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「最初の『日本人』メジャー野手」になれなかった男が語る壮絶野球人生

阿佐智ベースボールジャーナリスト
(社会人野球の名門、川崎製鉄(現JFE)の主力打者だった金森潤熙,本人提供)

 指定された喫茶店に現れたその男は杖をついていた。車の運転には支障がないと笑うが、その姿を見て、彼がかつて「メジャーリーガー候補生」だったと思う者はいないだろう。その男、金森潤熙(じゅんき)は四半世紀前、アメリカの土を踏み、マイナーリーグのプロスペクトとして活躍していた。

「エースで4番」田舎の天才野球少年の挫折

 愛媛県宇和島市で生まれ育った彼が野球に出会ったのは、小学校に上がる前後のことだという。7つ年上の長兄から渡されたカラーバットを一振りすると、打球は左中間方向に飛んでいき、公園のフェンスを越えていった。

 この頃、1970年代の日本にあって、野球は圧倒的な人気を誇っていた。多くの少年がそうであったように、金森少年もテレビのブラウン管から流れる巨人戦の主役であった王貞治に憧れを抱くようになった。「世界のホームラン王」の背中は遥か遠くにあるに違いないのだが、白球を追いかけていくうちにその背中が少しずつ近づいていくように少年は感じた。

 高校野球の名門、松山商業に進む頃になると、彼を「ドラフト候補」であることを疑う者はいなくなっていた。1年で早速レギュラーポジションを掴み、2年の夏には甲子園の土を踏んだ彼の先には明るい未来が拓けているように思えた。

 しかし、現実は厳しかった。彼と同じような金の卵は日本中に散らばっていたのだ。

 彼がその対象となる1989年秋のドラフト会議は、新日鐵堺の野茂英雄に1位指名が集中した、まさに野茂のためのドラフトと言ってよかった。目玉の野茂は、近鉄が指名権を獲得し、野茂をくじで外したダイエーが高校世代の注目株だった元木大介を「外れ1位」で指名した。しかし、巨人入りを公言していた元木は野球浪人の道を選ぶことになる。この他、のち2000安打を達成する前田智徳(広島4位)、メジャーでも活躍し、現在日本ハムの監督を務める新庄剛志(阪神5位)、元木の同級生でプロ入り後「ガニマタ打法」で一世を風靡した種田仁(中日6位)、巨人から近鉄へ移籍し、「いてまえ打線」の中軸を担うことになる吉岡雄二(巨人3位)らの高校生が指名を受けたが、金森の名が読み上げられることはなかった。

 ドラフト外でどうだという誘いはあったが、これは断った。社会人野球からすでに内定をもらっていたからである。母校の進路指導でも、将来のことを考えて無難な実業団入りの方がリスクが少ないということだった。

「実業団が先に内定させてくれと言ってきたんです。ドラフトが駄目なら来てくれと。高校もどちらかといえばプロには行かせないというスタンスだったんです。まずは大学とか社会人に進みなさいと。高卒でプロに入っても、つぶれてしまった後のつぶしが利かんだろうと。大学とか社会人でワンステップ置いたほうがいいという考えやったんです」。

 大学進学という選択肢もあったが、次のドラフトまで4年待たねばならない大学よりも最短2年でプロに行けるだろうと、金森は社会人の強豪、川崎製鉄に進むことにした。当時、この企業は千葉、神戸、水島と3チームを保有していたが、金森は神戸に所属することになった。

 社会人野球でも主軸を任されたが、プロからはなかなか声がかからなかった。

 そのうちバブルを謳歌していた日本経済にも不況の足音が聞こえてきた。5年目のシーズンとなった1994年、秋の日本選手権ベスト4を花道に所属していた川崎製鉄神戸野球部は解散してしまう。この年も、スカウトから声はかかったものの、結局指名はなかった。チームからは、後輩の寺本比呂文が西武から、先輩の豊田次郎がオリックスから指名を受けた。野球を辞めることも頭をかすめたが、主軸を任されていた金森は水島野球部への転籍を選んだ。金森は、その後も2シーズンの主力打者として活躍したが、それでもプロから声がかかることはなかった。社会人野球で7シーズン。25歳になった金森はユニフォームを脱ぐ決意をした。チームからは残留を求められたが、都市対抗予選敗退をもって金森は、会社に辞表を提出した。

