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プロスポーツ再開の中、「休業」を強いられる「ノマドリーガー」

阿佐智ベースボールジャーナリスト
プロスポーツが再開されているが、野球のマイナーリーガーの状況は先行きが見えない

 コロナ禍もようやく落ち着きを取り戻し、スポーツも再始動し始めている。プロ野球は19日に開幕、無観客ながらスタンドには球音が響くようになった。そういう中、いまだ再始動するスポーツ界から取り残されているアスリートがいる。

 学生時代野球に打ち込んだ選手の中で卒業後もプレーを続けられる者はわずかだ。プレーしながら将来のキャリアパスを構築できる社会人実業団チームが平成以降激減する中、多くの若者がプロの間口の広いアメリカを目指すようになった。アメリカにはメジャーリーグ傘下のマイナーリーグの他、数多くの独立リーグが存在し、実はレベルを問わねば、「プロ野球選手」にはなりやすい。

インターネットの発達などから海外の情報が得やすくなった今、プレー継続の場を求めて毎年多くの選手が海を渡っている。その姿は、さながら広い草原をさまようノマド(遊牧民)のようだ。彼らのような場所にとらわれずプレーの場がある限り世界中どこへでも駆け付ける野球選手を「ノマドリーガー」と私は呼んでいる。そして彼らの中には、アスリートとして避けて通れない年齢という壁をも「ノマドする」ことによって乗り越えようとする者がいる。

5カ国で「プロ野球選手」としてプレーしたサブマリン

現在今シーズンのプレー先を探しているノマドリーガー、安井大介(筆者撮影)
現在今シーズンのプレー先を探しているノマドリーガー、安井大介(筆者撮影)

 以前取り上げた安井大介もそのひとりだ。日本ではさしたる実績のない彼だが、ただひたすらプレーを続けたいという願いで単身海を渡り、日本では成し遂げられなかっただろう「プロ野球選手」という夢をカナダ、アメリカ、メキシコ、ニカラグア、グアテマラの5か国でかなえている。

 今年で42歳になる彼だが、「引退」の二文字が頭をチラつきながらも、なお現役続行を念頭にトレーニングを続けている。しかし、現実にはコロナ禍の中、国外に渡ることはできない。そもそも、本場アメリカでは、「プロ野球」はほとんど休止状態となっている。

 野球との出会いは小学校2年生の時だと言う。町内会のお祭りで余ったお菓子がもらえると聞きつけ、軟式の少年野球を始めた。その延長線にプロ野球などあろうはずがなかった。

「運動が得意とかそういうこともなかったですね。ただ、声が大きかったんで4年生以下のチームでキャッチャーをさせられました」

 ケンカはよくしたという安井少年は、いい女房役ではなかったようだ。試合中、口汚く不調の投手をののししると、「そこまで言うなら、お前が投げてみろ!」と監督からピッチャー転向を言い渡された。四球の連発で試合にならないということも珍しくないこの年代にあって、とりあえずストライクを取れるピッチャーは重宝される。安井は、高学年のトップチームに進んだ後もマウンドに立つことになった。

 ところが意気揚々と進学した中学校には野球部がなかった。安井はやむなく週末、大人に混じってプレーすることになった。

「ようするに草野球です。大会には中学生は出れないんで、定時制高校に通っていることにしろって(笑)」

中学2年生の少年が、中年男たちに交じってマウンドに登れば気付かぬはずはないと思うのだが、相手してみれば、試合さえできればよく、気にもしなかったのかもしれない。

もちろん、チームには主戦投手がいたのだが、いかんせん草野球。そのピッチャーに所用があるときには、安井が先発を務めることもあった。

 

 安井が硬球を握ったのは、高校に進学してからのことだった。甲子園にも出場経験のある強豪校の野球部に晴れて入部した安井だったが、高校球児生活は半年で終わってしまった。少年たちがタテの人間関係に出会い、順応していく中学生時代を大人たちとフランクなかたちで過ごした安井が、指導者の権威を最優先する古い型の監督を受け入れることはなかった。

 「この性格なんで、『殴らねえでくれよ』とか監督に言ったりするんです。そうするともう試合に出られなくなるじゃないですか。一応最初の夏は越しましたけれど、成長痛で膝が痛くて走れなくなったんです。それで、監督の方は『成長痛ぐらいで走らんでいいのか』って。僕の方は『いや、無理です。医者にも走るなと言われているんですから』で、もう押し問答。それで最後は『そうっすね、痛いのは僕ですからね、先生じゃないっすからね』って。そうなるともうゲンコツですよ(笑)」

