Yahoo!ニュース

「初優勝」から53年。闘将と呼ばれた男が胴上げされた日に復活した「勇者」たち

阿佐智ベースボールジャーナリスト
1967年阪急ブレーブス初優勝時の復刻ユニフォームで試合に臨んだオリックスナイン

 1967年10月1日、京都・西京極球場(現わかさスタジアム京都)で、阪急ブレーブスが初優勝を成し遂げた。現在の日本のプロ野球(NPB)に直接連なる日本職業野球連盟の原加盟球団という老舗ながら、長らく低迷を続け、球団創設32年目という現在に至るまで史上最も遅い「初優勝」だった。この時、優勝監督として選手と球場になだれ込んだファンの手で胴上げされたのが、「闘将」・西本幸雄(1988年野球殿堂入り)だった。

画像

生まれながらのリーダー

 歴代6位の監督通算1384勝を挙げた西本は、早くから将としての才を見せた。立教大学時代には、実質上監督がいない状況下でチームの指揮を執っている。学徒出陣で招集された旧日本軍においても、中尉として部隊を率いた。復員後は、実業団を渡り歩き、星野組に移籍した1949年には兼任監督としてチームを都市対抗優勝に導いている。このチームの主力を丸々引き受けるかたちでこの年のオフに発足したプロ球団、毎日オリオンズでも、リーダーとして翌年発足したパ・リーグの初代チャンピオンにチームを導いた。

 30歳という高齢でのプロ入りとあって現役生活は6年と決して長くなかったが、引退後もコーチとしてチームに残ると、1960年に毎日改め大毎の監督に就任し、その年にリーグ制覇を果たす。しかし、敗れた日本シリーズ中の采配を巡りオーナーと対立すると、そのまま辞任してしまう。

 その後、解説者生活を経て、1961年オフ、阪急ブレーブスのコーチに就任。翌年には監督に就任し、1963年シーズンから低迷するチームの指揮を執った。

あくなき闘志でブレーブスを強豪へ

 1960年代、パ・リーグに君臨していたのは、同じ関西を本拠とする南海ホークスだった。1959年に宿敵・巨人に4タテを食らわし、日本シリーズを制したこのチームは、1964年の阪神との「御堂筋シリーズ」も制し、大阪を代表する人気球団となっていた。一方の、阪急は、長年の低迷もあってか、本拠・西宮球場には閑古鳥が鳴いていた。選手の規律も乱れ、チームが勝つ方向を向いていなかった。ここに乗り込んできた西本の鉄拳制裁も辞さない厳しい指導は、当初、選手の反発も招いたが、チームは西本の就任1年目の最下位から2年目には2位へと躍進。しかし、この後、4位、そして5位と年々順位を落としていく。

 そうなると内紛が起こるのは世の常。不満分子のにおいを嗅ぎ取った西本は、秋季練習において、「信任投票」という前代未聞の策に出る。圧倒的多数は西本の続投を「可」としたが、わずかな反対票と白票に一本気な西本は、辞任を申し出る。しかし、阪急球団の生みの親、小林一三の跡を継いだ米三オーナーの慰留を受け翻意。翌1967年は、正月から猛練習を始め、この「西本道場」で鍛え上げられた選手によって、ついに初優勝が成し遂げられた。

 西本の下で5度のリーグ優勝を果たした阪急は、1975年からはリーグ4連覇、日本シリーズ3連覇と、1970年代のパ・リーグに君臨することになる。

オリックス恒例の復刻試合

球場内のグッズショップでは復刻バージョンのレプリカユニフォームが飛ぶように売れていた
球場内のグッズショップでは復刻バージョンのレプリカユニフォームが飛ぶように売れていた

 合併、ニックネームの変更と、複雑な球団史をもつオリックス・バファローズは、それを逆手にとり、毎年復刻ユニフォームの企画試合を実施している。今年は、西本の生誕100年を記念して、その誕生日である4月25日に「西本幸雄メモリアルゲーム~受け継がれる闘志~」と題して、西本の下、阪急ブレーブスが初優勝した1967年の復刻ユニフォームをチーム全員まとい、当時の西本の背番号50をつけ、試合に臨むことになっていた。しかし、新型コロナ禍による開幕延期で企画じたいも延期となり、球団初優勝の記念日である10月1日に改めて実施の運びとなったのである。

