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来シーズンからのファイターズの「ボールパーク移転」を前に札幌ドームに思いをはせる

阿佐智ベースボールジャーナリスト
北海道日本ハムファイターズの本拠地、札幌ドーム

 来シーズンから北海道日本ハムファイターズのホームグラウンドとなるエスコンフィールドHOKKAIDOについてのニュースが相次いだ。ひとつは、ファイターズの選手による工事中の球場の見学会が行われたこと、もうひとつはこの新球場の目玉ともいえる可動式屋根の開閉の点検がなされたことだ。

 ファイターズの現本拠地、札幌ドームの竣工は21年前の2001年。ファイターズはここを2004年からホームグラウンドとしている。ファイターズは19シーズンで札幌ドームから去ることになるが、これはフランチャイズ球場の歴史としては果たして短いのだろうか、長いのだろうか?

日本のプロ野球のフランチャイズ球場の「寿命」は30~40年?

 日本のプロ野球におけるフランチャイズ制度は、戦後の1948年に試験的に導入されたのが最初のことである。これが1952年に正式に制度化され、プロ球団は専用球場をらもつことが定められ、その球場がある都道府県を保護地域として独占的に興行を行えるようになった。この制度に基づいて、これまで27の球場が事実上のプロ球団の本拠地として使用されてきた。「事実上」としているのは、かつて近鉄バファローズがホームゲームの大多数を消化していた日生球場のように、登録上は専用球場ではなかったが、主催ゲームの大部分を実施していた例があるからだ。

 また、フランチャイズ制度が整う以前に、巨人は後楽園、阪神は甲子園、阪急は西宮と事実上の本拠地をもっていた。さらに、戦後間もない時期、後楽園は最大5球団の、南海の専用球場として建設された大阪球場は3球団の本拠地を兼ねていた。これらも考えあわせた上で、特定球団が特定の球場を本拠地とした平均年数を割り出すと、22.3年という数字が出てきた。これが、日本におけるフランチャイズ球場の「寿命」ということになる。

 但し、元来地域密着性の薄かった日本のプロ野球にあって、1960年代前半まではまだまだフランチャイズ制は確立していたとはいえず、本拠地球場の変更は頻繁にあった。その一方で、球団創設以前から存在した甲子園球場は今年でタイガースの本拠として88年目、同じく「学生野球のメッカ」、神宮球場はヤクルトの本拠として59年目を迎えている。また、今はなき後楽園球場と西宮球場、そしてナゴヤ球場は、それぞれ巨人、阪急(オリックス)、中日という名門球団のフランチャイズとして約50年使用されていた。横浜スタジアム、ベルーナドーム(建設時は西武球場)といった昭和の終わりに建設された本拠地球場も40年を経過した今もなおその役割を担っていることを考えれば、日本におけるプロ野球の本拠地球場の寿命の目安は30~40年ほどといっていいかもしれない。

ファイターズの本拠地の系譜

 北海道日本ハムファイターズの系譜は、戦後の1946年に発足したセネタース(2代目)にさかのぼることができる。この球団は戦前に存在した初代セネタースの監督だった横沢三郎によって設立されたものだが、資金難のためたった1シーズンで経営が頓挫。シーズン後には私鉄大手の東京急行電鉄に譲渡され、東急フライヤーズとなった。このチームは1948年の1シーズンだけ、大映球団と合併して急映フライヤーズと名乗るが、この年にフランチャイズ制が試験的に導入され、後楽園球場を本拠地球場とした。 

 フランチャイズ制は1952年から正式導入されるが、この時点で5球団の本拠となっていた後楽園球場は、時として変則トリプルヘッダーが行われるなど、過密スケジュールに悩まされる。そこでフライヤーズの親会社・東京急行電鉄は1953年、自社沿線に駒澤球場を建設し、翌年から本拠地をここに移す。それと同時に、球団の経営も傘下の映画会社に委ね、東映フライヤーズとなった。

 東映フライヤーズは、その豪放磊落なチームカラーから「駒澤の暴れん坊」の異名をとり、1961年には名将・水原茂の招聘に成功し、優勝争いを演じるようにもなるが、駒澤球場は、東京都からの借地の上に建設されたという事情のため、1964年のオリンピック会場建設により、この年限りで廃絶することになった。

