとんど向こうの言い値だった。

「コロナ禍だって、給料は相場よりだいぶ下げられましたね(笑)。月50万円ちょい。値切られましたけど、ちゃんともらえましたよ。でも帰国して、飛行機代とかの経費を請求したら、全然払ってくれませんでしたけど。それで、リーグの方に告げ口したら、球団に注意してくれたみたいで、そのうち振り込まれました」

コロナ禍ではあったが、おおらかなお国柄のせいか、入国に障害はなく、キャンプにはすんなり合流できた。キャンプは、チームの本拠のあるハリスコ州内の港町、プエルト・バヤルタで行われた。メキシコでも有名なリゾートらしく、予想外に快適な毎日を過ごせた。

「ほんと観光でした。海沿いのいいホテルに泊まって、近くの球場に行っての毎日でした」

 中村がメキシカンリーグでプレーした2021年は東京オリンピックが行われた年だ。メキシコは、前々年の国際大会プレミア12の3位決定戦でアメリカを破り初出場を決めていた。晴れの舞台に備え、メキシコ球界は二重国籍をもつメキシコ系アメリカ人も代表チームに招集したのだが、その目玉としてメジャー通算2050安打、317本塁打のスラッガー、エイドレアン・ゴンザレスを迎え入れた。2018年に在籍していたメッツ以来、2シーズンプレーしていなかったゴンザレスだったが、オリンピックの舞台を花道にすべく、マリアッチスで現役復帰を果たしていたのだ。キャンプ地が豪華リゾートなのは、スーパースターを迎え入れるためだったとチーム内ではもっぱらの噂だった。

 日々の練習は、本当に自由だった。

「ファイターズも全体の練習量が多いっていうチームではないんです。だから同じような感じでしたね。ブルペンも『いつ投げる?』ってコーチから聞かれるくらい自由でした。ウエイトルームはホテルにあったんで、やりたかったらそこで自由にやっていいよって感じでしたね」

 選手を消耗品と考えるアメリカ球界では、練習の「やり過ぎ」にブレーキをかけるのがある意味チームスタッフの仕事となっている。メジャーリーグのアカデミーのあるドミニカでは、トレーニングルームに鍵がかけられ、各選手の練習量は厳重に管理されていたりするが、メジャーリーグから独立して運営されているメキシカンリーグではそのような管理はなされていなかった。中村は、自分の判断でトレーニングを行い、投球練習を行ったが、ブルペンで6、70球も投げれば、周囲は目を丸くしていた。

 キャンプ、オープン戦とシーズンに向けての準備が進んでいくにつれ、中村は手ごたえを感じていったものの、開幕を迎えるまで自分がロースターに入ることができるかどうか確信を持てなかった。

「やっぱりここでは僕は外国人枠なんで、当落線上っていう感じだったですね。キャンプがスタートした時点では、3Aとかでプレーしていた選手が優先的に入る雰囲気でした。お金があるからか、マリアッチスは登録外のメンバーも結構保有してたんですよ。遠征とか行ったら残留組でも10人近くいるぐらいでしたから。給料は多分半分ぐらいしか出ないと思いますけど。だから、最初はその予備軍でなら置いてもらえるかなって。まあ、全然駄目だったら普通にクビだなって思っていましたけど」

 キャンプにはロースターの登録枠をはるかに超える数の選手が集まっていた。日本と違い、アメリカやメキシコのキャンプはトライアウトも兼ねている。クールが過ぎていく度に選手がひとり、またひとりと去っていく中で、中村が肩を叩かれることはなかった。シーズンへの準備期間である1カ月が過ぎ、中村の調子も上がってきた。そして、いよいよ開幕という時になって、中村とロースター枠を争っていた「助っ人枠」のピッチャーが、韓国だか台湾のチームに引き抜かれていった。保有権を離そうとしない球団に対し、アジアで見つけた好待遇を諦めてなるものかと、その投手は練習をボイコット。球団は致し方なくその選手を手放すことにした。空いた枠には中村が滑り込んだ。

メキシカンリーグで「日本人初の最多勝投手」に

(グアダラハラ球団提供)
(グアダラハラ球団提供)

 2021年のメキシカンリーグは、例年より遅れて5月下旬に開幕した。前年はコロナ禍でシーズンがキャンセルされたため、2年ぶりの開催だった。5月20日に強豪モンテレイ・スルタネスとモンクローバ・アセレロスの対戦でシーズンの幕が切って落とされ、中村の在籍するマリアッチスは翌21日に他の球団と共にシーズンのスタートを切った。前日、12対3の大勝で華々しく船出を祝った新球団は、2戦目の先発マウンドに中村を送った。

 相手は弱小チームのドゥランゴ・へネラレスだったが、対戦相手の印象は中村の記憶にはない。そもそもどのチームが強いのか弱いのかなども全く分からないから相手を意識しようもない。ただ目の前の打者相手にひたすら投げるだけだった。本拠を同じくするウィンターリーグのチームは人気チームだと聞いていたのでさぞかし客の入りもいいだろうと思っていたのだが、その予想に反してスタンドがさみしかったことだけが印象に残っている。

 5回を自責点4、フォアボール3つ。ホームランも1本食らった。日本やアメリカなら先発投手の役割を果たしたとは言えない結果だったが、打高投低のメキシコでは、十分合格点と言って良かった。実際、初回に3点を先制してもらいながら3回に逆転を許したが、味方打線は5回までに逆転。8回にはダメ押しの6点を奪い、14対7というメキシコらしいスコアでマリアッチスが連勝を飾った。中村にも早速勝ち星が転がってきた。