「プロに行きたいっていうのがずっとあって社会人に進んだもんですから。もう年齢的にドラフトも難しいと思ったんで続ける意味もないかなと。それで会社も辞めることにしました。もう、見えてるんです。大企業へ入って、会社に金借りて家を建てて、結婚をして、子供を育てて定年までというのが。まだまだプレーもできましたけど、やっぱりそういういろいろなものが見えたときに、会社と野球だけの人生はもういいかなって思ったんです」

引退決断が一転。メジャーリーガー目指してアメリカへ

 金森は高校時代の監督に退社を報告に行った。そして、自らの現役生活のけじめとして、シーズンオフにプロ球団の入団テストを受けるつもりであることも告げた。それで駄目なら、もう野球には未練も残らないだろうと考えたのだ。その報告を聞いた恩師は意外なルートからプロテストの話を繋げてくれた。社会人野球でも指導経験のあるその恩師の古巣の同僚がオリックス・ブルーウェーブのGMに転身していたのだ。

「高校時代の監督が、井箟(重慶, 1990-2000年オリックス球団代表)さんに連絡してくれたんです。それで、オールスター休みの期間においでっていうことになって…。神戸に行って、3日くらい二軍の練習に参加しました」

 若い選手の多いファームの練習に参加して金森は自信を深めた。どう見ても自分の方が力が上だった。しかし、結果は芳しいものではなかった。納得のいかない金森は、当初どおりシーズン後に再びどこかの球団のトライアウトを受けることに決めた。

 そんな金森のもとに再び恩師から連絡があった。金森が他球団のトライアウトを受けるつもりであることを知った井箟からの伝言だった。

「シアトルマリナーズのスカウトが来る。アメリカでやってみないか」

 1996年夏の終わり。イチロー擁するブルーウェーブは2年連続のパ・リーグ制覇を目指して日本ハムファイターズとデッドヒートを繰り広げていた。東京のホテルに出向いた金森の前には、井箟とともに前年までブルーウェーブの投手コーチを務めていたジム・コルボーンの姿があった。

「来年の春、アリゾナでキャンプがある。来るなら受け入れる」

コルボーンのその言葉に、金森はアメリカに渡ることを決意した。渡航費用は自腹。アリゾナまで来ればキャンプ中のホテルと食事は球団が面倒を見る。選手契約に至れば、ビザを用意し、給料も支払うという条件だったが、金森は受け入れた。いわゆる招待選手でもない。要するにテスト生だ。翌1997年、1月下旬、金森はロサンゼルスに向け旅立った。前年にロッテをリリースされた中山雅幸(1993年ドラフト4位)という選手も一緒だった。用意された練習場所で体を作ってから、2月中旬、アリゾナに乗り込んだ。

(自らの道のりを振り返ってくれた金森潤熙氏)
(自らの道のりを振り返ってくれた金森潤熙氏)

重い十字架のようにのしかかった出自

 金森は、自分が日本でプロという夢を叶えられなかったのは、自らの力量が足りなかったからだとは思っていない。

「『キン』という名字は私にとってマイナスでしかなかったですね。『日本人』だったら、間違いなく、プロに進めていたと思っています」

 大日本帝国支配下の朝鮮から渡ってきた祖父は、どういうわけか愛媛の宇和島に根を下ろした。金森の父もそこで生まれ育った。その頃から「金森」姓を使用していたものの、小さな田舎町のこと、金森家が「朝鮮人」一家であることは周知の事実だった。

