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「阪急タイガース」誕生?親会社、フランチャイズとチーム名の微妙な関係

阿佐智ベースボールジャーナリスト
タイガースの本拠地、阪神甲子園球場(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

「阪急タイガース」誕生?

 人気球団の性か、阪神タイガースが恒例と言っていい「お家騒動」を起こしている。春先の数人の選手の新型コロナ感染に続いて、先月末、主力選手を含む選手、スタッフ8人の感染が発表され、ペナントレースの佳境に入った時期に濃厚接触を疑われる選手を含む大量10人の出場選手登録が抹消されるという非常事態になったのだ。その上、その原因として考えられる遠征中の球団の内規で定める人数制限を破った会食が、ベテラン選手の音頭で実施されたことがわかると、阪神球団の管理の甘さに非難の声が上がった。これを受けて、今月になって球団社長が今シーズン限りの辞任を発表。その上、今度は矢野監督が、球団の許可を受けたとは言え、内規を破るかたちでの会食を行っていたことが発覚し、親会社、阪神電鉄を含む企業としてのコンプライアンスに対する姿勢が問われることとなった。

 阪神タイガースの直接の親会社は阪神電鉄で、球団オーナー、社長はこの親会社から出されるのが慣習になっている。しかし、阪神電鉄は2006年、長らくライバル関係にあった阪急電鉄に買収され、現在は阪急の持株会社、阪急阪神ホールディングスのグループ企業となっている。つまりは、「阪神」は「阪急」の子会社なのである。そして、「阪急」と言えば、現在のオリックス・バファローズの源流にあたる阪急ブレーブスのオーナー企業だった。

 経営統合の際も、一部メディアからは、「阪急ブレーブス復活?」の見出しが躍ったが、直接の親会社は阪神電鉄であることには変わりなく、阪神タイガースはタイガースのまま、関西で圧倒的な人気を誇る名門球団として、現在まで続いている。しかし、今回の相次ぐ「不祥事」を受けて、阪神電鉄の親会社である「阪急」側の経営圧力が強まるとの報道もなされるようになってきた。そして、またもや「阪急ブレーブス復活」や「阪急タイガース」の言葉も見受けられるようになってきた。

 ファンに圧倒的な支持を受けている「阪神タイガース」の名がなくなることは常識的には考えられない。ファンにとってチーム名は愛着の根源であるのだ。企業名が表に出る日本のプロ野球の場合、親会社の変更、つまり「身売り」の際は、どうしても「上の名前」は変えざるを得ないのだが、「下の名前」、ニックネームを変えることは少ない。

球団名の変更は少ない安定のセ・リーグ

「ドラゴンズ」は名古屋の代名詞と言える存在である(中日ドラゴンズ・平田選手)
「ドラゴンズ」は名古屋の代名詞と言える存在である(中日ドラゴンズ・平田選手)

 2リーグ制になった1950年以降の現在の12球団をみてみると、セ・リーグの巨人、阪神、中日、広島は親会社が不変で(広島のみ親会社なし)、基本的に名称を変えていない(但し、阪神は1960年まで「大阪タイガース」を、1951年から3年間、中日は名古屋鉄道が経営に参画していたこともあり「名古屋ドラゴンズ」を名乗った。また、広島は1967年より筆頭株主の東洋工業に由来する「広島東洋カープ」を正式名称にしている)。

 松竹との合併により、一時「ロビンス」を名乗ったこともある大洋は、基本的に親会社の業種にちなむ「ホエールズ」をニックネームとし、現在の横浜に本拠を移してからは都市名の「横浜」を冠するようになったが、1993年には企業名を外し「横浜ベイスターズ」と名称を一新した。それまでのCI(コーポレーション・アイデンティティ)型の球団経営から、欧米のAI(エリア・アイデンティティ)型への移行は、2002年のTBSへの球団譲渡の際、球団名称変更を伴わず、「最もスマートな身売り」と言われた。2012年のDeNAへの身売りの際も、球団名が変わらないことをファンは期待したが、新オーナーは社名を「横浜」と「ベイスターズ」の間に入れることにした。

DeNAによる買収後、都市名とニックネームの間に企業名が入ることになったが、ユニフォームには都市名が前面に押し出されている(横浜DeNAベイスターズ・ロペス選手)
DeNAによる買収後、都市名とニックネームの間に企業名が入ることになったが、ユニフォームには都市名が前面に押し出されている(横浜DeNAベイスターズ・ロペス選手)

