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悲願の優勝に向けて負けられない千葉ロッテ。「オリックス」、「バファローズ」との因縁

阿佐智ベースボールジャーナリスト
千葉ロッテマリーンズの本拠、ZOZOマリンスタジアム(写真:kawamura_lucy/イメージマート)

 熾烈を極めた今シーズンのプロ野球ペナントレース。パ・リーグは25日、オリックスがすでに3位でクライマックスシリーズファーストステージ進出を決めている楽天と最終戦を戦い、エース山本の完封劇で勝利。首位に躍り出てシーズンを締めくくった。

 一方のロッテは、マジック3で臨んだソフトバンク戦で大敗を喫し、残り3戦に臨むことになった。つまり、ロッテは残り試合を全勝もしくは2勝1分で優勝、ひとつでも落とせばオリックスが25年ぶりの優勝ということになった。

 ロッテにとっては、残り試合を自らが勝ち続ければ優勝、負けた時点でV逸という状況である。この状況、つまり首位チームが先に全日程を終え、マジックの点灯した2位チームの動向次第でペナントの行方が決まるという状況は、実に33年ぶり。そう昭和の終わり、1988年、伝説の「10.19」以来のことになる。

近鉄の長い一日、昭和の終わりの「10.19」

プロ野球史に残る名勝負となった「10.19」の入場券(筆者蔵)
プロ野球史に残る名勝負となった「10.19」の入場券(筆者蔵)

 若い野球ファンには、すでに歴史の教科書に出てくるような昔話になっているかもしれない。時は西武ライオンズ黄金時代。この年のペナントレースも3年連続でパ・リーグの覇者になっていた西武の手中に収まるものと誰もが思っていた。8月に2位近鉄とのゲーム差が8に開いた時には、ただでさえ人気のなかったパ・リーグのペナントレースに興味を示す野球ファンはすっかりいなくなっていた。

 ところが9月の声を聞くと、状況が急変した。2位近鉄が王者西武を猛追したのだ。ドーム球場が東京にたったひとつだけだったこの時代、8月の長雨で流れた試合が10月に強行日程で消化されることになった。それでも近鉄は負けない。追われる西武も粘り勝ち続けるが、10月16日、西武が本拠地で行われたシーズン最終戦を勝利で終えた時点で、残り試合を残していた近鉄は全勝マジック3を点灯させていた。

 当時、パ・リーグのこのデッドヒートに目を向ける人は決して多くなかった。翌年明けに崩御することになる昭和天皇のご容体が連日トップニュースで流れ、のちにスポーツ庁初代長官になる鈴木大地の「バサロ泳法」が話題になったソウル五輪の余韻に皆が浸っていた。

 そんな中、近鉄は10月18日のロッテ戦に勝利。8年ぶりの優勝へのマジックを2とした。残り試合は、同じ川崎でのロッテとのダブルヘッダーだった。

 ちなみに、当時学生だった私は学校をさぼって川崎球場に足を運んだ。第1試合のデーゲームの開始時には「いつもながらの」閑散としたスタンドはいつの間にか満員になっていた。学校が終わってから合流するはずだった友人は球場まで来たものの、札止めで入れなかったことは後で知った。当時、携帯電話のようなものはなかった。

 試合の詳細はすでに多くの場で語りつくされているので、今さら述べずともよかろう。1試合目を劇的な逆転劇で勝利した近鉄だったが、当時のダブルヘッダーの規定により延長戦が認められなかった第2試合で、試合終盤にリードを奪いながら土壇場の8回裏、2試合連続でリリーフに回ったエース阿波野秀幸が、この年の首位打者・高沢秀昭に同点ホームランを打たれたのだ。試合はこのまま引き分けとなり、近鉄は優勝を逃す。「漁夫の利」でペナントを手にした西武とのゲーム差はゼロだった。

 話を私事に戻すと、川崎球場からの帰途、私は「阪急身売り」のタブロイド紙の大見出しを目にした。ガセネタだと思い込んでいたその見出しが事実であることを知ったのは、球場に入れなかった友人からの電話だった。ダブルヘッダー前に、名門・阪急ブレーブスがオリエントリースという会社に譲渡されることが発表されたとのことだった。