 今思えば、確かに食生活はコリアン色が強かったが、とくに民族教育を受けたわけではない。人口の少ない田舎町にはコリアンコミュニティも存在していなかった。

 しかし、金森の両親は、彼が幼稚園に入園したときから、「きん・ゆに」を名乗らせた。

「親はずっと『金森』を使っていたんですけれども、もうそんな時代じゃないから本名でいけということだったんじゃないかなと思います。その頃はまあ、下の名前しか言わないですからあまり気にはならなかったですけど。でも小学校に上がる頃になると、自分が外国人だって少しずつ意識させられるんです。名前を言ったとたんに大人たちの顔色は変わるんです。弱かったらいじめられたでしょうが、小学校時代にもう180センチ近く身長があって、やんちゃ坊主で空手もやって、ガキ大将みたいな感じでしたから…」

 しかし、いくら自身を「日本人」と規定しようとしても、この時代の在日コリアンの少年たちは、「指紋押捺制度」により自分が「外国人」である事実をいやがおうでも突きつけられた。当時、16歳以上の在日外国人には定期的に役所に行き、外国人登録証明書への指紋押捺を義務付けられていた。

「嫌な思いはずっとですよ。もう、名前が『キン』というだけで、友達も、友達の親からもそういう視線を浴びせられましたから。女の子とかと付き合うことになっても、もう、名前がわかった時点で親から『あの子と付き合ったら駄目』って。それからは避けられるようになりました」

 差別と向かい合いながらも、その厳しい現実を恵まれた体格と生まれ持った運動神経が多少なりとも解消してくれた。ソフトボールを始めた金森の存在はやがて地元の野球関係者の知るところとなり、硬式のボーイズリーグのチームからスカウトされ、本格的に野球に取り組むことになった。ポジションはプロ野球選手の誰もがそうであったように「エースで4番」の「二刀流」だった。6年生の時、チームは全国優勝を果たすが、その時の相手には、元木大介の姿があった。

 しかし、中学校に進んだ時、金森は「在日」として最初の大きな壁にぶち当たる。ここでもボーイズリーグで優勝し、アメリカへ遠征する日本代表選抜チームの候補になったものの、最終リストに「金潤熙」の名はなかった。

「国籍ではじかれたと聞きました。控えの子が代わりに行ったんです。ルールとして国籍の制限があったわけではなかったんですが、やっぱり名字が一番引っ掛かったんじゃないですか。『行くぞ』と言われていたのが、駄目になったんです」

 金森は、高校時代の春のセンバツに出場できなかったのも、その名のせいだと思っている。前年秋の四国大会でベスト4まで進みながらも彼の母校は出場を逃した。例年なら、4つあった四国の出場枠が、この年に限って3枠になり、松山商業はこの3枠に入ることはなかった。主軸を打っていた金森は4割をゆうに超える打率を残していた。

「絶対間違いないって言われてたんですけどね。まあ、もっとも本当の理由はわかりませんが。でもね、野球関係者とかいろいろな人と知り合っていくじゃないですか。そしたら、どうして『金』なんだ。上位レベルでプレーするのは無理だぞ、と言われるようになるんですよ。プロでも在日韓国人はいるけれども、みんな通名を使っているって。そういう時代ですよね。スカウトにも、いくら実力があっても本名を名乗っている限り採ってくれないと言われました。高校の監督も同じ意見でした。会社でも、入社したらなんの断りもなしに名字が『金森』になっていたんです。それで親子喧嘩になりましたね。親父は野球界のことなんて知りませんから。『台湾人の王(貞治・現ソフトバンクホークス会長)さんだって本名でやってたんだから、お前も王さんみたいな選手になったらいいやないか』って」 

 当時、夏の甲子園の時期に甲子園出場を逃した高校の在日韓国人選手による「在日同胞」チームが韓国の「夏の甲子園」にあたる「鳳凰大旗」に参加していたが、金森はその存在すら知らなかったという。

(つづく)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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