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半世紀の時を越えて大阪に戻ってくる「BH決戦」:1973年の「プレーオフ」を振り返る

阿佐智ベースボールジャーナリスト
「死んだふり」で阪急とのプレーオフに臨んだ野村克也・南海兼任監督(写真:岡沢克郎/アフロ)

 今日から、クライマックスシリーズ、ファイナルステージが始まる。セ・リーグはレギュラーシーズンの勝率が5割を切りながら、2位以下を大きく引き離し優勝したヤクルトに挑戦する阪神が「史上最大の下剋上」を果たすかに注目が集まっているが、一方のパ・リーグは、勝率で並びながら対戦成績で優勝を逃したソフトバンクが、最終盤の粘りで2年連続のマジックなしでの優勝を遂げたオリックスにリベンジを果たすかが話題になっている。

 この両球団の源流は、「在阪パ・リーグ」と呼ばれた、電鉄系の3球団に遡ることができる。1970年代前半には、強豪に成長しつつあった阪急ブレーブスと古豪南海ホークスが、70年代後半から80年代初頭にかけては、黄金時代を現出した阪急と、その阪急から「悲運の名将」・西本幸雄を招いた近鉄バファローズがパ・リーグの覇権を争っていた。昭和の終わり、ファミリーコンピュータの普及により野球ゲームが子どもたちの間で流行すると、この3球団は「レイルウェイズ」という架空の連合チーム(パ・リーグが悲しいほど人気がなかったこの時代、ゲームの世界ではセ・リーグ球団はそろっていたが、パ・リーグは黄金時代に突入していた西武以外のチームは架空の連合軍で編成されていた)で、セ・リーグの人気チームを圧倒していた。

 現在のポストシーズン制は、2004年にパ・リーグがレギュラーシーズン上位3チームによるステップラダー方式で「プレーオフ」を復活させたことに始まる。この時はプレーオフの勝者がリーグ優勝チームとされたが、2年連続で2位チームがリーグ優勝を果たしたため、この制度を巡って侃々諤々の議論が巻き起こった。このため、2006年には、5戦3勝制の第2ステージで1位チームに1勝のアドバンテージを与えることになった(結果的に4戦制)。翌2007年からはセ・リーグもポストシーズン制を導入。クライマックスシリーズとして現在に至っている。

 2004年以降、パ・リーグのポストシーズンにおいては、ホークスが常連として毎年のように顔を出す(昨年まで18回中15回出場)一方、長い低迷期に入っていたオリックスの方はほとんど出場することがなかったため(同3回)、両者が相まみえることがなかった。しかし、今年はファイナルステージでレギュラーシーズン同率1位の両チームがまさに雌雄を決することになった。「下剋上」が起こる度に廃止論が浮上するこの制度だが、こと今年のBH決戦に関してはその勝者の正当性について文句が出ることはないだろう。

 この両チームが、ポストシーズンで激突するのは、実に49年ぶりである。約半世紀前の1973(昭和48)年、リーグ優勝を決めるプレーオフで阪急ブレーブスと南海ホークスが決戦に臨んで以来のことである。

前後期制を敷いていたパ・リーグ

 1973年と言えば、巨人のV9(日本シリーズ9年連続優勝)最後の年である。スポーツ言えば、野球。プロ野球界では巨人が圧倒的人気を誇っていたこの時代、パ・リーグはみじめなほど衆目を集めることがなかった。その打開策として前後期制を採用。シーズンの盛り上がりを2度作り、さらには前後期各々の優勝チームによるプレーオフで人目を引こうとしたのだ。

阪急から近鉄に移り、両者の「頂上決戦」を実現させた西本幸雄監督
阪急から近鉄に移り、両者の「頂上決戦」を実現させた西本幸雄監督写真:岡沢克郎/アフロ

 この制度は1982年まで10シーズンにわたり採用されたが、この間、オリックス球団の源流である阪急ブレーブスと近鉄バファローズは2度対戦し、1勝1敗の痛み分けに終わっている。この対戦では、敗者の方がシーズン通算の勝率では上回っており、プレーオフによりシーズン通算の順位が入れ替わっている。また、南海と入れ替わるかたちで阪急が台頭、その後近鉄が力をつけてきたため、「バファローズ対ホークス」のプレーオフが実現することはなかった。

 前後期それぞれの優勝チームがプレーオフで雌雄を決するというのは、非常にシンプルでわかりやすいのだが、シーズンを通して考えれば、この制度には重大な欠陥がある。レギュラーシーズン通算勝率1チームがプレーオフに前後期どちらも制することができず、プレーオフに進出できなくなるケースが考えられるからだ。幸い、このような事例は起こらなかったが、一方で、レギュラーシーズン通算勝率1位にもかかわらず、リーグ優勝できなかった例は先述の近鉄(1975年)、阪急(1979年)など4度発生している。