 「帰宅部」として残りの高校生活を過ごした安井だが、それでも野球を続けた。クラブチームの門を叩き、正式メンバーには入れてもらえないながらも、練習への参加を認められる。   

そして専門学校に進学した安井は、野球部に入部する。公式戦は、専門学校どうしのものしかなかったが、時折対戦する実業団チームとのオープン戦は、安井の夢を膨らませた。120キロそこそこという、まさに草野球並みの球速だったが、下手投げからのくせ球はそれに慣れていない猛者たちを翻弄させた。2年が過ぎ、専門学校を卒業することになったが、安井はそこでつけたコンピューターの技能で飯を食っていくことを潔しとせず、野球で身を立てていくことにした。

 しかし、これと言った実績のない安井に声をかける実業団チームはなかった。それでも、銀行の社員からなるクラブチームに居場所を見つけた。この頃になると、彼の夢の終点は「プロ」に変わっていた。野球だけしているわけにはいかないので、アルバイトもしたが、野球の邪魔にはならないように週数日しかシフトに入らなかった。居候している実家の両親とは、そのことで多少の軋轢が生じたが、プロ野球という目標があるため、生活の柱は野球という線は譲れなかった。

 しかし現実は甘くはなかった。クラブチームでも主力というわけにはいかない安井にプロへの道が開けるはずはなかった。2年目を過ぎ、大卒の年下の選手が入って来ると、監督の交代もあり、社員でもない安井に出番が回ってくることはなくなった。普通ならここで世間と折り合いをつけて身の丈に合った居場所を見つけるのだろうが、この頃、行き場を失っていた「ロスジェネ」たちが、自分を認めてくれない狭い日本を飛び出していったように、安井もまた海を渡ることにした。

ノマド生活の始まり

 1995年に野茂英雄がドジャースで旋風を巻き起こすと、雲の上だったメジャーリーグが日本人の射程に入ってきた。日本をマーケットに取り込もうとするメジャーリーグの方針もあって、アマチュア球界からマイナー契約を結ぶ選手も現れると、アメリカは日本で夢破れた若者たちにとって「変身願望を実現する場」に変わっていった。そしてちょうど同じ頃アメリカ球界に勃興してきた独立リーグは、「プロ」への垣根をさらに低くした。2000年代の初めというのはそういう時代だった。

 ひとつの新聞広告が安井の目に入ったのは2002年の春のことだった。アメリカ独立リーグのトライアウトをあっせんする業者が40万円の参加費で日本人でチームを組み、独立リーグのキャンプに道場破りをするらしい。現在も続くこの手のビジネスには、毎年多くの若者が参加している。

 辞書片手にインターネットを検索してみた。ある独立リーグのキャンプ前に実施されるトライアウトには日本人でも直接参加申し込みができるようだった。参加費用はわずか数千円。安井は渡航費と現地での滞在費を工面し、トライアウトに参加した。合格を手にすることはなかったものの、アメリカでの「就活」に手ごたえをつかんだ。帰国後、安井はクラブチームを退団し、翌年に備えてひとりトレーニングを続けた。

 2003年、再度太平洋を渡った安井は、いくつかの独立リーグのトライアウトを受験し、この年、カナダに創設されたカナディアン・ベースボール・リーグとの契約を勝ち取った。25歳にしてようやく「プロ野球」という夢をかなえたのだ。

 このリーグには多くの日本人が参加していたが、その多くは安井と同じく日本でさしたる実績のない「プロ未満」の者だった。「アメリカのメジャーリーグではないカナダ独自のプロ野球」を目指したこのリーグは、元メジャーリーガーや台湾リーグで主力を張っていたドミニカ人助っ人も複数在籍するなど、玉石混交と言ってよかったが、それでも安井にとってはその壁は厚かった。

「トライアウトのバッティングピッチャーや紅白戦なんかとは、やっぱり全然違いましたね」

 初登板のリリーフ。審判の誤審などもありランナーをためてしまった安井は、リーグ初の満塁ホームランを許してしまう。その後の登板はすべて無失点に抑えるものの、安井はクビを言い渡される。