 その後も似たようなピッチングが続いた。きちんと抑えていたわけではなかったが、投手不足なのか、ローテーションから外されることはなかった。そして、一旦先発のマウンドに登れば、100球前後投げない限りは降板させられることもなかった。

「最初のうちは、当たり前のように4、5点取られてました。とにかく100球前後で5回まで投げれば、僕が打たれた以上に味方が打ってくれて、それで勝ち投手になったみたいな感じでした。とにかくマリアッチスは100球目途で先発投手は交替でした。優勝がかかった首位攻防戦の時だけですね、ちょっと多めに投げたのは。それに日本と同じ中6日で回してくれてたんで、100球ちょっと超えたぐらいなら、次の登板には影響なかったですけど」

 シーズン当初、チームのエースはメジャー経験もあるアンソニー・バスケスというサウスポーだった。アメリカ生まれのバスケスだったが、メジャーの舞台から去った後は、メキシコを主戦場とし、冬も強豪チーム、クリアカン・トマテロスの屋台骨を背負っていた。剛球投手というわけでは決してなかったが、完成度の高い大人のピッチングで相手打線を翻弄する姿は、マリアッチスでもエースの座にふさわしいというのがチームの一致した見解だった。

 一方、シーズン前は、「予備の助っ人」という扱いだった中村だったが、キャンプを通じてチーム内の地位を高めていった。そして開幕後、勝ち星を重ねていくにつれ、自分の扱いが変わっていくのを中村自身も感じた。

「最終的にはアンソニーと並んで左右のエースくらいの位置にはいけたんじゃないかな」

 コロナ禍での72試合という短いレギュラーシーズンにあって、中村はローテーションを守り、9試合に先発。負けなしの8勝を挙げて最多勝に輝いた。チームも創設1年目にしてポストシーズンを勝ち抜き、地区優勝決定シリーズで、年度チャンピオンに輝いたティファナ・トロスに敗れたものの、18チームあるリーグにあって4強に名を連ねた。

 最初は、未知の国からやって来た日本人に好奇のまなざしを送るだけだったメキシコのファンも、中村が「不敗神話」を積み上げていくにつれ、日本からやって来たサムライ投手を受け入れるようになっていった。

「ファンもだんだん名前を覚えてくれて。声がかかるようになるんです。上がりでベンチにいても、『ナカムラ!愛してるぞ』みたいな(笑)。球団がはちまきも作ってくれたんです。タダで配ったのか、売り物なのかは分かりませんけど。スタンドでそれつけて応援してくれるお客さんも結構多かったですね。ビジターでも、メキシコシティは日本人の方もそこそこいたんで、試合終わってから、観客席から写真撮ってとか言われました。だんだん結果を残すようになると、メキシコ人からも写真を求められるようになりました。でも、プライベートな時間にはそういうことはなかったですね。野球の人気がそれほどでもないんで、まず気付かれることがなかったですから」

 かつてはアメリカメジャーリーグと対抗した歴史を誇るメキシカンリーグだが、現在はマイナーリーグのひとつとみなされている。選手の報酬は、トップ選手でも年俸2000万円に届くことはない。当然、プレーする選手の視線の先には、メジャーリーグをはじめとする国外リーグがあるのだが、シーズンが始まれば、選手たちはプレーオフ進出、ポストシーズンでの優勝を目指して必死に戦う。新生球団マリアッチスは、強力打線がチームを引っ張り、46勝17敗のリーグ史上最高の.730という高勝率で北地区のペナントレースのゴールテープを切った。

「僕も個人成績っていうよりチームの優勝という気持ちでした。チーム全体を見ても、みんなももちろん数字を残したいっていう気持ちはあると思うんですけど、チームの勝利への気持ちが上回っていましたね」

 この年のメキシカンリーグは、ポストシーズン常連の人気チーム、モンテレイ・スルタネスが不振だったものの、マリアッチスは、今やそのスルタネスと人気ナンバーワンを争う新興球団、ティファナ・トロスと南地区最高勝率を記録した名門、メキシコシティ・ディアブロスロッホスと「三強」を形成した。この2チームはやはり、中村にとっても別格だったようで、強く印象に残っているという。

「ディアブロスとティファナはやっぱり強かったですね。とくにディアブロスは球場も新しくて清新な感じがしましたね。ティファナの球場は、いかにもメキシコって感じの雰囲気でした。両方ともお客さんもいっぱい入っていたんで、ビジターゲームでも投げていて楽しかったですね。とくにティファナは必ずと言っていいくらい満員だったんで、ガラガラのグアダラハラより楽しかったですね」

 メキシカンリーグの「優勝」は、ポストシーズンで決まる。レギュラーシーズンの勝率はポストシーズンへのチケットに過ぎない。半数以上のチームが参加するポストシーズンでは「下剋上」は当たり前なのだが、ファンも選手もそういうものだと、それに異議を唱える風もない。史上最高勝率を残したマリアッチスは、順調にプレーオフを勝ち上がり、地区優勝ステージまで駒を進めたが、2勝4敗でライバルのティファナの前に屈してしまう。ここで中村の人生最高のシーズンは終わった。挙げた勝ち星は、日本で挙げた最高の数字と同じ8だった。最多勝と最高勝率のタイトルを手にした。賞金や賞品が出たわけではないが、メキシコでつかんだ『手ごたえ』がなによりの「御褒美」だった。

「賞金は出るっていう話も耳にしましたが、結局何もなかったですね。来年もメキシコでやりますってなっていたら、なにかもらえたかもしれませんが(笑)」

現在はチームのGMとしても奔走している(筆者撮影)。
現在はチームのGMとしても奔走している(筆者撮影)。

(続く)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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