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独立リーグでプレーする「最後のPL戦士」の思い

阿佐智ベースボールジャーナリスト
ルートインBCリーグ・新潟アルビレックスでプレーするグルラジャニ・ネイサン選手

 球児たちが帰ってきた。昨年はコロナのため中止となった全国高等学校野球選手権大会が、今、「聖地」甲子園で行われている。全国各地で行われた地方大会を勝ち抜いた精鋭たちが「真紅の大優勝旗」を目指して汗と泥にまみれている。

 今大会でも優勝候補として大阪桐蔭高校の名が挙がっているが、強豪が居並ぶ大阪は全国でもまれにみる激戦区として知られている。2年前の前回大会の覇者、履正社は宿敵・大阪桐蔭とまみえることなく準決勝で敗れ去り、決勝は大阪桐蔭と興国の対戦となった。

 興国高校は、第50回大会を制した古豪である。1970年代には、第45回大会を制した明星、夏の甲子園優勝2回の浪商(現大体大浪商)、北陽(現関大北陽)、近大附属、大鉄(現阪南大付属)らと並び「大阪私学7強」と呼ばれていたが、年号が昭和から平成に変わると、大阪の高校野球勢力図は、しだいに大阪桐蔭、履正社の2強に「その他」が挑むという構図に変わっていった。その時代の移ろいの中で、かつての「7強」の多くは「新2強」に挑む「その他」にも名があがらなくなってしまった。興国もその中の1校だったが、野球部の強化に再び乗り出し、2018年にロッテでプレーした元プロ野球選手の喜多隆志を監督に据え、この夏、見事「古豪復活」を果たした。

 その「私学7強」の話は、現在ルートインBCリーグの新潟アルビレックスBCでプレーするグルジャラニ・ネイサンにとっては、歴史の教科書の中の話にしか思えないようだった。彼は、その「私学7強」の中にあって最も輝かしい歴史をもつPL学園高校野球部出身の「最後のプロ野球選手」である。

PL学園時代を振り返るネイサン選手
PL学園時代を振り返るネイサン選手

インド系のルーツをもつ野球少年の「PL愛」

 インド系の父と日本人の母の間に神戸で生まれた彼は、小学校のとき野球をはじめ、中学時代にはシニアリーグで本格的に野球に打ち込んだ。スラッガーとして頭角を表した彼の元には強豪高校数校からの誘いが舞い込んだが、指導者はPLからの話だけを伝えた。他の学校の話をもちださなかったのは、ネイサンの志望を知ってのことだったのかもしれない。

「小さいときからテレビで見てたんで。かっこいいなって」

 とくにあこがれの選手というのはいなかったが、テレビの画面に映る「PL GAKUEN」の文字はネイサン少年の心に焼き付いた。地元には、報徳学園など甲子園常連の名門校があったが、ネイサンは迷わずPLに進むことにした。「伝統」がその決め手だったという。

 ネイサンの心の中では、「高校野球と言えばPL」であったが、現実は彼が小学生のとき見た春夏連続出場した2009年が甲子園でのPLの最後の姿だった。2000年代以降、大阪の高校野球シーンは、「新2強」時代に突入し、この古豪は不祥事でその名を見ることの方が多くなっていた。

 ネイサンの耳にも当然様々な噂は入っていた。しかし、彼の「PL愛」は変わらなかった。少年の頃、テレビ画面に映ったあのユニフォームが色褪せることはなかった。

「(上下関係が)厳しいというのは聞いていました。いろんな話については知っているのは知ってましたが、やっぱり強いし、甲子園に出れるチャンスもあると思っていたので」

 PLのユニフォームを着て甲子園の舞台に立つ。かつての野球少年なら誰もが抱いただろう志を胸にネイサンは神戸から大阪へ向かった。

落日の名門にあって守った矜持

 ところが、あこがれの進学先の門をくぐった途端、ネイサンの夢への道は出鼻をくじかれる。ひと月ほど前の上級生による下級生への集団暴行が発覚し、8月末までの対外試合禁止が高野連から通達された。

 PL学園野球部による不祥事は、これに始まったことではなかった。「全盛時」の1986年にはすでにいじめによる死亡事故が起こっており、ネイサンが生まれた1997年にも上級生による下級生への暴力沙汰が発覚している。その後も、同様の事件は複数回表沙汰になっていた。ネイサンは憧れの名門の凋落ぶりを感じずにはいられなかった。

