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遅ればせながらの「球春」を前にして、城と野球場との深い関係を語る

阿佐智ベースボールジャーナリスト
国宝・彦根城を望むことができる彦根球場(滋賀)

プロ野球の開幕が決定した。しかし、毎年各地のファンを喜ばせていた地方での試合は新型コロナウイルス感染予防の観点からそのほとんどが中止になるようだ。

地方球場には、本拠地球場にはない独特の味わいがある。多くのものは外野には低い芝生席のスタンドがあるだけなので、内野スタンドからは大都会では見ることのない風景を望むことができる。とりわけスタンドからお城を望むことのできる球場は、世界中で日本にしかないものだけに絵になる。

 全国を見渡すと城を望むことのできる球場は多くあるがその主なものを紹介しよう。

福岡城内にあった平和台球場

かつて西鉄、ダイエーのホーム球場だった平和台球場は福岡城跡の一角にあった
かつて西鉄、ダイエーのホーム球場だった平和台球場は福岡城跡の一角にあった

 城と球場と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、かつての西鉄ライオンズの本拠地、平和台球場だ。のち九州にやってきたダイエーホークスもPayPayドーム(当時は福岡ドーム)が開場する1993年までの4シーズンここを使用している。ちなみに、ホークスが福岡にやってくる前の南海の本拠地、大阪球場はその威容から「昭和の大阪城」と称された。

 野球の本場、アメリカで、プロ野球草創期に建設された球場が不整形なのは、町中の街路の数ブロックを球場の敷地に当てはめたことがその理由だとはよく言われている。モータリゼーションの未発達な時代、集客施設としての球場は町中にあることが多く、かと言って、町中に広大な土地を確保することは難しかったのだ。

 日本の場合もそれは同じで、誰もがマイカーを持てるような時代ではなかった高度成長前、多くの人が集まる球場は町中になければならなかった。電車の路線が四方八方に伸びている大都市圏はいざ知らず、地方都市においては、その傾向はいっそう強かったのだろう。ただ、日本の場合、アメリカと違って、多くの都市には野球場をつくるだけの敷地をもつ施設があった。城である。江戸時代の政庁かつ領主の邸宅であった城は、明治維新により、その役割を終え、その広大な敷地が残された。その多くは、明治維新後、軍事施設である鎮台となったが、戦後、日本軍が解体されるとそれもなくなり、城跡は市民の憩いの場となった。そこにスポーツ施設が建設されるのはある種の必然だったのかもしれない。

 平和台球場が建っていたのは、福岡城の三の丸に当たる地だった。そこには戦前には、やはり陸軍の施設があった。

 地方に目を転ずれば、山形城も明治維新後は軍の施設となり、内堀も埋められたが、戦後、霞城公園となり、市営球場が建てられた。1980年に郊外の中山町に県営球場(荘銀・日新スタジアムやまがた)が開場するまで県内のプロ野球の試合はここで行われていた。

「坊っちゃん」の町のお城スタジアム

 平成以降、地方にも立派な球場が建てられるようになったが、愛媛県松山市郊外にある坊っちゃんスタジアムは、その代表格だ。二層式のスタンドを備えた収容3万人の最新鋭の設備を目の当たりにして、当時まだ旧広島市民球場を本拠とし、この球場をしばしば使用していた広島カープの選手がうらやましがっていたという逸話も残っている。

 この球場の開場は2000年のことだが、それまでこの町でプロ野球が催される際は、市内の松山市営球場が使用されていた。この球場もまた松山城内の旧三の丸に位置し、スタンドからは重要文化財の松山城の天守が望めた。

 この球場の開場も戦後の1948年。地元企業の寄付金により「松山総合グラウンド」として完成。7月に完成後、12月には巨人対金星のオープン戦が行われ、2万人の観衆で満員となった。その翌49年から公式戦も行われるようになったが、計13試合実施された中でも特筆すべきは1953年8月23日の広島対国鉄戦だ。この試合でプロ初登板を果たしたのは高校を中退して若干17歳でプロ入りしたのちの400勝投手、金田正一だった。1979年を最後に一軍の公式戦は実施されることはなくなったが、以後も毎年のようにオープン戦や二軍の公式戦が行われた。しかし、平成になる頃には、プロの本拠として次々とドームを含む新球場が建設され、老朽化の進む地方球場の設備の悪さが目立つようになった。1999年3月の対オリックスのオープン戦の際、中日の星野仙一監督(当時)はこの球場を見てプロがプレーする場ではないと激怒したという。

 また、松山は1970年まではキャンプ地としても有名で、大洋(現DeNA)、大毎(ロッテ)、中日、日本ハムがこの球場でキャンプを張っている。

眺望は日本一、かつての名門球団のキャンプ地

山陽道の名城、明石城を望むことができる明石トーカロ球場
山陽道の名城、明石城を望むことができる明石トーカロ球場

 キャンプ地と言えば、兵庫県明石市も戦前から高度成長期の初めまでプロ野球のキャンプ地として有名だった。1932年に開場の明石トーカロ球場は、草創期の巨人のキャンプ地として使用され、戦後もV9直前まで名門球団の「春のホーム」だった。その後も大洋、中日がキャンプ地として使用している。また、公式戦も1リーグ時代に行われ、1950年代初頭に存在したファームの独立球団、山陽クラウンズや、2009年から翌年にかけて活動していた関西独立リーグの明石レッドソルジャーズの本拠としても使用されていた。現在では、毎春にオープン戦が行われるが、軟式高校野球の夏の大会が行われる「もう一つの甲子園」と言った方が野球ファンの頭に浮かびやすいだろう。

