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「ダルビッシュ2世」が北海道を離れて出会った「ベースボール」

阿佐智ベースボールジャーナリスト
中村勝監督兼投手(士別サムライブレイズ)(筆者撮影)

 ゴールデンウィーク最終盤の5月7日、北の大地に球春が訪れた。日本最北の独立リーグチーム、士別サムライブレイズが石狩レッドフェニックスを迎えてのホームゲーム。開幕のマウンドには、去年までプロ野球(NPB)の舞台に立っていた中村勝の姿があった。高校時代「埼玉のダルビッシュ」の異名をとり、2009年秋のドラフト1位で日本ハムに入団した中村はそのクールな風貌から「ダルビッシュ2世」とも呼ばれた。1年目に早くも一軍デビューを果たし、初勝利を挙げ、プロ5年目には先発投手として8勝を挙げるなど、その野球人生は順風満帆かのように思えた。しかし、このシーズンをピークに彼のパフォーマンスは下降し、9年目に未勝利に終わると、NPBの舞台から去ることになった。

 そんな男が、31歳になる今シーズンを独立リーグで迎えている。昨年の独立リーググランドチャンピオンシップで記録的大差での敗戦を重ねた「最弱」リーグでの登板とあって、スタンドのファンは快投を期待したが、その期待に反して、2回に先制を許すと、4回には押し出しを含む3四球を与え、この回限りで降板した。不甲斐ないピッチングではあったが、チームはこの後逆転勝利。連覇に向けて好スタートを切ったことの方が中村にとっては大きかった。現在、このチームの監督を務めている彼にとっては、自身のピッチングよりも、チームの勝利の方が関心事なのである。逆に言えば、自らのプレーはおまけ、あるいはファンサービスに近いものなのであるが、キャンプ開始以来、チームの把握に全力を傾け、練習もろくにできなかった中村にとって、いくら「弱小」リーグとは言え、本番のマウンドは酷だったのかもしれない。

 体力的にはまだまだプレーできる年齢である。にもかかわらず、独立リーグの指導者のオファーを受けたのは、タイミングだった、という。昨年限りでオリックスを自由契約となり、今後について考えている最中に、かつて在籍していた日本ハムの関係者から、古巣の本拠である北海道の独立リーグでの指導者の話が舞い込んできたのだ。

「ウィンターリーグでプレーしようと思えば、多分行けたんですけど、一度経験したでしょ。それで何か気分が乗ってこなかったんです。どうしようかなっていう中で、違う経験がしたくなって、そこに士別からのオファーが来たんです。それでそっちのほうが面白そうだなってことで、お世話になることにしました」

日本ハム退団後、「野球ではない」環境を求めて海外へ

国外で経験を語ってくれた中村(筆者撮影)
国外で経験を語ってくれた中村(筆者撮影)

 日本ハムを退団した3年半前を中村はこう振り返る。

「もちろん、続けたいなっていう気持ちはあったんでけど、プロの世界に10年もいたら、わかりますよね。自分の現状で(NPBに)戻れるかどうかってのは」

 プロ野球選手のほとんどは、ものごころついた時から野球漬けの毎日を送っている。それこそ、休みは盆と正月の数日ということも珍しくはない。

「大会に早々と負けたんで高校の修学旅行は行けましたけど」と中村は言うが、彼もまた御多分にもれず、休みなしの生活を送ってきた。プロ入り後も、ファイターズじたいが自主トレをよく行うチームだっただけにオフもゆっくりしたという記憶はなかった。

 当時28歳。ようやく息つける毎日を手に入れた中村だが、「その次」がなかなか見つからなかった。

「あんまりお金を使うタイプではなかったんで…。一応それなりの蓄えはあるんです。だから、すぐ働こうっていう感じにもなりませんでした。久しぶりに時間できたんで、自分のためにゆっくりしたいし、違う環境の中でいろいろ経験したいなって…」

 中村は時を同じくして退団した広報スタッフ、青木走野に連絡を取った。高校時代をオーストラリアで過ごし、アメリカのクラブチームや、日本の独立リーグでのプレー経験のある青木は、自ら培った語学力を生かして海外でのアスリートのマネジメントをなりわいにしようと模索していた。そこに飛び込んできた中村からの連絡に彼は即座に応えた。

