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新球団、台鋼ホークス誕生、15年ぶりの6球団体制へ。台湾プロ野球興亡の歴史

阿佐智ベースボールジャーナリスト
新球団の本拠地と噂される高雄・澄清湖球場

 3日、台湾プロ野球CPBLに新球団が発足するというニュースが各メディアを通じて流れた。台湾鉄鋼最大手の台湾鋼鉄グループがリーグを統括する中華職棒大聯盟(CPBL)に加盟意向書を提出したという。新球団名は「台鋼ホークス」。日本に同名の野球チームをもつ、ソフトバンクが出資するという噂も飛び交っている。台鋼グループは、2019年に社会人サッカーチームのスポンサーとなり、昨年にはバスケットボールにも進出している。今回は満を持してのプロ野球参入というわけだ。

 今回の台鋼グループの参入がスムーズに進めば、今年のドラフトに新球団は参加可能で、来年には二軍戦参入、2024年シーズンからの一軍ペナントレース参加という道筋が見えてくる。台湾プロ野球は、長らく4球団制が続いていたが、この球団数だとシーズンの盛り上がりに欠けてしまう。そこでリーグ当局は拡大策に舵を切り、2019年には、リーグ発足時の「オリジナル4」のひとつ、味全ドラゴンズの復活を発表。翌年のファームリーグ参入に続いて、昨年からはトップリーグ復帰を果たした。このチームは、復活初年の2019年に川崎宗則、昨シーズンは田澤純一という2人の日本人元メジャーリーガーを入団させたことで日本でも話題を呼んだ。

 味全の再加入により、球団数が奇数となったためスケジューリングに支障が生じたが、この問題を解決するには、もう一球団の増設が急がれていた。過去には、関係の深いオーストラリアからチームを招聘する案や、沖縄から一球団を参加させるというプランも取り沙汰されたが、今回の球団拡張は、国内での新球団増設というところで落ち着きそうだ。

興亡の激しい台湾プロ野球の歴史

 台湾にプロ野球が誕生したのは1989年のことである。10月に発足した中華職棒連盟(CPBL)に集ったホテルを親会社とする兄弟、金融・流通業の三商、食品業の味全、統一を親会社とする4球団が発足。翌1990年からリーグ戦が開始された。当初、フランチャイズ制は設けず、台湾各地の各都市を週末中心に巡業する形式がとられた。

 待望のプロ野球の到来にファンは沸き立ち、連日球場は満員となった。1992年のバルセロナ五輪での銀メダルは野球人気に火をつけ、試合の様子を映し出すテレビ画面は町中至る所で目にすることができ、駄菓子屋をのぞけば、プロ野球カードが並んでいた。

「職棒3年」、1992年の台中球場での兄弟対味全の試合の様子。内野スタンドは試合前に満員になっている。
「職棒3年」、1992年の台中球場での兄弟対味全の試合の様子。内野スタンドは試合前に満員になっている。

 「バルセロナ組」が続々とプロ入りした1993年には、新たに2球団が加わり台湾プロ野球は6球団制となった。

 しかし、ブームは長くは続かなかった。右肩上がりだった観客動員はその後、下降気味となり、新規参入球団のうち、建設会社傘下の俊国ベアーズはわずか3シーズンで薬品会社の興農に球団を売却することになった。そんな中でも新たに金融大手の中国信託商業銀行が1996年に和信ホエールズを設立の上、新規参入し、CPBLは史上最多の7球団制に移行するが、リーグ戦を運営していく中で不便を生じる奇数球団は、その後、8球団へ拡大することはなかった。和信が参入したまさにそのシーズンに台湾球界に大激震が走ったのだ。シーズン真っ只中の6月に発覚した野球賭博・八百長事件は、ファンを球場から遠ざけることになった。俊国と同時に加盟した時報イーグルスは、事件発覚の翌1997年限りで活動を休止し(1998年解散)、CPBLは6球団制に戻ることになった。

二大リーグの対立とプロ野球人気の低下

 しかし、一方で、1997年シーズンには台湾プロ野球としては最多の11球団が、九州ほどの面積のこの島にひしめき合うことになった。CPBLに対抗して新たに新リーグが発足したのだ。