 球団買収と同時にニックネームも変えたが、その次の身売り後、元に戻したのがヤクルトだ。「スワローズ」の名は、球団発足時のオーナー、日本国有鉄道(国鉄、但し正式なオーナーは外郭団体の財団法人交通協力会)の看板列車、特急「つばめ」に由来する。国鉄スワローズは、1964年シーズン後、フジサンケイグループに球団譲渡されたが、新たなオーナーは、「スワローズ」を1シーズンだけ使用した後、1966年よりグループ企業のテレビ局で放映されていた人気アニメにちなんで「サンケイ・アトムズ」として3シーズンを送った。現在のオーナー企業、ヤクルトはこの時からすでに同球団の株式を取得して経営に参画。フジサンケイグループが撤退した1969年には「上の名」、つまり企業名が外される特異なかたちでシーズンを送ると、翌年からは正式にヤクルトがオーナーとなった。ヤクルトは「アトムズ」を4シーズン使用した後、1974年から国鉄時代の「スワローズ」に「下の名」を戻し、「地域密着」がプロスポーツのトレンドになっていく中、2006年からは都市名の「東京」を冠するようになって現在に至っている。

身売り、本拠地変更の多さが球団名変更につながっている激動のパ・リーグ

買収以降、球団名が何度も変わったオリックスは、球団史を振り返るイベントを毎年行っている
買収以降、球団名が何度も変わったオリックスは、球団史を振り返るイベントを毎年行っている

 激しい興亡の歴史を歩んできたパ・リーグの方は、2リーグ制以降をとってみても、2005年創設の楽天を除いて、球団譲渡の経験のない球団はない。楽天との入れ替わりで消滅してしまった近鉄のみが身売りの経験がないのは何とも皮肉な話だ。その近鉄の「下の名」、「バファローズ」は、同球団を吸収合併したオリックスに現在引き継がれている。この球団の源流は、先述のとおり阪急ブレーブスだが、このチームも戦後すぐのニックネーム創設時までさかのぼると、1947年シーズンの初めを「ベアーズ」として迎え、途中から「ブレーブス」となった。1970年代から黄金時代を迎えたブレーブスは、親会社の経営が盤石であったこともあり、「巨人と阪急は絶対に身売りはない」と言われたが、世に絶対などということは決してなく、昭和の終焉とともにオリエント・リース社に身売りされてしまう。オリエント・リースあらためオリックスは、多くの前例にならってか、2シーズンのみ「ブレーブス」を踏襲したが、1991年からは本拠地を移転するとともに、ニックネームも「ブルーウェーブ」と改めた。多くのファンの反発を買ったこの変更だったが、あのイチローの登場と、黄金時代の到来により、それも消え失せたかに見えた。しかし、イチローはじめ相次ぐ戦力の流出とチームの弱体化もあってか、2004年シーズン後に近鉄との統合が行われ、かつての近鉄の本拠、大阪をホームとする「オリックス・バファローズ」となった。この状況には、ファン、球団ともアイデンティティ構築に苦しんでいる。

 これに対して、西武とソフトバンクは、チームのアイデンティティの核となるニックネームを守り続けている。

 西武の源流は、むろん九州・福岡に本拠を置いていた西鉄ライオンズだ。しかし、2リーグ制創設とともに発足したこのチームの初年度のニックネームは「クリッパーズ」だった。福岡のライオンズは、その後1950年代に黄金時代を迎えたものの、1960年代後半に入ると凋落。オーナー企業の西日本鉄道が1972年シーズン限りで撤退すると、その後6年間は、親会社を持たない球団として、太平洋クラブ、クラウンライターに現在でいうネーミングライツを売却して命脈を保った。その綱渡り経営も限界に迎えた1978年オフ、西武鉄道グループの国土計画に買収され、埼玉へ移転となったが、これには「上の名」の変更にはさほど反応しなかったファンたちが、大いに反発した。これに配慮したのか、新オーナーは「ライオンズ」の名を継続したが、負のイメージのあった福岡時代を長らく球団史からも消し去っていた。しかし、地域密着を掲げ「埼玉」を球団名に冠した2008年前後から、福岡時代を球団史に組み入れるようになり、往時を懐かしむ企画を毎年行っている。