 学校側もその状況に手をこまねいているわけではなかった。野球部の専用寮を廃止し、一般生徒との共同の寮生活を野球部員に経験させ、淀んでいた部内の空気を風通しの良いものに変えようとした。ネイサンが入学した年には、下級生が上級生の身の回りの世話をするという「付き人制度」もなくなった。上下関係は「それなりに」厳しかったが、その昔は、上級生に対しては「はい」と「いいえ」しか声を発してはいけないとも言われたほどの理不尽な雰囲気は姿を消していた。度重なる不祥事の責任をとって退任した監督の後任探しに難航し、結局、野球経験のない校長が監督職に就くという事態に部員たちは学校側の野球熱の冷めようをいやがおうにも感じさせられたが、その分、同級生25人、全体で90人ほどだった野球部員の結束は固くなり、「自ら考える野球」を実践するようになった。

 最上級生が去り、処分が解けるとネイサンはベンチ入りを果たした。最上級生となった2年秋の大会では、のちドラ1でヤクルトに入団することになる1年生エース、寺島成輝擁する「新2強」の一角、履正社に5対1で快勝した。その勢いのままチームは勝ち進み、決勝ではもう一方の「新2強」大阪桐蔭に破れたが、春のセンバツへの切符のかかった近畿大会へ進出し、ファンに「古豪復活」の期待を抱かせた。しかし、ここでは1回戦敗退。夢に描いていた甲子園は遥かなる夢のまま終わった。最後の夏、PLは大阪大会ベスト8まで進んだものの、同じ「私学7強」の系譜を引く大体大浪商に1対2で惜しくも敗れ去る。PL唯一の得点は、ネイサンの放ったホームランによるものだった。この時、すでに野球部には1年生はいなかった。翌年、1つ下の後輩たちがたった12人で「最後の夏」に臨んだが、初戦敗退。甲子園出場春夏合わせて37回、優勝4回を誇る名門はここで高校野球世界から姿を消した。

 高校時代をネイサンは振り返ってネイサンはこう言う。

「後輩は入ってこなくなりましたけど、別にやりづらいことはなかったですよ。みんなで頑張るのは同じなので。伝統の火が消えるとかそんなことも思いませんでしたね」

 ただただ白球を追いかける球児には、伝統は憧れるものではあっても、守るべき重荷ではなかったのかもしれない。

思い切りのいいバッティングを武器にNPBを目指す(星槎中井スタジアム)
思い切りのいいバッティングを武器にNPBを目指す(星槎中井スタジアム)

NPBという新たな夢

 NPB入り目指して大学進学後もプレーを続けたネイサンだったが、ドラフトにはかかることはなかった。卒業と同時に野球を辞めることも考えたが、NPBへの夢は絶ち難く、独立リーグを「就職先」に選んだ。独立リーグ1年目の昨年、主力打者として.329の高打率を残したが、それでもNPBからは声がかからなかった。今年はある意味決意のシーズンだ。

 あの時から幾度とやってきた夏。年々忘れ去られていく名門の名もこの季節になると、ちらほら耳に聞こえてくる。現在NPBでプレーするPL学園OBは中日の大ベテランの福留孝介とオリックスの若手・中川圭太の2人のみ。メジャーでは前田健太(ツインズ)が健在だが、もはや「絶滅危惧種」だ。昨年まで広島でプレーしていた小窪哲也は、現在ネイサンと同じく独立リーグでプレーしているが、36歳という年齢を考えると、NPBへの復帰は現実的ではない。PL学園の灯をNPBにともし続けるべく独立リーグに身を投じた選手は以前にもいたが、ネイサンはその選手の名は知っていても面識はないという。かつて、PLがプロ野球界にあって一大勢力をなしていた時代には、オフに野球部のOB会が盛大に催されていたと聞くが、コロナ禍もあり、それも下火になっているようだ。ネイサン自身、現役選手であることもあってか、まだ出席したこともなく、NPBに進んだOBに会ったこともないという。

 今は、自分のことで精一杯だ。すでに始まっている夏の甲子園にもさほど興味はなさそうだった。

「おとといから始まったんでしたっけ。大学のときはたまに見てましたけど。まあ自分の母校の名がないのは寂しいですけど、高校野球は毎年チームも違うんで。休部になったときは悲しかったですけど…。チームもいずれ早い持期に復活してほしいなとは思います」

 プロ野球の歴史に名を残した偉大な先輩たちに続けとばかりさらなる高みを目指している23歳の若者の目からは、現在母校の名門野球部復活に向けて様々な動きを見せている功成り名遂げたOBたちとは「PL」に対するアプローチも違ってくるのもある意味当然なのもしれない。

(文中の写真は全て筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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