そしてレギュラーシーズンの通算勝率が3位以下であるにもかかわらず、リーグ優勝を果たした「下剋上」が1度だけ発生しているが、これが野村克也監督率いる1973年の南海ホークスであった。

プレイバック1973

 終戦後から高度成長期の21年間で11度の優勝を誇った名門・南海ホークスだったが、高度成長の終焉とともに急速に勢いを失っていった。それに代わり台頭してきたのが、南海の黄金時代、「灰色の球団」と揶揄された阪急ブレーブスだった。

阪急は、1963(昭和38)年に監督に就任した西本幸雄の下、急速に力をつけ、1967年に初優勝を飾ると、リーグ3連覇。1970年は4位に沈んだが、翌71年から再び連覇を果たし、2度目の3連覇を目指して1973年シーズンに臨んでいた。前期シーズンは出遅れ、南海、ロッテに次ぐ3位に終わるが、後期に入ると、すぐに独走状態となり2位ロッテに5.5ゲーム差をつけて優勝を飾った。阪急は後期65試合だけで貯金24を記録したが、このうちの半数は南海戦で貯めたものだった。後期シーズン、阪急は対南海戦で12勝1分けと1度も黒星を喫することがなかった。

 一方の前期覇者の南海は、この阪急戦も響いてか後期シーズンは首位と13ゲーム差も離された同率3位に終わり、シーズン通算成績でも前後期とも2位のロッテの後塵を拝することになった。5戦3勝制のプレーオフは、南海の本拠、大阪球場で始まることになったが、下馬評は当然のごとくシーズン通算勝率1位チーム・阪急の圧倒的優位で、誰もが「常勝軍団」が3連覇を果たすものだと思っていた。

「南海が勝つ、というコンピュータがあれば、お目にかかりたい」と豪語する阪急・西本監督をよそに、正捕手でもあった南海・野村兼任監督は選手たちに「全部勝つ必要はない、2つまでは負けていい」と諭した。

 第1戦、この年対南海4勝負けなしの300勝投手のエース・米田哲也を立てた阪急に負ける要素はなかった。試合直後に福本豊が先頭打者ホームランを放った瞬間、もう阪急の勝利は見えたと誰もが思った。2回にも追加点を入れた阪急だったが、その裏に南海は米田に襲い掛かると、3点を入れ一気に逆転。続く3回にも1点を追加すると、主力投手の佐藤道郎、村上雅則、江本孟紀を惜しげもなくつぎ込み、勝利を手にした。

当時の南海のエース、山内新一
当時の南海のエース、山内新一写真:岡沢克郎/アフロ

 続く第2戦は、若き速球派サブマリン・山田久志の熱投で阪急が取ったものの、南海は終盤に猛烈な追い上げを見せ、後期の「弱さ」がウソだったと思わせるような粘りを見せた。その後、シリーズは阪急の本拠、西宮球場に舞台を移すが、オセロゲームのように南海は白星と黒星を交互に並べ、最終第5戦を迎えた。

 この大一番でも、両者の投手起用は対照的だった。阪急は山田を完投させたが、0対0で迎えた9回に、この年5本塁打した記録していない元メジャーリーガー、ウィリー・スミスと、レギュラーシーズンでは本塁打をゼロに終わった小兵のベテラン・広瀬叔功に連続ホームランを浴びてしまう。一方の南海は、この年巨人から移籍し、いきなり20勝を挙げた山内新一を立てたものの、無失点のエースを6回で交代、リリーフエースの佐藤に後を託した。そして、9回土壇場での先制の後、その裏、阪急が2アウトからソロホーマーで1点を返すと、ここで江本にスイッチ。まさに「石橋を叩いて渡る」リレーで、短期決戦を制した。

 後期シーズン全く阪急に歯が立たなかった南海の勝利に、野球ファンは「死んだふり」と口をそろえた。半世紀前、「下剋上」を果たした南海だったが、シリーズでは巨人の前に屈し、V9を目の当たりにすることになる。そして、南海がその後、日本シリーズに戻ってくることはなかった。ホークスが再び日本シリーズに姿を現した1999年、その舞台となった福岡ドーム(現ペイペイドーム)で指揮をとっていたのは、南海最後のシリーズを見届けた巨人のかつての主砲、王貞治だった。

 半世紀の時を経て、BH決戦が再び大阪の街に戻ってくる。壮絶なペナント争いを演じた両雄の勝負の行く末はどうなるのだろうか。ホークスのシーズン最終盤の「失速」が「死んだふり」だったのかどうかは、今日からの6日間でわかることだろう。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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