「とりあえずオーストラリアに行こうよ」

 自らが高校時代を過ごしたオーストラリアへの留学を進めてきた元同僚の誘いに中村はのることにした。

「僕の中では、違う経験じゃないですけど、英語の学校行ったりとか、海外の生活に興味あったので行ったっていうのが正確なところですね。高校時代は英語なんて全然できなかったんですが、しゃべれたらかっこいいなとか、憧れはずっとありました。でも、なんせバカだったんで(笑)。野球はたまたまそこにあるからやってみたってだけでした。だから、ガチで野球を続けたいっていう気持ちは全然なかったですね」

「草野球」からのプロ復帰

 オーストラリアに腰を据えるつもりだった中村は、現地での労働をしながらの長期滞在が可能なワーキングホリデービザを取得した上で渡豪し、まずは英語学校に通うことにした。

学校には、日本だけでなく、韓国や台湾といったアジア各国、それにコロンビア人など南米系と世界各国から人々が集まっていた。オーストラリア人の教師による授業は無論のこと英語オンリーだった。クラスメートから日本での前歴を尋ねられ、「プロ野球選手だ」と答えたが、その反応ですら野球漬けの毎日を送っていた中村には新鮮に感じられた。

「一応すごいなっては言ってくれるんですけど。やっぱり、国によって人気不人気があるでしょ。だから反応もまちまちなんですよ」

 中村が拠点をおいたゴールドコーストは、日本人にもおなじみのリゾート地で、留学生も多い土地柄だ。かつて中日がキャンプを張ったこの町のクラブチーム、サーファーズ・パラダイスは日本人を多く受け入れている。

 地元野球関係者は、現地のアマチュアリーグを「草野球」と揶揄するが、この国には軟式野球はない。日本でプロの一軍も経験した中村の目から見ても、やはりそのレベルは高くなかったが、プロアマの境が曖昧なこの国では、11月から2月に行われるプロリーグ、オーストラリアン・ベースボール・リーグ(ABL)でプレーする選手も、この「草野球」に顔を出す。

「向こうでは年中野球やってるんですよ。『草野球』のメインシーズンは冬。季節が日本とは逆なんで、夏にプロのウィンターリーグが行われるんですよ。だから、あっちで野球やってる若い子たちは、冬のリーグなんてダサいぜみたいな感じらしいんですよね」

 「草野球」では、中村は無双だった。プロ選手も参加するリーグ戦での活躍と日本でのプロ経験を地元プロチーム、ブリスベン・バンディッツが見逃すはずはなかった。中村の渡豪と時を同じくして起こった新型コロナのパンデミックにより、ABLは2020-21年シーズンの国外からの選手受け入れを断念した。国内の野球人口が少なく、例年、各チーム主力選手の多くをインポートと呼ばれる外国人選手に頼っていたABL各チームにとって、「助っ人」獲得は喫緊の問題であった。地元アマチュアリーグで投げている日本のプロ経験者の若者の存在がバンディッツに知れるのに時間はかからなかった。

「オーストラリアには勉強しに行ったんですけど、野球するからにはABLを目標にっていう考えも一方ではあったんですね。だから僕の方からも、バンディッツとつながりのある日本人の方を通してアプローチはかけたんです」

ABL時代の中村(青木走野氏提供)
ABL時代の中村(青木走野氏提供)

 「草野球」シーズンが終わろうとしている9月下旬、中村はバンディッツと選手契約を結んだ。プロ契約と言っても、兼業選手も多いこの国では、月給をベンチ入り登録日数に応じて日割り計算でもらうというものだった。

契約後、決勝戦のマウンドに立った中村は、チームの優勝を置き土産にして、プロの世界に舞い戻った。

 しかし、ABLでのプレーはあくまで留学の延長線上からはみ出ることはなかったと中村は言う。

「レベルで言ったら、めちゃくちゃ高いかっていったらそんなことはなかったですしね。NPBのファームの方がABLより高いんじゃないですかね。アメリカとかからのインポートで大分底上げされてるなっていうのは思います。現地の選手のほとんどは野球で生計を立ててるわけでもありませんし、オーストラリア人でガチでやりたい選手は、アメリカでプレーして、オフに帰ってきてABLでもプレーするって感じでした。まあ、楽しかったですけど、だからNPBに戻りたくなったとか、そういう気にはまだならなかったですね。1回クビになった29歳をNPBの球団が欲しがるかって言うと、絶対そんなことないって思っていましたから」