 本来なら、初優勝の舞台である京都・わかさスタジアムで実施すべきかもしれないが、現状、本拠地球場以外での試合の実施は難しい。現在のオリックスの「家」、京セラドーム大阪は、元はと言えば、先代バファローズの本拠地なのだが、かつて勇者たちが駆け回っていた西宮球場は、今はもうない。西本は、阪急の後、近鉄バファローズを率い、パ・リーグを2度制しているので、良しとしよう。

 試合前のセレモニアルピッチでは、西本が育て上げた最高傑作と言っていい「ブレーブス三羽烏」、福本豊(通算2543安打、1065盗塁、2002年野球殿堂入り)、山田久志(通算284勝、2006年野球殿堂入り)、加藤秀司(通算2055安打)が揃い踏みでフィールドに姿を現し、西本の孫、大家正弘氏の投球を見守った。38歳の大家氏にとっての祖父の姿は、深夜のブラウン管に映る解説者のそれだったらしいが、3人の愛弟子の頭髪は、解説者時代の西本同様、すっかり白くなっていた。

 3人だけではなく、阪急OBたちは、「帰る家がなくなった」と嘆く。関西でパ・リーグの覇を争った阪急、南海、近鉄の「電鉄三球団」は、昭和から平成の時の移ろいの中、姿を消した。しかし、ホークスとバファローズの名は今も残っている。しかし、名門ブレーブスの名だけは、昭和という歴史の彼方に置き去りにされてしまった。

 だからこそ彼らは言う、「ブレーブスのユニフォームを着た試合には絶対勝って欲しい」と。

試合前のセレモニーには、黄金時代を支えた西本の門下生、加藤秀司(左)、山田久志(中央)、福本豊(右)の3人のレジェンドが姿を見せた
試合前のセレモニーには、黄金時代を支えた西本の門下生、加藤秀司(左)、山田久志(中央)、福本豊(右)の3人のレジェンドが姿を見せた

還ってきた「勇者」たち

 この日の西武戦は、まさにそんなかつての勇者たちの思いが伝わったようなものとなった。

 思えば、西本が監督に就任したころのブレーブスは、低迷を続けていた。その「灰色の球団」とも揶揄されたチームを支えたのが、梶本隆夫(通算254勝、2007年野球殿堂入り)であり、米田哲也(通算350勝、2000年野球殿堂入り)であり、そして足立光宏(通算187勝)であった。得点力のない打線を背にちぎっては投げ、勝ち星を挙げていった彼らの姿は、強力な先発投手陣を擁しながら、打線がなかなかそれをバックアップできていない現在のチーム状況とも重なる。

 さしずめ、この日の先発、左腕の田嶋大樹は、梶本の再来だろうか。今シーズン、好投を続けながらも、ここまで3勝4敗となかなか勝ち星が先行しない。しかし、通算254勝のレジェンドは、低迷期も黙々と投げ、チームを常勝軍団に押し上げ、勝ち星より1つ多い255の負けを残した。

 立ち上がり良かった田嶋だが、3回に源田、スパンジェンバーグに連続ホームランを浴びてしまう。

 それでも、前日に監督交代後(実際は西村前監督に代わり、中嶋監督代行)、勝ち越しとなった状態のいいチームは、6回に集中打で4点を入れ逆転する。

 とここまでは良かったのだが、強力打線の西武は、7回にも森がライナーでスタンドに運び、1点差と迫る。「ブレーブス」は、この後、山田修義、タイラー・ヒギンスと「勝ちパターン」の継投策に出るが、これが完全に裏目に出、ヒギンスは8回、山川の2ランなどで3点を失い、一挙に逆転されてしまう。

 オリックスは最終回にT-岡田のソロホームランで1点差に迫るが、時すでに遅し、OBたちの願いも届かず、記念試合を勝ち星で飾ることはできなかった。

 思えば、チームを率いる中嶋聡監督代行は、「最後の阪急戦士」として2015年シーズンまで現役でプレーした(兼任コーチ)。彼には、確実に「勇者魂」が受け継がれている。

 低迷するオリックスナインに勇者の闘志は受け継がれるのだろうか。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

阿佐智の最近の記事