 この球場もまた明石城の「殿屋敷」と呼ばれていた一角にある。明石城は、すぐ西にある姫路城の陰に隠れがちだが、高架駅のホームから指呼の間に臨める2棟の3層櫓が美しい名城である。「城と球場」という点では、3塁側スタンドからフィールドと白亜の櫓を望むことのできるこの球場が、ナンバーワンではないかと個人的には思う。

 現在球場を含む城跡は明石公園となっているが、その入り口には、この町出身の、かつてここでキャンプを張った大洋ホエールズの親会社、大洋漁業の創始者、中部幾次郎の銅像が立っている。

「サッカーの町」の変形球場

刈谷城跡にある刈谷球場
刈谷城跡にある刈谷球場

 愛知県の刈谷球場は、中日がオープン戦でしばしば使用している。この球場が位置する亀城公園は徳川の譜代大名、水野氏の居城だった刈谷城の跡で、球場は旧二の丸の敷地に建っている。1950年に国民体育大会の競技場の一部として建設されたこの球場だが、ドラゴンズの「お膝元」ではあるものの、刈谷は実は「サッカー」の町。建設当初は、外野にサッカーのピッチを設置できるよう、外野フェンスは半円形ではなく、方形を描いていた。そのため野球場としては、右中間、左中間が125.6メートルと途方もなく深かったという。サッカー場としても内野のメインスタンドからフィールドが遠いというなんとも中途半端な競技場だったが、1994年に再度国体が愛知に帰ってきた際、市内にサッカー用の競技場が新設されることになったため、野球専用の球場に改築された。

 刈谷城の本丸は、現在復元整備計画が進んでいるが、近いうちにスタンドからその威容が望めるようになるかもしれない。

まだまだある「お城球場」

新潟県の高田城跡にある高田球場からは復元された本丸の御三階櫓は望めないが、妙高の山々を望むことができる
新潟県の高田城跡にある高田球場からは復元された本丸の御三階櫓は望めないが、妙高の山々を望むことができる

 旧城内にある球場としては、新潟県上越市の高田球場も旧高田城内の出丸をそのまま敷地にしている。徳川家康の六男、松平忠輝の居城として築かれた高田城は平成に入ってから天守に当たる御三階櫓が復元され、桜でも有名な新潟県有数の観光スポットになっている。残念ながら球場から本丸まで距離があるのでこの御三階櫓をスタンドから臨むことはできないが、代わりに妙高の山並みを堪能できる。この球場では例年、独立リーグ、ルートインBCリーグの新潟アルビレックスが公式戦を行っている。

 旧城内には位置していないものの、スタンドから天守を望むことができるのが、滋賀県の彦根球場と愛媛県の川之江球場だ。ともに城に隣接した敷地にあり、彦根球場の場合、3塁側内野スタンドから国宝の現存天守が望める。川之江の場合、センター後方の裏山が仏殿城という中世山城で本来は天守などないはずなのだが、1984年に博物館として建てられた模擬天守を内野スタンドからフィールド越しに臨むことができる。彦根球場では、過去にはプロ野球の一、二軍の公式戦が行われたが、近年はなく、今シーズンはBCリーグのオセアン滋賀ブラックスが数試合主催試合を行う予定である。川之江も独立リーグとアマチュア専用と言った感じで、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツが毎年公式戦を行っている。

背後に山城の天守をいただく川之江球場
背後に山城の天守をいただく川之江球場

 このほか、県都・新潟市にハードオフエコ・スタジアム新潟ができるまではプロ野球の公式戦もたびたび行われていた長岡市の悠久山球場からも城の天守が望めるが、これは破却され市街地に埋もれてしまった藩政時代の城を偲んで建てられた模擬天守である。

長岡・悠久山球場は、イチローが野茂英雄からプロ初ホームランを打ったことでもその名が知られている
長岡・悠久山球場は、イチローが野茂英雄からプロ初ホームランを打ったことでもその名が知られている

 以上、全国各地のお城を望める球場を紹介したが、現在、石垣などの原型をとどめ、歴史的価値のある城跡については、国が史跡指定をして建築について制限がかかるようになっている。また、各自治体の方も、城跡を観光資源として利用する方向性を示しており、現在旧城内に立地している球場は、老朽化とともに姿を消していく傾向にある。

 平和台球場も、ドームの建設如何にかかわらず、遅かれ早かれ取り壊される運命にあった。平和台、福岡城三の丸は、近世から遡って古代から要所であったらしく、球場の下には、平安時代の外交交易施設、鴻臚館の遺構が眠っていたのだ。現在球場跡は史跡公園に生まれ変わっている。また、山形城も現在破壊された内堀と建物が復元され、かつて存在した市営球場は他のスポーツ施設とともに取り壊され、郊外の公園に移転している。

 今年はコロナ・ショックもあって地方球場ではプロ野球を観る機会はなくなってしまったが、ここで挙げた球場では独立リーグや高校野球の試合も行われる。コロナに打ち勝った暁には、お城を眺めながらの「殿様気分」で野球観戦という日本でしか味わえない風景を楽しみたいものだ。

(写真はすべて筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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