 中村はABLで6度マウンドに立った。その内先発は4回。1勝3敗、防御率5.66、奪三振31という数字は、「二軍以下」のリーグにあって褒められたものではなかったが、数字以上に自分の感覚が良くなってきていたことを中村は実感した。パワーの半面、スイングの荒いオージーたちと対戦している間に、技術的にも成長している自分を感じた。

「やっぱ、結果が出て、自信が付いて、どんどんうまくなっていけるっていうのは、すごく感じましたね。よくレベル高いところでプレーするのがいいって言いますよね。それって絶対大事だと思うんですけど、日本でプレーしている時は、目の前の結果が気になって、今ある全部をしっかりぶつけないとみたいな感じだったんです。でも、オーストラリアに行って、野球の感じが違うっていうのもあるんですけど、最初かなり落ちるレベルでやっていたんで、そこでは練習と同じようなことができました。ABLは当然それよりかなりレベルも上がってくるんですけど、やっぱり一段低いところで成功体験を重ねることによって、自分のイメージ通り動けるようにとか、メンタル的な部分でも余裕が生まれてきたんです。だからいろんなことを試せましたね」

 余裕ができれば視野も広がる。中村は、始めて体験する国外でのプレーという新鮮体験を存分に楽しんだ。そこで展開されていたのは、「野球」ではなく「ベースボール」だった。

「やっぱり違うんですよ。日本だと、なにかと謙遜しないとだめじゃないですか。ちょっと調子に乗ると、『あいつ自信過剰なんじゃねえの』ってなるでしょ。そういう点で海外は自由ですよね。オーストラリア人なんか、全然練習してないのになぜか自信だけはめちゃくちゃあるんですよ。それで、試合で結果出なかったらめっちゃ怒るんです。僕からしたら、『いやいや、お前らまず練習してねえだろう』って思うんですけど(笑)。でも、自信持ってプレーしているっていうのはいいことだなとは思います。暴投投げて、明らかに自分悪いのに気にもしていないし。日本とどっちがいいっていうことは言えないですけど、気にし過ぎないっていう部分では、彼らの姿勢はすごいいいことだなとは思います」

 そういう自由な気風の下、プレーしているうちに中村自身にも次第にポジティブ思考が身についていった。

「あんまり謝らなくてよくなりましたね。日本にいたときには、なにかとごめんって言いがちになってましたけど、あんまりプレー中に謝らなくなりましたね。もちろん日本の野球は何事もきっちりしてるし」

 そういう体験は、独立リーグの指導者となるにあたって糧となっている。

「日本では、指導者は駄目出しが仕事って感じですが、海外では、選手ができていることに対して褒めるっていう方向性なんです。それって、選手のモチベーション作りにあたって、すごくいいことだなっていうふうに思いましたね。

独立リーグという場で野球を続ける選手って、まず野球が好きという気持ちでプレーしていると思います。でも、一方でこのレベルの選手の中には、周りの目を気にしすぎの子も多いんですよね。だから、僕としては、指導というよりかは、彼らのプレーを見てなるべくポジティブな言葉をかけていきたいなって考えています。

独立リーガーに駄目出ししたらきりがないでしょう。だからやっぱりそこは褒めてあげるほうがいいと思うんですよね。彼らの中には、うまくはまれば伸びる可能性をもっている子もいると思うんですよ。僕だって、一度NPBをクビになって、普通ならもう戻れませんよね。自分でも勝手にそう思っていたんですけど、実際に戻れたんです。やっぱ、続けないと何が起こるか分からないんです。彼らもそう。とにかく野球を続けてくれて、うちのチームに来てくれて、今年1年間プレーしてくれるわけですから。もちろん彼らが伸びるためには、言わなきゃならないことは言うつもりですけど、とにかくここで野球やって良かったなっていうふうに思わせるように導いていけたらなって思いますね」

中村が、そういうポジティブなコーチングをさらに意識したのは、オーストラリアから帰国後、メキシコでプレーした時だった。

「メキシコ時代のピッチングコーチを僕はすごい尊敬しているんです。ベネズエラの方だったんですけど、その方、投球練習で全然良くなかっても、とにかく褒めてくれるんです。『全然いいんだ。低めにいってるだろ』とか。引っかけた球を投げちゃっても『抜けてしまうくらいだったら全然そっちのほうがいいから』って。そうやって褒められているうちに、僕もマイナスに考えなくなってきて、だんだん良くなっていきましたから」

(続く)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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