 失意のうちに帰国した安井だが、翌2004年も渡米し、当時4大独立リーグのひとつに数えられていたフロンティアリーグのスプリングフィールド・ダックスとの契約にこぎつける。しかし、プロ選手としてプレーするビザを取ることができず、開幕後もロースターに入らないまま、帰国の憂き目にあう。彼らのようなノマドリーガーにとって、ビザの取得は大きなハードルになる。多くの場合、契約が確定していない時点でトライアウトやキャンプに参加するので、渡米時点では基本ノービザである。その後、晴れて契約を果たしても、ある程度経営がしっかりしたリーグではノービザでプレーすることは難しい。安井は、この後、2007年にもユナイテッドリーグのラレド・ブロンコスと契約寸前まで話が進んだが、やはりビザが出ず、渡米はかなわなかった。「アペンディックス(付録)」と呼ばれる小規模独立リーグの場合、シーズンがノービザでの滞在が可能な90日に収まることが多いため、ノービザでプレーすることも可能と言えば可能だが、自分のプレー継続の場はアメリカしかないと思う安井は、危ない橋を渡ることは決してなかった。

ノマドを継続させるインターネットというツール

 安井は帰国した。この時点で26歳。日本にも翌2005年から独立リーグが発足することになったが、残念ながら年齢制限が設けられ、チェレンジすることもできなかった。つまりは、そろそろ夢に区切りをつけ、身の丈に合ったキャリアを歩んでいく年齢にさしかかっていたのだが、安井は野球をあきらめることはなかった。彼は翌年以降も海を渡り、アメリカ、カナダの、主に夏休み中の大学生がプレーするセミプロリーグで、小遣い銭程度のギャラとホームステイを手にしながら短いシーズンを過ごした。

 安井が再びプロの舞台に立ったのは2008年のことである。コンチネンタルリーグという独立リーグで、月給1,000ドルを手にした。これに一日25ドルのミールマネーがついた。アパートも球団から無償で提供されたため、生活には困らなかった。メジャーリーグで12シーズンプレーしたという監督の存在は、手の届かぬものと思っていたメジャーリーグをほんの少し身近なものにした。

 しかし、そんな思いとはうらはらに、翌年シーズン、チームからのオファーが届くことはなかった。それでも安井は、2010年はベルギーのアマチュアリーグの助っ人としてプレーし、その翌年は、北米3大独立リーグのひとつで2A級に匹敵すると言われているカンナムリーグ(現在は消滅)との契約にこぎつけた。その後も、契約が取れず「浪人」を余儀なくされた年もあるが、ニカラグアやメキシコ、グアテマラのプロリーグ、アメリカ、カナダのセミプロリーグを渡り歩き、42歳になる現在もいまだ「現役」選手を続けている。

 「ベルギーにはプロ野球はありませんが、800ユーロの月給をもらってました。適当にネットを検索して世界中のいろんなリーグに、どこか外国人受け入れてくれそうなチームないですかって送ると、結構反応があるんですよ。それで、レジュメ(履歴書)を送って、プレー先が決まることは多かったです。いろんな国のプロ野球でプレーすると、それが実績になって、書類だけで決まることも多いです。こっちもプロっていう意識でいますから、いろんな交渉をしますよ。Pビザ(プロスポーツ選手用のビザ)を用意させたり、飛行機代だって交渉します。だから、基本ギャラを出してもらえるところを探します。結果的には、渡航費は出ないことも多いので、だいたいはトータルでは赤字にはなりますが」

昨冬はグアテマラに渡った
昨冬はグアテマラに渡った

 昨年は、夏はアメリカのセミプロリーグ、冬はグアテマラのプロリーグでプレーした。今シーズンもプレーを続けるつもりだったが、コロナ禍で身動きが取れない状態になっている。それでも、あと2、3年はプレーするつもりで、トレーニングは積んでいる。

 まさかまだ日本のプロ野球(NPB)を目指しているわけでもないだろうと、話を振ると、安井はいたずらっぽく笑ってこう返してきた。

「採ってくれたら行きますけれども、当然採ってくれないでしょう。でも30歳ぐらいまでは本気で目指してましたよ。NPBの振り回してくるバッターなんか、かえって僕の球の方が合わないと思うんです。自分自身では打たれる気はしないですけれども。1%の可能性がある限り…、まあ、もうないですけれども」

 コロナ禍の中、彼のようなノマドリーガーもまた、「休業」を強いられている。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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