 「家」を失った東映は、当時学生野球専用だった神宮球場を「学生優先」を条件に本拠にすることに成功。学生野球が行われている間は、かつての本拠、後楽園を間借りすることで1962年シーズンを乗り切った。この年、東映は水原監督の下、チーム発足以来初の優勝を飾るが、日本シリーズでは主催試合3試合の内、2試合を神宮、1試合を後楽園で行っている。

「学生野球の聖地」に風穴を開けた東映だったが、1964年には続いて国鉄スワローズも後楽園から本拠地を移転。神宮のスケジュールを奪い合う結果となり、結局、東映が翌年に古巣である後楽園に戻ることになった。この後、東映は1973年に日拓ホームに球団を譲渡。日拓ホームはたった1シーズンでチームを手放し、この年のオフに日本ハムに再譲渡する。当時、日本ハムは大阪に本社を置いていたが、事業の全国展開を目論でいた親会社の意向により本拠地はそのまま後楽園とし、ニックネームはファイターズと改めた。

 その後、日本ハムは後楽園球場が取り壊される1987年までここを使用し、その隣に日本初の屋根付き球場・東京ドームが完成すると、1988年シーズンからここを新たな本拠とした。

 しかし、名門球団・巨人と本拠地球場を同じくする中、日本ハムは「じゃない方」のチームを脱することはできなかった。ドーム完成当初は、物珍しさもあり、セ・リーグの人気がパ・リーグのそれを圧倒する中にあっても、観客動員は12球団中、巨人に次ぐ246万人を記録したが、その数字はチームの低迷とともに年々落ちていった。1993年には福岡ドームを完成させたダイエー・ホークスにリーグ首位の座を奪われ、その翌年には200万人台を割ってしまう。その凋落傾向は変わることなく、チーム成績も2000年代に入るとリーグ3位と4位の間を行き来するようになった。その一方で、ダイエー、ロッテなど地域密着を掲げ本拠を移転した球団が観客動員を伸ばしていった。

北の大地にプロ野球を根付かせた札幌ドーム

 そこで日本ハム球団が決断したのは、北海道へのフランチャイズ移転であった。最大の都市・札幌にはすでに2001年に屋根付きの札幌ドームが完成しており、プロ野球の通年開催が可能になっていた。

 それまでは、札幌でのプロ野球は円山球場で開催されていた。1934年完成のこの球場では戦前の1942年にはプロ野球の公式戦が行われている。その後も冷涼な気候からいくつかの球団が夏の地方試合をここで開催し、またオフの日米野球も度々実施されていたが、寒冷地のナイター照明のないこの球場でシーズンを通してプロ野球が開催できるはずもなく。北海道のプロ野球ファンは、夏のイベントとして数試合の公式戦を楽しむのみだった。ここに全天候型のドームが完成したのだ。

世界でもまれなサッカー・野球兼用のドームスタジアム、札幌ドーム
世界でもまれなサッカー・野球兼用のドームスタジアム、札幌ドーム写真:築田純/アフロスポーツ

 もともと札幌ドームは、野球のためではなく、2002年に開催されたサッカーワールドカップの会場として建設されたものである。しかし、計画当初から、大会後の施設の継続的な運営のためには、試合数の少ないサッカーだけではなく、プロ野球のフランチャイズとなることが必要という認識があり、それゆえ、世界でもまれなサッカーと野球兼用のドームスタジアムというかたちで建造が進められた。当時、ワールドカップやプロサッカーの試合では天然芝が求められていた。しかし、屋根付きのドームでは芝生の育成は不可能である。そこで、サッカーのピッチは普段ドーム外で芝の育成を行い、試合開催時のみこれをドーム内に入れるという奇想天外な方法が採られた。

 ワールドカップに先立つこと1年前の2001年6月に開場すると、Jリーグ・コンサドーレ札幌の厚別公園競技場と並ぶホームスタジアムとして使用され、またそれまで毎年のように北海道での公式戦を行っていた巨人がそれまで円山球場で行っていた「札幌シリーズ」をここで開催するようになった。そしてワールドカップの行われた2002年からは、西武がここを将来のサブフランチャイズとすることを前提に主催試合を実施した。