企業名+ニックネームの前に都市名を関する日本独特のチーム名構成は福岡移転後のホークスが先駆である(福岡ソフトバンクホークス・和田投手)
企業名+ニックネームの前に都市名を関する日本独特のチーム名構成は福岡移転後のホークスが先駆である(福岡ソフトバンクホークス・和田投手)

 

 ライオンズの去った福岡に、1989年に大阪から移転してきたのがかつてのライバル球団、ホークスだ。1950年代にパ・リーグの覇を競った南海ホークスは、1988年限りでダイエーに身売り。ライオンズが去り「空き家」となった福岡に移転する際、いち早く都市名を球団名に組み込み「福岡ダイエーホークス」を名乗った。かつてのライバルの来訪に対する福岡のファンの反応は当初微妙なものだったが、地域名を冠した球団にやがてシンパシーを感じ、満員のファンで埋まった西武戦、かつてのライオンズの本拠だった平和台のスタンドは、ライオンズブルーからホークスのチームカラーであるスカイグリーンとオレンジに次第に変わっていった。

 球団買収と同時にニックネームを変えたのは日本ハムだ。1974年、日拓ホームフライヤーズを買収したこの会社は、東急、東映時代から続く「フライヤーズ」のニックネームを一新し、「ファイターズ」を採用した。チームは、2004年に札幌に移転し、以降「北海道」を冠するようになったが、「下の名」はそのまま使用し続けている。

札幌移転後、「北海道」を名乗ったファイターズ(北海道日本ハムファイターズ・秋吉投手)
札幌移転後、「北海道」を名乗ったファイターズ(北海道日本ハムファイターズ・秋吉投手)

 現在のパ・リーグ球団の中で、最も長く同一企業がオーナーを務めているのがロッテだが、1992年に現在の「千葉ロッテマリーンズ」となるまでは、12球団の中で一番複雑な球団史を持っていたと言って過言ではない。

 この球団の源流は、2リーグ制導入時に発足した(と言うよりこの球団の参入がセ・パ分立の引き金となったのだが)毎日オリオンズに遡ることができる。この球団は、1958年に大映スターズと合併し、「大毎オリオンズ」となったのだが、オーナーは吸収された側の大映の永田雅一が務めた。合併前の大映スターズは、その前年に高橋ユニオンズを吸収しており、つまりは現在のロッテの源流は3球団にあると言える。

 永田は、球団経営に心血を注ぎ、1962年、私財を投じて東京球場を建設し、本拠をここに移すと、1964年には球団名を「東京オリオンズ」と改める。しかし、球団名から社名が消えたことに共同オーナーの毎日新聞側が反発、資本を引き揚げてしまった。単独オーナーとなった永田の本業である大映の映画業界は、この時期斜陽の時期を迎えており、資金繰りに困ったオリオンズは、ロッテをスポンサーに迎え、1969年より「ロッテ・オリオンズ」となる。ロッテは、1971年に正式に球団を買収したが、翌年、東京球場の買取を拒否したため、本拠地をなくし、1973年より5年間、仙台を仮本拠とすることとなった。その後大洋が横浜に移転し主を失った川崎に腰を据えるのだが、この間、球団名は変わることはなかった。そして、1991年オフ、老朽化した川崎球場から前年に完成した新球場千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)への本拠地移転と、チーム名を「千葉ロッテマリーンズ」とすることを発表、現在に至っている。

川崎時代はホーム用、ビジター用ともに企業名が入ったユニフォームだったが、千葉移転後はニックネームを前面に押し出すようになったロッテ(千葉ロッテマリーンズ・福田選手)
川崎時代はホーム用、ビジター用ともに企業名が入ったユニフォームだったが、千葉移転後はニックネームを前面に押し出すようになったロッテ(千葉ロッテマリーンズ・福田選手)

 

 平成に入り地域密着が進み、「企業のチーム」から「おらが町のチーム」に変わっていく中、プロ野球ファンのチーム名に対する愛着は益々高まってきている。タイガースの「阪神」も電鉄会社の企業名であるとともに、フランチャイズエリアの大阪と神戸を示す地域名でもある。日本、いや世界一熱狂的なファンをもつこのチームの名前は、「上の名」も「下の名」も変わることは日本にプロ野球がある限り永久にないだろう。

(文中の写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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