 1992年、俊国、時報の両球団と同時にCPBLに加盟申請しながらこれを却下された家電メーカー・声宝は、メディア企業・年代と手を組み1995年末に新リーグの運営会社・那魯湾股份有限公司を立ち上げた。そして1997年、「台湾メジャーリーグ(TML)」を名乗りリーグ戦開始に至るのだが、開幕に至るまでの選手の引き抜きなどから、CPBLとの共存関係は築かれることはなかった。両リーグ間は没交渉で、CPBL側が提示された高給につられてTMLへ「寝返った」選手を「永久追放」(のちに解除)とするなど、両者の対立は深刻化した。

地方球場の羅東球場行われた台中金剛と台北太陽の試合。TMLはフランチャイズ制をいち早く採用したが、実際は球場の確保と集客のため、地方試合も頻繁に行っていた(2002年)
地方球場の羅東球場行われた台中金剛と台北太陽の試合。TMLはフランチャイズ制をいち早く採用したが、実際は球場の確保と集客のため、地方試合も頻繁に行っていた(2002年)

 CPBLの主力選手を引き抜き、フランチャイズ制を導入したTMLは、八百長によるCPBLの人気低下もあり、当初、先行リーグを凌ぐ人気を博した。しかし、人口2千万人ほどの国に10球団を超えるチームを維持する力は台湾球界にはなかった。質の落ちた試合にファンはそっぽを向き、閑古鳥のなくスタンドを前に、球団数の多いCPBLからは次々とチームが去っていった。時報に続き、1999年には「オリジナル4」の三商、味全が解散。とりわけ、リーグ戦開始10年で4度の年間優勝を果たした名門・味全の球界撤退は台湾球界の危機を象徴する出来事となった。

 この翌年、発足当初の4球団制に戻ってしまった2000年シーズンにはCPBLの1試合当たりの観客数は最低の1676人にまで落ち込んでしまう。

歴史的合併後も続く苦難の道

 2000年以降、CPBL、TMLともに4球団制となったが、それでも両者によるチャンピオンシップが開催されるようなことはなかった。「台湾一」を決める舞台もないプロ野球の人気は上昇の気配を見せなかったが、2003年シーズンを前にして、ついに、政府が仲立ちに入るかたちで両リーグの合併が行われた。翌年にアテネ五輪を控え、予選を突破すべく「最強プロ」で代表チームを編成するのに、国内プロリーグの一本化は是非とも行わねばならないことであったのだ。

 CPBL以上に人気低迷に悩まされていたTML側は4球団の2球団への再編とCPBLへの合流に合意。ともに金融系企業をスポンサー、親会社に据えた誠泰太陽第一金剛が加盟し、CPBLはその名称を中華職棒大聯盟に改め、6球団で再スタートを切った。

 しかし、歴史的な合併後も台湾プロ野球の縮小傾向は続いた。2004年のアテネ五輪出場、2005年開始のアジアシリーズ、2006年開始のWBCなどプロ参加の国際大会の増加と台湾チームのそれらへの参加は、プロ野球人気回復の追い風となったが、ビジネスとしてのプロ野球の未熟さとそれに起因する選手待遇の悪さには、常に八百長と裏社会の影が付きまとった。

 2007年には、和信改め中信ホエールズに2003年に続く八百長が発覚し、主力選手が追放の処分を受ける。選手たちは、裏社会の人間に常に目をつけられていたようで、この時チームに所属していたある選手は、食事の誘いにつられて現場に向かうと、明らかに「そのスジ」の見知らぬ人がその場にいた、と当時の台湾球界を取り巻く状況を語っている。

 TML側からCPBLに合流した誠泰は、親会社だったTMLの旧運営会社からスポンサーの誠泰への正式な売却後、ニックネームを「コブラズ」と改め、2005年には初の前期優勝を飾ったが、2008年には急成長したカーナビメーカーへ再度売却され、米迪亜(メディア)ティーレックスとして再出発した。しかし、この新球団からも八百長問題が発覚。球団と暴力団とのつながりも明らかとなり、球団はリーグから除名処分を受けることとなった。このスキャンダルにより、回復しかけていたプロ野球への信用は再び失墜することになった。