平成の初め、新生オリックスがロッテに優勝を阻まれた「10.13」

あまり知らてはいないが発足初年度のオリックスもまたロッテに優勝の夢を絶たれた。(筆者蔵の入場券)
あまり知らてはいないが発足初年度のオリックスもまたロッテに優勝の夢を絶たれた。(筆者蔵の入場券)

 翌1989年。年号は年明け数日で「平成」となった。ブレーブスを買収したオリエントリース社は、企業名をオリックスと改め、チームにライバル球団だった南海ホークスの主砲、門田博光を迎え、「ブルーサンダー打線」と呼ばれることになる強力打線をもってシーズンに臨んだ。新生オリックス・ブレーブスはオールスターまでペナントレースを独走し、球団譲渡初年度の優勝は間違いないかに思えた。しかし、後半戦に入り、前年に苦杯をなめた近鉄が猛チャージをかけ8月には首位に躍り出る。それでもオリックスも追いすがる。そして、シーズン序盤につまずいた西武が本来の調子を取り戻し、9月半ばにはついに首位に立った。

 パ・リーグ三強による混戦状態は10月に入っても続いたが、5日、西武がダイエーに8点差をひっくり返されて敗戦すると、近鉄との直接対決を制したオリックスにマジック8が点灯した。

 しかし、このマジックは一夜にして消えてしまう。そして3チームはその後もデッドヒートを繰り広げ、10月12日、あの球史に語り継がれる西武球場でのダブルヘッダーを迎えることとなる。

 この西武対近鉄のダブルヘッダーは首位西武が近鉄にひとつでも勝てば優勝だったように思われているが、実際はそう単純なものではなかった。オリックスもまたロッテとのダブヘッダーを戦っており、オリックスがひとつでも勝てば、優勝決定は持ち越しというものだった。

 西武球場の試合の詳細については、やはり今さら述べることもないだろう。伝説となった「ブライアントの4連発(正確には4打数連続ホームラン)」によって近鉄が連勝したことによって、ひとつでも負ければ優勝がなくなるという崖っぷちに立っていた近鉄が息を吹き返し、マジック2を点灯させた。ちなみにこのダブルヘッダーの第2試合に先発し、ブライアントに4発目を献上したのは、現在オリックスの投手コーチを務める高山郁夫である。

 近鉄にマジックが灯ったものの、この時点での残り試合は2。要するに全勝マジックである。それも最終戦は西武戦。13日の試合でマジック対象の2位オリックスが最下位ロッテに勝利すれば、がぜん有利となる。オリックスは15日の最終戦も相手は4位のダイエーと十分に勝ち星を計算できた。

 ところがここにまたもやロッテが立ちはだかる。ところはやはり川崎球場。エース・佐藤義則を立て、ブルーサンダー打線の本領発揮とばかりに試合序盤に3ホーマーで先制するも、逆転負けを喫してしまう。この時点ではまだ優勝の可能性は残されてはいたものの、オリックスは事実上の引導をロッテに渡された。この試合のスタンドにも私は学校をさぼって足を運んでいた。

 結局、この翌日、14日の本拠、藤井寺球場でのダイエー戦に勝利した近鉄が前年の雪辱を果たして優勝。完投で胴上げ投手になったのは、前年、川崎での第2試合で同点ホームランを許した阿波野秀幸だった。オリックスは翌15日に同じくダイエーとシーズン最終戦を戦い、勝利を収めるが、勝率わずか1厘差でペナントを逃してしまう。ゲーム差はやはりゼロだった。

 昭和の終わりから平成の初めにかけてのまだ日本が元気だった頃、黄金時代の西武に挑んだ関西の2球団が、当時弱小球団だったロッテ・オリオンズに引導を渡された。ロッテは、1991年限りで川崎を去り、翌シーズンから千葉ロッテマリーンズとして再出発し、その後、2度の日本一を達成している。そして、今、かつて苦杯をなめさせた近鉄とオリックスが合併したオリックス・バファローズと激しいペナント争いをしている。

 ロッテは、あの頃の「バファローズ」や「オリックス」と同じく、下位球団に引導を渡されるのだろうか、それとも、「順当に」残り試合を制して栄冠に輝くのか。残り3試合、ロッテはマジック3をもってこれに臨む。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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