 ここに日本ハムが、2003年になって本拠地の東京からの全面移転を発表した。「先客」の西武は当初難色を示したが、結局折れるかたちとなり、異なる都市圏へのフランチャイズ移転としては、1988年オフの南海からダイエーへの球団譲渡に伴う大阪から福岡への移転以来15年ぶりのフランチャイズ変更がなされることになった。

2004年アテネ五輪出場をかけたアジア選手権の開催された札幌ドームには満員の観衆が訪れた。
2004年アテネ五輪出場をかけたアジア選手権の開催された札幌ドームには満員の観衆が訪れた。

 移転決定後の11月、札幌ドームではビッグゲームが行われた。翌年に開催されるアテネ五輪の出場枠をかけたアジア選手権が実施されたのである。「ミスタープロ野球」・長嶋茂雄率いる日本代表は、中国、台湾を破り決勝に進出。最大のライバル・韓国相手に2対0の完封勝ちを収め、満員の観衆の前で五輪行きを決めた。この時の日本代表のメンバーには、翌年からここを本拠とするファイターズの4番、小笠原道大の姿もあったが、まだこの時は、札幌のファンにとって彼はなじみの存在ではなかった。北海道では、毎年遠征にやってくる巨人の人気が圧倒していたのだ。

 それでも、ファイターズは地域密着を掲げ、北の大地に根付いていった。移転後3年目の2006年にはリーグ優勝を果たし、その勢いのまま日本シリーズも制した。3年前に長嶋ジャパンの歓喜に沸いた札幌ドームは、それ以上の熱気に包まれた。

 札幌移転後の日本ハムは、パ・リーグの強豪にのし上がり、その後4度リーグを制した。そして、北海道移転後2度目の日本一となった2016年には、観客動員は東京ドーム時代の1993年以来13年ぶりに200万人を突破。日本ハムは完全に北海道になければならない存在となった。

 しかし、日本ハムと札幌の蜜月もここまでだった。ここ数年のチームの低迷は、両者の溝を浮かび上がらせた。日本ハム球団と札幌ドーム間の契約についてはここでは詳らかにするつもりはないが、2018年11月、日本ハム球団は正式に札幌市の南隣の北広島市での新球場建設と移転を発表した。

威容を現した「ボールパーク」と短命に終わった本拠地としての札幌ドーム

威容を現した新球場・エスコンフィールドHOKKAIDO
威容を現した新球場・エスコンフィールドHOKKAIDO

 新球場・「エスコンフィールドHOKKAIDO」は、来シーズン開幕に合わせて開場予定である。単なる観戦の場ではなく、場内に回遊性を持たせ、様々なエンタテインメントを提供する「ボールパーク」様式のスタジアムで、フィールドは天然芝となっている。これを養生するため、開閉式の屋根を備えている。さらには場内に温泉施設まで備えているという、これまでの日本の球場の常識を打ち破る「夢の球場」となる。

 一方の札幌ドームは、今シーズン限りで19年という短いフランチャイズとしての役目を終える。

 今年で最後というので、久々に足を運んだ。ここを初めて訪れたのは、2003年のアジア選手権の日本代表戦のことだった。当時スタンドのファンの多くは、ジャイアンツのユニフォームをまとっていたが、その3年後の日本シリーズではスタンドは360度ファイターズファンで埋まっていた。今シーズンは、その北海道移転後初の日本一を置き土産にファイターズのユニフォームを脱いだ新庄剛志BIG BOSSが帰ってきたこともあり、ゴールデンウィーク中の試合は満員だった。日本ハム球団が移転を決断したとあって、とかく評判のよろしくないこのドーム球場だが、実際足を運んで見ると、居心地は決して悪くはない。確かに多くの席で死角が生じるが、他球場でも、どの席からもフィールドの隅から隅まで見通せるというわけではない。ファールゾーンの広さを指摘する声も多いが、それがデメリットになるのは内野席の最前列付近だけで、その分、多くの席からはフィールドを俯瞰できる。

札幌ドームでファイターズの雄姿を見ることができるのもあとわずかだ。
札幌ドームでファイターズの雄姿を見ることができるのもあとわずかだ。

 残り4カ月弱。札幌の野球ファンには、北の大地にプロ野球を根付かせた札幌ドームを堪能してほしいと切に思う。

(キャプションのない文中の写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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