 そして、これをきっかけとして、中信も球界からの撤退を決め、時を同じくしてチームを解散。CPBLはまたもや4球団制への縮小を余儀なくされる。

プロ野球人気復興と日系企業の参入

 苦難の道はなおも続いた。

 野球賭博・八百長問題はその後も度々発覚。止むことにないスキャンダルにファン離れは加速した。さらに、2013年には、地元開催となったアジアシリーズでは、地元台湾の統一セブンイレブン・ライオンズと決勝で対戦するオーストラリアチャンピオンのキャンベラ・キャバルリーの選手に八百長が持ち掛けられたことが発覚(キャンベラの選手は応じず)した上、その決勝では統一が惨敗し、春先のWBCでの健闘や興農ブルズを買収して参入した義大ライノズが招いた大物元メジャーリーガー、マニー・ラミレスによるフィーバーにより回復しつつあった野球人気に冷や水をかけるかたちとなった。

台湾リーグ最多の優勝10回、アジアシリーズ出場4回を誇る名門統一だったが、アジア制覇は実現しなかった
台湾リーグ最多の優勝10回、アジアシリーズ出場4回を誇る名門統一だったが、アジア制覇は実現しなかった

 そして、プロリーグ設立の主導的役割を果たし、2度の3連覇を含む7度の台湾シリーズ優勝を誇った兄弟エレファンツが、この2013年シーズン終了をもって本業の不振により球団を譲渡したことは、台湾プロ野球に大きな変革の波が押し寄せてきていることを感じさせた。名門球団を引き継いだのは、球団保有経験のある中国信託。中信は、かつて保有していたチームの名、「ホエールズ」を復活させるようなことはせず、ニックネームを「ブラザース(兄弟)」とすることで名門球団の伝統を引き継ぐ姿勢を見せた。

 2015年シーズンからは台北首都圏の新荘から最新鋭のインターコンチネンタル球場のある台中に本拠を移転した中信兄弟は、2021年、元阪神の林威助監督の下、球団譲渡後初の台湾チャンピオンに輝いている。

 フランチャイズに根付いた地域密着型の球団経営、華やかな応援などエンタテインメント性を高めた台湾プロ野球の人気は年々回復する中、球団数拡張の機運が高まるのはある意味必然だったと言える。

新球団の本拠地候補は?

 新球団の本拠地には、親会社の本社のある南部の都市、高雄が有力視されている。この町には、1999年に国際大会誘致を念頭に建設された台湾では最大規模となる2万人収容の澄清湖球場があり、球団誘致には市当局も積極姿勢をみせているという。

高雄・澄清湖球場
高雄・澄清湖球場

 この球場を本拠とした最初の球団は、CPBLとは別に設立された台湾職棒大聯盟(TML)の高屏雷公で、開場とともにここをホームとし、リーグがCPBLと合併する2002年シーズンまでここをホーム球場とした。翌、2003年からは雷公が台北太陽と合併し誕生した第一金剛が新生CPBLの球団として引き続きここを本拠としたが、このチームを翌2004年シーズンから引き継いだLa Newベアーズは、2011年シーズンを前にLamigoモンキーズと名を改め、台北首都圏の桃園へと移転していった。澄清湖球場は、ここで12年にわたるプロ球団の本拠地としての歴史に一旦ピリオドを打つが、2013年シーズンにはそれまで台中に本拠を置いていた興農ブルズを買収して発足した義大ライノズが移転してくる。しかしこの球団も4年で撤退。親会社が替わり、富邦ガーディアンズとなった際、チームは中信兄弟の旧本拠地であった台北首都圏の新荘に去ってしまい、以後5シーズンは、ここでは各球団が「地方試合」として主催試合を開催していた。

 しかし、今年中には施工主と市当局との対立から長らく工事がストップしていた台北ドームが完成するとの報道もある。この台湾初のドーム球場については、過去にソフトバンクが買収するという観測報道もなされている(当事者は否定)。ドーム球場の維持には、そこを本拠とするプロチームの存在は不可欠だろう。そう考えると、このドームも新球団の本拠地候補として俎上に上がってくるのではないかと私個人としては考えている。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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